第9話 失態
次の日の朝。いつものように始業前点検に取り掛かろうとしている今日子であったが、いつものように行かないもどかしさを感じていた。
「……」
今朝は教習車の隣に何故か〝あのバス〟柴田のバスが停められていたのだ。
なんでよりによって隣に……今日子は歯痒い想いだった。昨日の島崎の話を思い出す。あれだけお客様に対して突き放すような物言いしか出来ない人が、大雪の日ギリギリまで運行するように所長に談判しただなんて未だに信じられなかった。
今日子が知る限り松江営業所の中で、柴田が一番〝お客様のため〟という言葉からかけ離れている人物だと思っていたからだ。
今日子は恨めしそうに柴田のバスを睨んだ。
「なんであんたあんな人に使われてんのよ……」
「……俺の担当車の前で何してる」
突然の背後からの声に今日子は心臓が止まりそうだった。この声は――
「し……柴田さん。お、おはようございます」
柴田相手に挨拶などしたくなかったが、そこが新人の辛いところであった。上目遣いで恐る恐る頭を下げる。
柴田は苦々しげに舌打ちをし、今日子と向き合う。トレーニングでもしているのだろうか。歳の割には筋肉質で体格が良く見える。鋭く温度を感じさせない眼差しは、視線が合うだけで相手を萎縮させてしまうほど冷たい力強さがあった。
「まだ辞めてなかったのか? ったく島さんもビシバシやるからって言った割りにやっぱり女には甘いんだな」
柴田は鼻を鳴らしながらそう言った。今日子は島崎を馬鹿にされたような気がして反論する。
「き、教官は私を甘やかしてなんかいません」
「それはあくまで主観だろ? 端から見たらどうなのかわかったもんじゃない」
いい加減今日子も怒りがこみ上げてくる。いつも取り付く島もない柴田だったが、意を決して今日子は食い下がってみた。
「し、柴田さんはどうしてそんなに私に冷たく当たるんですか? 私柴田さんに何かしましたか? 気に入らないとこがあったら教えてください!」
もっともな意見だった。そもそも入社したばかりの今日子と柴田にはなんの接点も無く、相手にされないならまだしも〝嫌われる〟理由を見つけることの方が困難だったからだ。
柴田はしばらく黙っていたが今日子から視線は外さない。やがて――
「お前を見てると苛々するんだよ」
「い、苛々?」
柴田の言葉の意味がわからない。
「お前……それなりに夢持って目を輝かせながら入ってきたはいいが、ちゃんとこの仕事がどんな仕事か調べてから来たのか? 朝九時から夕方五時までこいつでドライブして終わる仕事だとでも思ってんのか?」
柴田は教習車を指差して言った。
「そ、そんなこと思ってません! こ、これからもっと大変に――」
反論しようとする今日子の言葉を柴田の強い言葉が塞ぐ。
「朝早くから夜も遅くまで一日十数時間日々拘束される。貴重な休日ですら人が足らないからと言って駆り出されれば疲れも取れやしない。
ひと度乗務に出れば……車内ではクレーマー共の視線に悩まされ、外では常に事故のリスクに神経をすり減らしながら走り続ける……そんな中でも安全で完璧な運行だけは必要以上に求められるんだ。
それを毎日毎日当たり前のようにこなすことがどれ程のことか、お前本当にわかってんのか? わかってないだろ? それをなんだ? ガキみてぇに無垢な笑顔で〝一生懸命頑張って一人前の運転士になります〟だ?
お前が足を突っ込もうとしてる世界はな……そんな生易しいとこでも無いし、お花畑なとこでも無いんだよっ!」
今日子は柴田のあまりな物言いに言葉が出なかった。まさかほとんど話もしたことの無いような相手にここまで言われるとは想像していなかったからだ。
「お前のために言ってんだぞ? 中途半端な運転士になって事故起こして、ぼろぼろになっちまうくらいなら今のうちに辞めといた方がお前のためだ……ほら、話は済んだ。点検の邪魔だ」
柴田は今日子を肩で押し退け、担当車の車内へ入って行った。
取り残された今日子は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
その日の夜。市内の繁華街の一角。居酒屋の店内には今日子と短大時代からの友人〝仲田佐織〟の姿があった。
佐織は今日子が〝前向き、元気系努力型〟なのに対し、一言で言うなら〝さっぱり姉御肌世話焼き系〟とでも言うような表現がピタリと当て嵌まる女性だった。
ベリーショートですっきりしたヘアースタイル。ボーダーの厚めのロングTシャツにぴったりとしたデニムのパンツ。シンプルな出で立ちだがその長身で細身な彼女には良く似合っており、時折他の男性客からの視線を集めていた。
しかし見た目を裏切るほどの超奥手な性格が災いし、友達に恋愛指南はするものの当の本人はそうした経験が全く無く、異性に興味が無いわけではなかったが、今は愛情より友情の方が彼女にとっては大切なことのようだった。
今日子が短大時代に友人達とのランチの輪の中で自分の夢を語った時に、唯一笑わず真剣に聞いてくれたのが佐織だった。以来互いの絆は深まり、卒業してからも時間を見つけてはこうして二人だけの女子会を開くようにしていた。
「ねぇ、あんたってお酒飲めたんだっけ? 私初めて見るんだけど……」
佐織はチューハイをひと口飲みながら今日子の様子を確認した。まだ生の中ジョッキ一杯だけだったのだが、既に今日子の顔は真っ赤になり目は据わっていた。
春物の白いニットを着ていた今日子だったが、真っ赤な顔と相まって本人の気分とは裏腹にめでたい色合いになってしまっている。
何があったのかは今日子がシラフのうちに聞いていたので事情は理解していたのだが、アルコールを飲むほどの事態に遭遇したのは佐織も初めてだった。
「……飲めるか飲めないかって言われたら……そりゃ飲めまへんよ? 佐織しゃん。けどね……これが飲まずにいりゃれますかぁ?」
「うわぁ……」
佐織も初めて見る今日子の姿に引き気味だった。ビール一杯でここまで酔えるなんてある意味かなりお得なのだろうが、悪い酒ならそうも言っていられない。
「その柴田って奴だっけ? まぁ随分な物言いだとは思うんだけどさ、あながち間違ったことも言ってないんじゃないの?」
「……!」
佐織の言葉に今日子は激しくテーブルを叩き立ち上がった。
「佐織しゃん! 貴女までシバターの味方れすか? 教官といい佐織しゃんといい、なんでシバターの味方するんれすかっ!」
佐織は慌てて今日子の両肩を押さえ、座るように促した。
「ちょ……落ち着きなってぇ。ほら、座って座って……すーわーれっての!
ったく。いーい? 別に私はその柴田の味方してるわけじゃないの。ただ、あんたが運転士にどれだけなりたかったかなんてことは柴田はわからないわけじゃない?
柴田は何十年もバスの業界にいた人で、どれだけ運転士が厳しくて辛い仕事かも知りつくしてるわけでしょう?
そんなとこにあんたが目ぇ輝かせて〝一生懸命頑張ります。エヘッ〟とかっていきなり入ってきて言われたら、そりゃ私でもイラっとくるかも知れないもん」
「エヘッは言って無いのれす……ヒッ」
「それにさ? 運転士って大変な仕事なんでしょ? 危険やリスクとはいつも隣り合わせで、お客さんの相手もしないといけないし……その癖長時間労働で給料安いなんて言ったら『それどんな罰ゲーム?』って素人の私が聞いても思うもん。
口は悪いけどさ、柴田も私らの父親みたいな歳のおっさんなんでしょ? 若い娘がやる仕事じゃない! 早く辞めてもう少しマシな仕事にしろ……って言いたかったんじゃないの?」
「……ぉとぅさん……」
声にならない声で何か呟いたかと思うと、今日子は再びテーブルを叩き立ち上がる。
「マシってなんれすか? 運転士はマシでは無いのれすか!」
「ちょ……もぅ! いいから座れっ! あ、すいませんどーもー」
さすがに回りの客からの視線が冷ややかになる。佐織は今日子を座らせながら愛想を振り撒く。
今日子は力無く肩を落とし、絞り出すように話し出した。
「わかってますよ……アタシみたいな小娘が、あんな達人みたいな人ばかりいるとこで頑張ってみたところで敵わないって……車もちょっとしか運転したこと無いヤツがいきなりバシュとか……そりゃもうふざけんな! ですよ。
向いてないのは、アタシが一番よくわかってますっての……
けど、けど佐織しゃん……アタシ……アタシ……バスが大好きなんれすよ……ずっと、ずっとこれしか考えてこなかったから……ヒック……他に何したらいいのか、わからなくて! 思いつかなくて!」
――涙――
俯いた今日子から大粒の涙がいくつもこぼれ落ちた。柴田に言われたことの意味を自分が一番理解していたのだ。だから余計に悔しくて情けなかった。言い返せない自分に腹が立った。
両膝の上で拳を握りしめ身体を強ばらせる。見かねた佐織は今日子の隣の席に移動し抱き締めた。
「……あんたがさ、どれだけ運転士になりたかったか私知ってるよ。お婆さんの介護で一時断念しないといけなくなった時、あんたずっと泣いてたもんねぇ……今回まだ仮採用だけど、あんたの道が開けて私も本当に嬉しかったんだ」
「佐織しゃん……佐織しゃん……」
子供のように今日子は佐織の腕にしがみついた。
「私ね? ずっとあんたを尊敬してた。若いのにやりたいことがちゃんとあって、それをみんなの前で言えるって本当に凄いなって。
小さい頃からの夢だったんでしょ? それしか無いならやるしかないじゃん? 柴田が何言ったって関係ない。何があっても私あんたの味方だから。後悔だけは無いように……やってごらんよ!」
「さ、さお▼▽%℃◆@●♀¥@◆ゑゎ‰≪∃〓→¥@…〃ーんっ!」
佐織の腕の中、声にならない声で今日子は泣いた。記憶がかろうじてあったのはここまでだった。
次の日。激しい頭痛の中、点呼場のアルコール検知器の前で今日子は立ち尽くしていた。
夕べ、居酒屋で酔っぱらって佐織の腕の中で泣いていたのは覚えてる。だけどその後どれだけ飲んだのか、どうやって帰ったのか全く覚えていなかった。
朝起きると初めてなので自信はなかったが、これが多分二日酔いなのだろうと思う激しい頭痛に見舞われていた。
この日は幸枝も早番で今日子を置いて先に出た後だった。台所には朝食と二日酔いのドリンクが用意されていた。その傍らには『羽目を外すのもほどほどに』と幸枝からの書き置きも添えられていて、母の心遣いに感謝はするものの食事は喉を通らず、ドリンクと水だけ飲んでふらふらになりながらもなんとか出社出来たという有様だった。
アルコール検知器を前にするまで、今日子は自分の置かれた状態がいかに危ういのかわかっていなかった。というか頭が回らなかった。
心臓が高鳴る。自分の記憶だけを頼りにするならばビール一杯しか飲んでいないはずだ。頭痛はするが体にアルコールは残っていないような淡い期待もしていた。
「おい、何してんだ? 後がつかえてんだ。早くしろ」
後ろの島崎がせっつく。
「は、はい……すいません」
もう前にも後ろにも引けない状況だった。
ストローを取り、仮番号000を入力する。そして、息を吹きかける。3……2……1。
……ブーッ!
聞いたことも無いけたたましいアラーム音が点呼場に鳴り響き、全員の視線が今日子に集まった。後ろにいた島崎が今日子を押し退けディスプレイを確認する。
0,17mg
免停処分に該当する酒気帯び状態の呼気中に含まれるアルコール濃度は、呼気1リットルに対し0,15mg~0,25mgである。(これ以上は免許取消処分)
島崎はしばし言葉を失った。やがて――
「お前……夕べ酒飲んだのか? だってお前飲まないって……」
島崎も信じられないと言った顔つきだった。やがてアラーム音を聞きつけた佐伯が奥から出てきて、同じくディスプレイの数値を確認する。
「……見習い期間中にアルコールで引っ掛かるなんて前代未聞です。とりあえず今日は乗務させるわけには行きません。処分は追って通達します。
中林君。今から〝美保マリン〟ですね? 申し訳ないですが彼女を〝竹崎団地入口〟まで乗せて行ってください。いくら自転車と言っても酒気帯びで帰らせるわけには行きません。さぁ、早く荷物をまとめて」
佐伯が有無を言わさぬ早さで指示を飛ばす。今日子には弁解の機会も与えられないようだった。
「あ、あの……私……私――」
「いいからさっさと帰れーっ!」
聞いたことも無いような島崎の激しい怒声が飛んだ。あまりにも大きい声だったので隣の総務からも何人かが点呼場を覗きに来たほどだった。
中林と呼ばれた小柄な先輩運転士が今日子を促す。彼もまた事態の重さ、島崎の怖さを知っているため、早く新人をここから出した方が得策だと判断したようだ。
今日子は何かを言おうとしたが言葉にならず、ただ頭を下げるしかなかった。誰も何も言わない。恐ろしいほどの静かな空気が点呼場に流れる。血の気を失い、焦点の定まらない眼差しの今日子はどこを見るでもなく、項垂れたまま点呼場を後にした。
「うん。あーそぅ……それはいかんね。わかった……助かるよ。処分はちょっと考えるから」
二階の所長室。下の佐伯から事の顛末を聞き永嶋は電話を切った。永嶋が窓の外を見ると生気を失った今日子が送ってもらうバスに向けてふらふらと歩いているところだった。
「……随分と手厳しいこと言ったそうじゃないか柴田」
永嶋が振り向いた先、来客用のソファーに座っていた柴田は前を見つめたまま微動だにしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます