第10話 再起
今日子が帰宅するバスによろよろと乗り込んだのを確認してから、永嶋は柴田と向かい合うようにテーブルを挟んで対面のソファーに腰かけた。
「困るんだよねぇ。前途ある若者を、まだ花も咲ききらないうちから摘まれるのは」
永嶋は右手で後頭部をさすりながら視線を柴田へ向ける。
「本当のことを言ってやっただけです」
柴田は悪びれることもなく平然と言ってのけた。
「何をそんなに苛立ってるんだ?」
「苛立つ?」
所長室に入ってきてから初めて柴田の表情に僅かながら変化が表れた。
「何か勘違いをしているようですが……みんなあの新人に何を期待しているんです? 最近になって増えてきた〝軽い気持ちで入社してくる奴〟と何も変わらない。遅かれ早かれ現実を知れば辞めていくんです」
柴田は体を預けていた背もたれから身を乗り出し、永嶋を見据えた。
「それに……」
「それに?」
柴田は一瞬の躊躇いを持ったようだったが話を続ける。
「あの目を見たでしょう? ……そっくりだ〝アイツ〟と。何の疑いも無くまっすぐに前だけを見て輝かせてる」
永嶋は黙って聞いていた。
「何も知らない癖に自分の頭の中で理想を作り上げて……そんな自分に酔ってる。
結果アイツはどうなりましたか? このまま行けば間違いなく奴も同じ道を辿るんだ。繰り返される前に悪い芽は摘んでおくべきです」
どこか苦しげに言い終わると永嶋の言葉を待たず部屋を出ようとした――
「まだ、あの日の自分が許せないのか?」
永嶋は柴田を見ず、どこか遠くを見つめながら言った。柴田も出入口のドアの前で永嶋に背を向けたまま答える。
「ハッ……許せないんじゃありません。寧ろ感謝しているくらいだ。アイツのおかげで俺達はどこまで行っても〝運び屋〟だってことが再認識できた。俺達はホストじゃない。客を喜ばせる必要はこれっぽっちも無いってことがね」
「お前はまだ、闇の中にいるんだな」
柴田は永嶋に気づかれぬようにぎゅっと下唇を噛んだ。
「新人の身分でアルコール反応。どう考えても正社員登用なんてあり得ない案件だ……俺が謀らずとも、自滅してくれてホッとしてますよ本当に。後は──英断を期待していますよ〝センパイ〟」
そう吐き捨てると柴田は部屋を後にした。所長室のドアを閉め一瞬立ち止まる。先ほどから血が出るほど握りしめていた拳を壁に叩きつけた。
「……クソがっ……!」
「そりゃあんたが悪い! 次の日仕事があって、その前にアルコール検査があるのわかってんのに何やってんの!」
自宅に強制送還させられた今日子は、帰宅してきた幸枝に事情を説明し現在台所で説教の真っ最中であった。
「だって、シバターが……」
「シバターは関係ないの! ちゃ、ちゃんと柴田さんって言いなさい!」
幸枝はテーブルをパンと叩き今日子を睨み付ける。最近は点呼前にアルコール検査があるのだそうだ。昔はそこまで厳しくなかったように記憶していた。
今日子は返す言葉も無く項垂れるしかなかった。柴田にどんなことを言われたって、それは言い訳にしかならないことを自分が一番わかっていたからだ。
プロ意識の欠如……まだ見習いとは言え、あまりにも浅はかな行動だったと反省する。
「クビ……だろうね」
今日子はお茶の入った湯飲みを両手で包み込み静かに呟いた。
「お母さんにとっても良かったよね? 私が運転士になることずっと反対だったもんね……私も少しはバスに乗ることが出来たし、これで全て丸く収まるよ。うん、良かった良か――」
乾いた音と衝撃が今日子の頬を襲った。
「なんて情けない子だろう! お母さん反対してたからって、こんなことになってクビになったとして、本気で喜ぶと思う?
馬鹿にするんじゃないよ! 娘が……子供の頃から諦めきれなかった夢を、あんたを信じて応援するって決めたんだ。応援するなら最後までするのが親ってもんだろ? あんたの……あんたの〝バスマン〟てその程度だったのかい?」
「――!」
今日子は左頬を抑えながら台所を後に二階へかけ上がって行った。
誰もいなくなった台所。幸枝はため息をひとつつき、力無く椅子に座り直した……
今日子は勢い良く自室のドアを閉めベッドに飛び込んだ。
「……」
しばらく顔を枕に埋めていたが、やがて視線を横に滑らせる。そこには小さな十センチほどの〝人形〟が枕元に転がっていた。
今日子はそれを手に取る。小さい頃から肌身離さず持ち歩いていたものだ。毛糸で作ったその小さな人形は、制帽を被り運転士の姿形を模してあるようだった。もう何度も何度も今日子が握りしめ、汚し、洗濯しての繰り返しで色も褪せ形も崩れている。
『やだ! 私もバスマンになりたい!』
小さい頃の記憶が甦る。わがままを言って聞かない今日子をなだめるため、幸枝が一晩かかって作った運転士の人形。今日子はいつものように優しく人形を握る。辛い時、寂しい時、やりきれない時……気持ちを安らげてくれるおまじないだった。
ふいに、言葉にならない不安と恐怖が今日子を襲った。身体が震える。
「嫌だ……嫌だよ。ここまで頑張ったのに……他のことなんて考えられないよ。助けて……ぅさん」
気が付くと今日子は泣いていた。人形を握りしめ胸に当てる。身体を丸めて震えが止まるのを待つことしか、今の今日子には出来なかった。
次の日の朝。所長室の永嶋の前に両手をついて土下座する島崎の姿があった。
「……この度は、俺――私の監督不行き届きのため会社に多大なる迷惑をおかけして大変申し訳ありません! 普段から酒を飲まないと聞いていたものですから、飲酒についての指導が甘かったのかも知れません。
願わくば、この島崎に免じてどうか寛大な処置をお願いします!」
島崎は額を床に擦り付け永嶋に懇願した。それを見た永嶋は慌てて島崎に寄り添い彼を立たせる。
「ちょちょちょ……島さん島さん! 止めてくださいよ~。長い付き合いじゃないですか。いつも通りでいてください」
永嶋は島崎をソファーに座らせ自分も対面するソファーに座った。島崎はまだ申し訳無さそうに下を向いたままだった。
「いや、下でどんな噂になってるかわかりませんけど、私は高梨さんを解雇したりする気はありませんから」
瞬間島崎が顔を上げる。
「じ、じゃあ!」
永嶋はおもむろに立ち上がり自分のデスクから一枚の用紙を取り出し島崎の前に差し出した。
「辞令です」
島崎はその内容を見て息を飲んだ。
「! こ、これは……」
永嶋は頷いて島崎に説明する。
「これでもかなり苦労したんですよ? 何せアルコールですからね……今は関係各所本当に煩くて。
他の社員への示しもあります。後は、この期間を使って高梨さんがどう這い上がるかです」
島崎は説明を受けても困惑の表情は消えなかった。
「し、しかしこれではあまりにも……」
「貴方は一切手を貸してはいけません。そういう条件で良いなら、この辞令を高梨さんへ届けてもらえませんか?」
無理やり帰宅させられてから二日目の夜を迎えていた。依然として会社からはなんの連絡も無い。今日子はあれ以来食事もせず風呂にも入らず、プチ引きこもり状態となっていた。
あーでもない、こーでもないと様々なことを考え続けてはまたスタート地点に戻り……を繰り返していたら疲れ果ててしまい最後は考えるのも面倒になっていた。
憔悴しきった顔は見る影も無く、髪もぼさぼさでとても人様に見せられる姿ではなかったが、今となってはどうでも良かった。そう、どうでも――
「ごめんください!」
聞き覚えのある低い声に今日子は反射的に飛び起きた。
「き、教官?」
「は、はじめまして。高梨さんの教官を担当させてもらっている島崎と申します」
島崎は応対に出た幸枝に深々と頭を下げた。
「これはこれはご丁寧に……この度は馬鹿娘が大変なご迷惑をおかけしたようで、本当に申し訳ございませんでした」
玄関先で幸枝も膝をつき頭を下げる。
「やや! お母さん止めてください。会社に置いてあった娘さんの自転車を持ってきたのと、ちょっと連絡事項を伝えに来ただけですから」
島崎が恐縮していると上からパタパタと人が下りて来る音が聞こえて来た。
師匠と弟子の二日ぶりの対面だった。
「「……」」
顔を合わせたというのに二人は軽く会釈をしただけで俯いたままだった。
今日子は島崎に恥をかかせた意識から会わす顔が無いと思っていたし、島崎は島崎でみんながいる前で大声を上げてしまったことを恥じていたからだ。
見かねた幸枝が間に入る。
「ささ……こんなとこじゃなんですから上がってお茶でも――」
「やや……お母さんお気を使わず。要件を伝えたらすぐ帰りますので」
島崎は思い出したかのように手にした鞄から一枚の紙を取り出した。紙を両手に持ち目の高さまで掲げ、島崎は読み上げた。
「ぉほん……辞令。試用運転士、高梨今日子!」
「は……はい」
いよいよ来たかと、今日子は身体を固くして覚悟した。
「四月○日の点呼時のアルコール反応検査による酒気帯び状態は、当社の服務規程第○条の○に違反しており、二度とこのようなことが起きぬよう深く反省をすることを望むものとする。よって――」
今日子は目を閉じた――
「――よって、二週間の謹慎処分を命ずる!」
今日子と幸枝が二人同時に顔を上げた。
「尚、その二週間の間も教育期間は継続したものと換算し、謹慎期間終了の翌日四月○日。予定通り教育終了検定を行うものとする。当日は通常通り午前九時に出社すること。以上!」
首の皮一枚繋がった。幸枝は泣きそうな顔を堪えて今日子の体を揺すった。
「……それと」
島崎は封筒をひとつ取り出し、今日子に何も言わず差し出した。今日子が封筒を手にすると――
「ではこれで……失礼します」
島崎はそれ以上何も言わず頭を下げて出て行った。
何かを感じた今日子は急いで封筒を開けた。すると中には車内アナウンスの台詞らしき言葉の羅列が便箋にびっしりと、荒々しく書き連ねてあった。そして一番下に検定の注意事項が書いてあり、最後に――
『何をしてても上の台詞が無意識に言えるようになるまで練習すること。自分で考え、二週間を無駄にしないように』
そう、書かれてあった。便箋を持つ手が震える。一粒、二粒と涙の滴が落ちる。
『師匠は私を見捨てなかった……諦めなかった。じゃあ、弟子の私はどうする――』
今日子は玄関を裸足のまま飛び出す。小さくなって行く島崎の背中に向けて叫んだ。
「教官! 私、教官と約束しました。二度と諦めるなんて言いません。絶対、絶対やって見せますから……諦めませんから!」
今日子の声を背中に受け島崎は立ち止まる。振り返らず右手を挙げ、了解の合図とした。
「年頃の娘っ子がだらしない格好してんじゃねぇ……じゃあ、任せたぞ」
小さくなって行く島崎が見えなくなるまで、今日子は頭を下げ続けて見送った。
春の夜空の下、スウェット姿でぼさぼさ頭の女が裸足で突っ立っていた。たまに行き交う近所の人々がいたが気になんてしていられない。
今日子の死んでいた心に、再び熱い火が灯ったのだから。
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