第12話 福寿会
翌朝。そろそろ川津モータースへ出かけようかと準備をしている所へ自宅の電話が鳴った。
「はい。もしもし……あ、社長! おはようございます」
明るく挨拶する今日子に対して西崎は何故か声のトーンが低かった。
『あぁ、今日子ちゃんどうも。あのぅ、その……実はな……?』
「どうかされました? 車……ダメになったんですか?」
現時点で考えられる最悪の結果を今日子は想像して、恐る恐る聞く。
『あぁいやいや。車は用意出来たんだ……ただなぁ……』
「……ただ?」
最悪の結果はとりあえず無さそうだったので、今日子はひとまず胸を撫で下ろした。しかし、やけに西崎も歯切れが悪い。
『と、とりあえずあれこれ説明するより来てもらった方が早い……かぁ。ちょっと〝おまけ〟っつーか、なんと言うか』
「おまけ?」
『おまけとはなんじゃ馬鹿もん!』
『――と、とりあえず来てから説明するわ。じゃ、じゃあ後でな』
今日子の質問には答えず西崎は電話を切った。何か後ろの方で怒鳴るような声が聞こえたような……
「? ? ?」
ひとまず〝トシオ〟を急がせ川津モータースへ着いたのは十分後のことだった。入口で声をかけたものの反応が無かったため、今日子は裏へと回り例のマイクロバスがある場所へと歩いて行く。
「あ、いた」
今日子は西崎の姿を確認する。するとその傍らに非常に小柄な老人がいた。
「?」
老人は杖を正面に突き立て仁王立ちしている。やがて西崎は今日子の姿に気づき、片手で拝む格好をしながら小走りで駆け寄ってきた。
「いやぁ、悪い悪い。実は後ろの爺さんなんだけど……元宍道湖交通の運転士でさ。もう随分昔に引退した人なんだが、昨日あれから別件で爺さんが来た時に、茶飲み話のつもりで今日子ちゃんの話しちゃったんだよ。
そしたら爺さん急にスイッチ入っちゃって『ワシが鍛えちゃる!』って聞かなくてなぁ……いや、本当に悪い」
西崎は本当に申し訳無さそうに頭を下げた。今日子もまだ事態は完全には把握出来ていなかったが、元運転士と言えば大先輩である。その老人に興味は沸いてきていた。
「わ、わかりました。とりあえずお爺さんと話してみますね」
今日子は西崎の肩越しに老人の姿を再度認めるとおずおずと歩み寄って行った。
「あ、あの……はじめまして……高梨今日子と言います」
今日子が挨拶をすると老人は首だけを今日子の方へ向けて頷いた。ベージュのハンチング帽の下に度の厚い黒縁眼鏡……その奥底から力強い眼差しが今日子へ向けられていた。
「……うむ。話は聞いちょる。幸枝さんにはわしらも世話になっとるでな。何か礼が出来んもんかと思っとった矢先にこの話じゃ。一肌脱がせてもらう」
西崎と同じくこの老人も幸枝と交友があるらしい。我が母親ながら顔の広さに驚く。
「あの……母とはどういう」
今日子が尋ねると老人は遠くを見ながらぽつりぽつりと話しはじめた。
「……いつだったかのう。連日に渡る戦闘でわしゃもう飲まず食わずだったんじゃ……もうここで終わりかと観念した時になぁ。幸枝さんが現れた。幸枝さんは手にパンを持っておってなぁ『良かったら食べて』と……わしに差し出してくれよったんじゃ。
わしはもう無我夢中で食べた。ありがとう、ありがとうと言って――ぐわっぷ!」
時代背景が明らかにおかしい上にかなりオーバーに聞こえる。〝パン〟ということは幸枝が勤める工場の関係者だろうか。老人は話の途中で背後から背中を叩かれたらしくむせていた。
「何が戦闘だよ! あんた戦争終わった直後に産まれたって言ってたじゃないか。ごめんねぇ今日子ちゃん。ただいつも私らが公園でゲートボールしてると幸枝さんがちょっと型の崩れたパンとか『どうせ捨てるやつだから』って差し入れしてくれるのよ」
老人の背後には見慣れた顔のふくよかな老婆が立っていた。
「山口のお婆ちゃん!」
山口のお婆ちゃんと呼ばれたその老婆は今日子の家の近所に住んでいた。亡くなった祖母の友達で小さい頃にも良く遊んでもらった記憶があった。
「あーなんだ。そういうこと……アハハ」
苦笑いする今日子だが老人は尚も――
「馬鹿もん! ゲートボールはわしにとっては戦場そのも――ぐわっぷ!」
老人は再び叩かれむせていた……
右手に今日子、左手に数人の老人達……これが高校野球の試合前なら、さしずめ自分は審判だな……と、無理やり紹介役をやらされることになってしまった西崎は心の中でぼやいていた。
「……えー、それでは……こちらが宍道湖交通見習い運転士の高梨今日子さんです。
昨年お亡くなりになられました高梨〝朝子〟さんのお孫さん、そして幸枝さんの娘さんになられます」
同じ町内である。元運転士という小柄な老人以外は、何度か見たことのある顔ぶればかりだった。死んだ祖母とこの人達は長い付き合いだったのだろう。今日子は紹介を受けながらそう思った。
「た、高梨今日子です! 生前中は、祖母が何かとお世話になりありがとうございました。それから、母がいつもお世話になってます」
頭を深々と下げては見たものの、本当はこれから練習の予定のはずだったのだが……と予想していなかった展開に今日子は戸惑う。
「……えー続いてこちらが〝福寿会〟の皆さんです。奥から、雪さん」
西崎は手で指し示して紹介する。
「雪ですぅ。朝子さんとは私もお友達だったのよぉ? 今日はお孫さんのお手伝いが出来るって聞いて来たの。よろしくねぇ」
白髪の髪を後ろで団子にした小柄で可愛いお婆さんだった。
「続いてその隣が初枝さんです」
年のわりに腰もしっかりした細身の元気そうなお婆さん。ぐりぐりパーマで、原色の派手な服装が印象的だった。
「アタシも暇じゃ無いんだけどね。幸枝さんには借りがあるから、協力させてもらうよ」
「そのまた隣が源治さんです」
初枝の隣。農協の販促キャンペーンで貰ったのだろうか、農薬の銘柄のロゴが入った黄色いキャップを被ったジャージ姿のお爺さんだった。口をもごもごさせている。
「……」
反応が無い。
「……源さん、源さんでば!」
西崎が大きな声で呼ぶとようやく――
「バスがただで乗れるって聞いて来た! もごもご」
「……アハハ」
西崎も今日子も苦笑い。
「え、えー次が先ほどの久子さんです」
「やだよぅ、もう今日子ちゃんは孫みたいなもんなんだから紹介なんて……ねぇ!」
短くまとめられた髪を恥ずかしそうに整えながら久子は笑った。
「はい。では最後が――」
「わしが宍道湖交通運転士一筋四十年。岩田六郎じゃ! バスのことなら任せろ」
岩田は手にした杖を左手だけで持ち、右手で敬礼をして見せた。
「……!」
今日子も慌てて敬礼をする――というかいつの間にか全員で練習をすることで話が進んでしまっている。いや、今日子が到着するずっと前から〝福寿会〟のメンバーではそういう話になっていたのかも知れない。
「良し! 全員揃ったの。では皆の衆バスに乗り込め。西崎、お前もじゃ」
これで解放されると安堵していた時にいきなりの指名で西崎は焦る。
「お、俺も?」
「当たり前じゃろうが。誰が車両の説明をするんじゃ? 初日くらい付き合え」
自分が撒いた種とはいえ、涙目の西崎の悲鳴が聞こえてきそうだった。
「おれも仕事あるのになぁ~……」
何はともあれ賑やかになってしまった今日子の〝特訓バス〟は川津モータースを発車した。まずは〝東出雲八雲線〟の終点から復路スタートしようと言うことになり、車両の説明を受けながら一路松江市の最東端、東出雲町を目指していた。
運転席に今日子。監督席が岩田。今日子の真後ろが西崎。源治が左側最後尾の席を陣取り、女性陣は中央付近で固まっていた。
「マイクが必要だと思ってな。元々付いてはなかったんだが、オーディオいじくってピンマイクでスピーカーから声が出せるようにしといた」
さすが川津モータースのオーナーである。こういう痒いとこに手が届く気遣いが、近所の固定客の心を掴んで離さない。
「うわぁ、助かります!」
信号待ち中に西崎からピンマイクを受け取り、今日子はベストの襟に取り付けた。
ルームミラーで自分の姿を確認する。謹慎中に制服でうろうろするわけにも行かないので、ワイシャツそっくりの襟付きの白いブラウスに細身のネクタイ。黒いベストにスラックスと、なるべく運転士っぽく見えるような服装で気合いを入れてきたのだが、さすがに制帽は被れなかったので、髪を後ろでまとめるだけに留めておいた。
やがて東出雲八雲線の終点、下意東連絡所に到着した。今日子は誰かに会ったらどうしようかと心配していたのだが、幸い宍道湖交通のバスは一台もいなかった。ここは松江営業所と安来営業所の両方からバスが来るので遭遇確率は高い。出来れば長居したくない場所だった。
「ふむ。運転の基本は習得しとるようじゃの……二ヶ月弱でこれなら良い指導者に巡り会えたと見える」
「あ、ありがとうございます」
島崎の分まで褒めてもらえたようで今日子は嬉しかった。
「で、目標はアナウンスをしながら今以上の運転が二週間で出来るようになりたい。ということで良いんじゃな?」
「はい。よろしくお願いします」
岩田は監督席で目を閉じたまま、しばらく思案していた。
「良し。ではこの特訓のルールを取り決める。まず、本来停留所は一般車両は駐停車禁止場所じゃ。むやみやたらに停めとったら試験までに免停になってしまう。よって……停車場所は基本的に停留所の一つ先か手前の電柱ということにする。もしそのどちらも安全に停められん場合はパスじゃ。いいな?」
「わ、わかりました」
「次に車内放送の設備も無いわけじゃから、次の停留所の案内もついでに喋るんじゃ」
いつかの島崎との練習を今日子は思い出した。
「あ、それならしたことがあります!」
岩田は頷いて最後尾にいた源治を呼んだ。
「源……こら源!」
大声を出すがなかなか源治は気づかない。
「源治っ!」
「――大声出さんでも朝飯は食ったわい!」
後ろで源治が怒鳴り返した。
「誰もそんなこと言っとらん! ちょっとこい」
岩田が手招きすると源治はよたよたと前の方にやってきた。
「あれは持ってきたか?」
源治は背負っていたリュックサックを下ろし中から何やら取り出す。それは仏壇に必ずと言って良いほど備え付けられている〝あれ〟だった。
――チーン――
確か〝お鈴(おりん)〟だったか……あまり名称で呼ばれるような物ではなく今日子もあやふやだったが、確か祖母の葬儀の時に親戚の誰かが言ってたように記憶している。それを見るなり岩田は源治の頭を叩く。
「誰がこんな縁起でも無いもん持ってこいって言ったー!」
「だから朝飯は食ったと言うとろうがっ!」
源治は頭を押さえながら猛烈に抗議した。
「ま、まぁえぇわい。何かでかい音が鳴るもん持ってこいと言ったんだがのう……これしか無いなら仕方ないわ。
えぇか? わしが適当にこれを鳴らす。それが降車の合図じゃ」
今日子は苦笑いで頷くしかなかった。
「良し。では発車じゃ。準備が出来たらいつでも行くが良い」
岩田は監督席で胡座をかき、腕を組んだ。
「なんだかピクニックみたいねぇ」
「本当にねぇ」
「ちょいとあんたたち。今日は遊びに来たんじゃないんだからね?」
後ろで女性陣の会話が聞こえる。そういう初枝が一番楽しそうに見えた。
「……で、では行きます」
今日子はマイクのスイッチを入れ、緊張を解きほぐすかのように両肩を揺すった。
「あ、あー……あ、あ。ん……お待たせしました。揖屋駅、八雲支所経由、松江駅行き発車します! ピガー!」
宍道湖端のアナウンス練習の勢いで大声を出してしまった。スピーカーからノイズ混じりの激しい雑音が響き渡った。
「や、やかましい!」
「いくら耳が遠くても聞こえてますよぉ」
「昼飯はまだかー!」
後ろから数多くの悲鳴と苦情が聞こえた。
「す、すいません! 発車します」
ようやくマイクロバスは下意東連絡所の端から発車した。車体の大きさからすればえらく大回りをして今日子は本線に出た。
「ん? そこまで膨らまんでも出れたんじゃないのか?」
岩田の至極もっともな質問に今日子もある程度予想していたのか、すぐにその理由を答えた。
「いつものバスより小さくて取り回しが楽は楽なんですけど、この大きさに慣れてしまうと後が怖いかなって……だからいつものバスのタイミングでハンドルを切りました」
岩田は今日子の回答に感心して頷く。
「えぇ心掛けじゃ。マイクロで楽しようとしとったら〝渇〟を入れにゃならんと思っとったでな」
「お、恐れ入ります」
今日子は前を向いたまま会釈をした。 その時だった。
「源さんほら、漬物持って来たのよぉ。食べるぅ?」
ふいに雪が立ち上がり通路奥へ歩いて行く。
「――危な!」
驚いた今日子が慌てて減速しようとブレーキに足をかけ――
「ブレーキは踏むな!」
岩田の大きな声に、今日子はぎりぎりブレーキを踏まなかった。
「今ブレーキ踏んだら雪さん間違いなく転んどったぞ? あぁいう時はな。マイクで着席を促してゆっくり減速するんじゃ」
岩田のアドバイスに今日子は納得しつつも、背中から溢れ出る嫌な冷や汗の感じは消えなかった。考えてみたら島崎以外の人間を乗せて走るのは初めてである。これが人を乗せて神経を〝すり減らす〟ということか……
「あ、ありがとうございます……走行中は席をお立ちになりません様、お願いいたします」
改めて今日子は注意のアナウンスをした。
「あらぁ、ごめんなさいねぇ」
わかっているのかいないのか源治の隣で雪は笑って答えた。軽く深呼吸をして今日子は自分を落ち着かせた。しかし、この岩田のお爺さんは何者なのだろう。バスに乗った瞬間更にパワーアップしたように感じる。先ほどの反射神経も明らかに七十代半ばのそれでは無い。元バスの運転士というだけで、ここまで元気になれるものだろうか……
「ふふん。走行中に乗客が立つことは良くあることじゃ。おまけにわしら足腰が悪い。ひと度転べば当分入院じゃろうの。良い特訓じゃわい」
岩田はケタケタ笑って見せた。今日子はシャレにならない冗談に唇を尖らせる。
「お、脅かさないでください」
――チーン――
やがて〝お鈴〟の音が鳴る。降車の合図だ。
「は、はい。次〝平賀〟停車します」
しばらく走ると前方に平賀の停留所が見えて来た。そろそろ降車のアナウンスをしないと間に合わない。しかし――
「ご、ご乗車……あ、ありあり、がとうございました。平賀、停車し、しまぁす! バスがバッス完全――!」
アナウンスが終わらないうちに目標の電柱が目前に迫る。間に合わないと判断してしまい、今日子は強めにブレーキを踏んでしまった。全員の体が前に持って行かれそうになる――
きーっ!
激しいブレーキ音と共にバスは停車した。
「ちょっと何? 今の」
「今日子ちゃん驚かせないで~」
「昼飯の時間か!」
今日子も自分が何をしでかしたかはっきりと認識していた。立っている乗客がいたら間違い無く〝アウト〟だったろう。岩田も額の冷や汗を拭う。しかし笑っているようにも見えた。
「課題ははっきりしたの。こりゃ鍛え甲斐があるわい」
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