第11話 自主練
いよいよ今日から二週間、たった一人でのトレーニングが始まる。
昨日、島崎から受け取った用紙に書いてあった検定の注意書きを、今日子は自室で確認していた。それによると教育終了検定はまたの名を〝第一見極め〟とも言うらしく、基本的に教育担当者と運行管理者一名が乗車しテストを行うらしい。運転技術、運賃収受、車内アナウンス、接遇が実際の運行に耐えられるレベルかを見極める内容となっていた。
晴れて合格すると初等教育過程終了となり、翌日から先輩運転士のバスに乗り込み〝側乗教育過程〟というものが約一ヶ月行われる。一定期間は片道は先輩の運行を見ながら学習し、もう片道を先輩に監督してもらいながら実車を運行する。慣れてきたら今度は監督してもらいながら往路復路両方を運行することになる。
そして最終日がいよいよ最終検定、通称〝第二見極め〟が行われる。今度は実車を運行しながらのテストとなり、乗客と共に試験官が乗車し実戦のテストを行う。
これに合格出来れば晴れて一人前の運転士と認められることとなり、翌日から他の先輩達と同じようにシフトに組み込まれ、運転士としての日常が始まる――という流れだった。
「先はまだ長いなぁ……あぁダメダメ! 千里の道も一歩から。先ずは第一見極め合格だ」
今日子は島崎から受け取った用紙をショルダーバッグに入れ、出かける準備を始めた。
玄関の脇に今日子の愛車の赤い小径自転車が置かれていた。会社に置いたままになっていたのを昨日島崎が届けてくれたものだ。
今日子はしばしの間自転車を見つめていた――
「!」
瞬間今日子の頭に天啓が舞い降りる。
「……そうだ。辞令! 本日よりお前の名前は〝トシオ〟!」
今日子は愛車を指差し命名した。トシオに跨がり小春日和の街の中を目的地へ向けて出発した。
自宅から自転車でおよそ三十分。宍道湖の湖畔に今日子は立っていた。と言っても観光客が来るようなところでもなく、地元の人間しか知らない寂しい場所であった。
見渡す限り人影は無く葦の藪が生い茂り、そこを潜り抜けるといつか島崎と見た時と同じ、空も湖面もブルーの景色が広がっていた。
ここはたまに釣り人が訪れるくらいで普段は人もあまり寄り付かない。これから始める〝こと〟には打ってつけの場所だった。
今日子はバッグに入れていた用紙を取り出した。
「あー、あー、ん……ん、あー! ……良し」
「お待たせしました。乃木駅、玉湯支所経由宍道連絡所行きです。ご乗車ください!」
「鹿島車庫行き発車します。ご乗車のお客様いらっしゃいませんか? ドアが閉まりますご注意ください!」
「お待たせしました。八雲支所、揖屋駅経由、下意東連絡所行き発車します!」
「本日は、宍道湖交通をご利用頂きまして誠にありがとうございます。このバスはマリンプラザ経由、美保関バスターミナル行きとなっております。
本日も車内事故防止にご理解ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。
走行中、席をお立ちになられますと大変危険です。お降りの際は、ご案内しますまでお席からお立ちになりません様、ご協力何卒よろしくいたします!」
「ご乗車ありがとうございました。鹿島支所停車します。危険ですのでバスが完全に停車するまでお待ちください!」
「ご乗車ありがとうございます。発車します、ご注意ください! お立ちのお客様、吊革、手摺等から手をお離しになりません様、くれぐれもお気をつけください!」
「本日も宍道湖交通をご利用頂きまして、誠にありがとうございました。間もなく松江駅に到着します。お降りの際はお忘れ物がございません様、今一度お確かめになってからお降りください。
○番乗り場にお着けします。ご案内しますまでお席からお立ちになりません様、よろしくお願いいたします。
本日も宍道湖交通をご利用頂きまして、誠にありがとうございました。バスが完全に停車するまでもう少々お待ちください!」
「ご乗車中のお客様にお願い申し上げます。現在車内が込み合って参りました。ご相席可能なお客様いらっしゃいましたらよろしくお願いいたします。又、お立ちのお客様につきましては、通路奥からお詰め頂き、乗車口付近はお空け頂きます様、ご協力よろしくお願いいたします!」
「ご乗車中のお客様にお願い申し上げます。本日雨の影響で通路が濡れており大変滑り易くなっております。お降りの際はお足元十分お気をつけになってお降りくださいます様、よろしくお願いいたします!」
「本日も宍道湖交通ご利用頂きまして誠にありがとうございます。ご乗車中のお客様にお知らせします。本日イベントのため交通規制が行われており、一部経路変更にて運行しております。
本日はこのあと、朝日町交差点を右に曲がりまして、新大橋南詰め停留所、新大橋北詰め停留所、臨時日赤病院前停留所と運行しましてから通常経路、京橋停留所へ復帰します。天神町方面は参りませんのでご注意ください。
一部お客様には大変ご不便おかけしますが、よろしくお願い申し上げます!」
あくまで車内アナウンスなのだが、広大な宍道湖に向けて言うため、知らず知らずのうちに叫んでしまい宣誓のようになってしまう。
およそこれが島崎曰く、良く使うアナウンス十パターンとのことだった。お知らせや注意、組み合わせ等を考え出したらバリエーションは無限大に広がっていくらしい。
喋ることが好きな運転士は自分なりに考え、レパートリーをどんどん増やしていくみたいだが、中には長い文章もある。今の今日子にはこれを覚えるだけでも骨が折れそうだった。
「と、とりあえず暗記だけでも今日中に終わらそう」
人それぞれやり方はあろうが、今日子の暗記の覚え方は、頭の中で言う、言葉に出して言う、文字にして書く、声を出しながら書く。の順に頭に良く入るようだった。
ただし今回の場合は〝声に出して無意識に話す〟ことが主目的の作業のため、ただひたすら声を出して覚える方が良いだろうと、今日子はこのやり方を取った。
ただ暗記が出来て終わりでは無いのだ。これを喋りながら運行をスムーズ且つ安全に行わなければならない。暗記の習得レベルで言えば最高難易度だ。気が遠くなる気分を封じ込め、今日子はただひたすら声を出し続けた。
その頃、宍道湖交通松江営業所の所長室。デスクに座る永嶋を、ノックもせずに飛び込んで来た柴田が鬼の形相で一枚の用紙を差し出し問い詰めていた。
「どういうことですかこれは! 二週間の謹慎? 何故解雇してしまわなかったんです」
手には掲示板に貼り出されていた今日子の辞令がある。あまりにも予想外だったのだろう。怒りの中に焦りが透けて見えていた。
そんな柴田の剣幕をよそに、表情ひとつ変えないで永嶋は答えた。
「まぁ落ち着けよ柴田。これでも関係各所に角が立たないように総合的に判断した結果なんだから」
「角が立たないように? アルコール反応が出た新人なんて、首を切ってしまうのが一番角が立たないでしょうが!」
柴田の勢いは止まらない。しかし――
「煩い。少し黙れ」
永嶋の感情を含まない冷酷な声が柴田を射抜く。宍道湖交通の上層部や各営業所の所長達、ひと癖もふた癖もある運転士達の中を渡り歩いて来た永嶋の貫禄勝ちだった。
「………くっ」
柴田は悔しさを露にする。
「とにかく決まったことだ。もう状況は動き出している。覆らんよ」
「後悔することになりますよ? 必ず!」
柴田は悔し紛れに捨て台詞を吐いて所長室を出ようとした。
「俺には……彼女こそがお前を暗闇から救い出してくれるような気がするのだがな」
「――な、何を!」
言いかけたが柴田は言葉を飲み込み所長室を後にした。
デスクから立ち上がり永嶋は窓の外を見た。停まったままの教習車が見える。永嶋も何かを思い出しているようだった。
「さぁ、見せてみろ。バスマンとやらを」
「ご乗車ありがとうございます。発車します。ご注意ください。お立ちのお客様、吊革……」
「ご乗車ありがとうございます。発車します。ご注意ください……えっと……お、お立ちのお客様、吊革、手すり等から手をお離しになりません……」
「ご乗車ありがとうございます。発車します。ご注意ください。お立ちのお客様、吊革、手すり等から手をお離しになりません様、くれぐれもお気をつけください!」
何度も何度も諳じて言えるようになるまで繰り返す。結局この日、ある程度頭にいれることが出来たと今日子が納得したのは、日もすっかり落ちた頃だった。
「ごめんくださーい! おはようございます」
次の日。今日子は近所の自動車整備工場〝川津モータース〟の玄関口にいた。
川津モータースは自動車の販売修理、車検や板金塗装、果てには解体まで手掛ける車の総合専門店……と言えば聞こえが良いが、従業員は社長と息子の二人しかおらず、掘っ建て小屋のようなガレージで細々と営業している、所謂〝街の修理屋さん〟だった。
今日子の家の軽自動車もここから中古で購入した物で、車検や修理等、大手と比べたら若干高いが何かと融通を利かせてくれるので昔から利用していた。
ガレージの中は修理中の車が中央に一台。周りには雑多な部品や工具が所狭しと散乱しており、辺りには鉄やオイルの匂いが漂っていた。
「ぅーい。どなたー?」
奥から白いツナギを着た島崎と同年代くらいの小太りの男が薄くなった頭を撫でながらゆっくり出てきた。
「おー! 今日子ちゃんじゃねぇか。いつもどうもな。今日はどしたい?」
男はそう言うと首に掛けたタオルで顔を拭き、申し訳程度の身なりを整えた。彼が川津モータースの社長、西崎保夫だった。
「社長、朝からすいません。実はちょっと折り入ってお願いがありまして……」
申し訳無さそうな笑みを浮かべる今日子に、普通の依頼じゃないなと西崎は予感していた。
「はぁ? バ、バスだぁ?」
西崎は飲みかけのお茶を吹き出しそうになった。
川津モータースのガレージの奥に事務所とは名ばかりの四畳半ほどのスペースがあり、どこからか拾って来たのであろう丸型のテーブルに向かい合って西崎と今日子は話していた。
今日子から車を二週間ほど貸して欲しいという申し出があった時は、さして驚きもしなかった。高梨家に車が一台しかないのは知っている。おそらく友達と旅行か何かで一時的に必要になったのだろうと西崎は思った。
しかし話を進めて行くうちにどんどん西崎の予想の範疇を越え、結果的に驚くべき要望を今日子から申し入れられたのだった。
出来ればマニュアル車。
出来れば大きいバンタイプの車。
出来ればバスのような車。
西崎の長い長い車屋人生の中で、二十代の女性からそのような依頼を受けたことなど、初めてだったのは言うまでもない。最初はなかなか信じてもらえなかったが、順序立てて今日子は西崎に事情を説明し、なんとか理解してもらえたようだった。
「はぇ~……今日子ちゃんがバスの運転士たぁ驚きだぁ。けど昔からバス見ると大喜びだったもんなぁ。それがついに運転士たぁねぇ」
西崎は我が娘のように喜んでくれた。小さい頃の今日子を知っていただけに感慨深いものがあるのだろう。当然〝あのこと〟も人づてに知ってはいたが西崎は言わなかった。
「はい。けど謹慎中だし会社のバスで練習が出来なくて困ってるんです」
今日子はばつが悪そうに謹慎の理由も明かした。西崎はそれを聞いて大笑いする。
「タッハッハッハ! バスの運転士が二日酔いたぁいけねぇなあ。けどこれで酒の怖さがわかったろ? もう二度とすんじゃねぇぞ?」
「はい。身に染みて反省しています」
今日子は恐縮して頭を下げた。
「ふむ……他でもない今日子ちゃんの頼みとあっちゃあ仕方ねぇな。付いてきな」
川津モータースの裏にはわりと広い更地が広がっている。中古車やら廃車待ちの車、部品取りにバラバラにされたような車やらで溢れかえっている。西崎に案内され多種多様の車の間を縫うように奥へ奥へと進む。
やがて今日子の視界に〝ある物〟が見えてきて足を止める。それと同時に西崎も立ち止まった。
「旅館やってる知り合いが客の送迎に使ってたヤツだ。この度買い替えるってことでお払い箱になってたのを、古いこともあったし〝格安〟で買い取らせてもらった」
ずる賢そうな含み笑いをしながら西崎はその車のボディをぽんぽん叩いた。
「マイクロバス……」
飾りっ気の無い茶色のボディにシルバーのバンパー。いつも乗っているバスより一回り小さい。ボディ横には小さくその旅館であろう名前が描かれていた。
「古いが上物だ。今各方面へ色々買い手を探しているんだが……なかなかな。ま、最悪海外って手もある〝中型バス〟ってわけにはいかねぇけどマニュアルだし練習にはなるだろう。
二週間。油代はそっち持ちってことで構わねぇなら、車検もまだ残ってるし明日までに乗れるようにしといてやる」
バスは大きさで言うと主に三つの種類で分類することが出来る。
最初に〝大型バス〟これは主に観光バスや高速バス等に良く使われている長さが十二メートルもある長物である。
次に〝中型バス〟長さが九~十一メートル程度となり、一般的に〝路線バス〟と言えばこのサイズを指す。宍道湖交通のバスもほぼ全てがこのタイプだった。
最後に〝小型バス〟や〝マイクロバス〟と呼ばれる物。七メートル程度の長さで、送迎やコミュニティバス等に最も良く使われているのがこのタイプである。
免許は運転するだけなら大型、中型バスは大型免許。小型、マイクロバスは中型免許。乗客を乗せて運賃の収受をする場合は更に〝二種〟が必要になってくる。
今日子はまずは練習用の車両が見つかったことに安堵した。最悪高い料金を払ってレンタカーででも……と心配していたからだ。
それと同時に見習いでまだまだ運転も怪しいものだとわかっているだろうに、気前良く貸し出してくれた西崎の気持ちにも感謝した。
「社長ありがとうございます! 恩に着ます。このお礼はいつか必ず」
「やめてくれよ~。いつも幸枝さんにはこっちも世話になってんだし、お互い様だ。それでこそうちみたいなボロい車屋でもなんとかやって行けてんだから。気にすんな! じゃあ、明日朝また来な」
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
今日子は何度も西崎に頭を下げた。
帰り際、たった二週間ほどだが相棒となるそのバスへ今日子は視線を送る。まだ日は高い。アナウンスの更なる習熟を目指し、今日子は再び宍道湖へ向けてトシオを走らせていた。
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