第8話 存在意義
『ピンポーン 次 停まります お降りの方はバスが完全に停車するまでお待ちください』
島崎がいつものように降車ボタンを押し、今日子は次のバス停へ停車させる。
左のウインカーを出し、シフトを五番から四番へチェンジさせる。それと同時にブレーキをじわーっとかけ、ぶつからないように少し余裕を持って車体を寄せる。
きぃーっ……
ブレーキの摩擦音と共にバスは停車した。停車する直前のブレーキの戻しも忘れず、今日子は軽く慣性を抜き最後にしっかりブレーキを踏む。若干頭は揺さぶられたものの、一ヶ月前のことを思えば天と地の差だった。
ぷしゅー……
バスが完全に停車したのを確認して今日子は前扉を開けた。宍道湖交通のバスは中乗り前降り形式である。
島崎が立ち上がり、何故かくねくねしながら運賃箱の方にやって来る。そしておもむろに右手のひらを今日子の目の前にかざした。良く見ると小学生の工作だろうか、やたら拙い指人形がいくつかはめられている。
「えっとぉ、大人一人と小学生一人とぉ、あ、あと幼稚園の子が一人ですぅ」
島崎は裏声で指人形を動かしながら言った。かなり気持ち悪い。
「……えっと、教官……この場合無理にお母さん役を演じる必要は無いんじゃぁ……」
今日子の指摘に島崎は顔を真っ赤にして反論する。
「い、いいんだよ! こういうのはリアリティが大事なんだから。母親が子供二人連れてちょっと街まで……って設定なんだ。文句言ってんじゃねぇ!」
「……普通に気持ち悪いですよ?」
今日子の冷たい眼差しに島崎も内心後悔はしていたものの、もう後にも引けなかった。
「うるせぇうるせぇ! で、いくらなんだよ?」
気乗りはしなかったが今日子も立場上付き合うしかなかった。
「整理券はお持ちですか?」
島崎が仏頂面で整理券を渡す格好をした。
「八番です……」
「……恐れ入ります。少々お待ちください」
今日子は運賃箱の運転席側に設置してある機器を操作する。
「えっと、区間八……大人一、小児……一。入力」
端末のディスプレイに合計の運賃が表示された。
「幼児のお客様は大人一名様につきお一人無賃になりますので、大人一名様と小児一名様で三百二十円になります」
今日子の解答を聞いて島崎は正解だと言う意味で頷きながらも、まだちょっと怒っているようだった。
「正解だ。このようにバスカードでの精算機能の他に計算機としても使用出来るから活用するように」
「教官?」
仏頂面を崩さない島崎がそっぽを向いている。
「……怒ってます?」
再び顔を赤くして島崎は言った。
「だ、だってお前これ……夕べ乗務から帰ってから……い、一生懸命作ったんだぞ?」
「……」
そこじゃないのに……今日子は思ったが拗れそうだったので何も言わなかった。
四月。〝玉造温泉〟へと続く桜の名所、玉湯川も川沿いの桜並木が満開で車窓からは多くの花見客の姿が伺えた。
始まりの季節を迎え教育期間もいよいよ残すところ二週間となった。停留所の名称もほぼ覚え、運転の方も島崎からすればまだまだのレベルではあったが、着実に進歩はしているようだった。
つい昨日から運賃収受の練習も付け加えられ、今日子の頭の中の忙しさは休まることなく目まぐるしさは相変わらずだった。
現在、宍道湖交通松江営業所の路線の一つ〝宍道玉湯線〟の復路を走行中である。この路線は西に松江の市境まで路線が伸びており、終点のすぐ西側は出雲市、南は雲南市となる。
本社と雲南営業所の路線とを接続している宍道湖交通の要衝でもあるのだが、宍道湖を横目に国道九号線を運行するので、晴れた日などは非常に景色が良く走りやすい。乗務員にも観光客にも人気の路線となっていた。
「手順や応対は間違っていないのだが、徐々にスピードを上げて行かにゃならんぞ?
数人しか乗ってない日中の郊外向きの便ならいざ知らず、朝夕のラッシュ時やイベントの時はとにかく早くするんだ。言い方は悪いが早く捌いて降りてもらわんことには、他のお客さんにも結果的に迷惑がかかるわけだからな?」
「はい。が、頑張ります」
先ほどまでの島崎のふざけっぷり(本人は至って真面目だったのだろうが)とギャップがありすぎて今日子は少々戸惑う。
「安全運行が出来て半人前、運賃の収受が完璧に出来て一人前ってな。商売は商売ってことだ」
「はい。運賃収受の方はなんとかなりそうです」
実際問題この運賃収受の教育が一番入りがスムーズだったのは間違いない。教えて二日目でこれだけ頭に入れてるということは、それなりに人知れず勉強していたということも想像に難くない。運転と違いやはりこうした作業は得意なようだった。
また何かと複合した作業にさえならなければ問題は無いはずだ。複合さえしなければ……
「あ……あれ、教官?」
今日子の呼びかけに思考が寸断される。
「ん……どうした?」
玉湯町の中心部を過ぎた辺りで信号待ちをしていると、湖畔の歩道を宍道湖交通の運転士そっくりの身なりをした男がこちらに向けて歩いて来ていた。
「あの方って、うちの運転士の人ですか?」
そうは言いながらも醸し出す雰囲気に何か違和感を覚えた今日子は首を傾げた。
「あぁ、彼は〝シンヤ〟だ。」
「シンヤ……君?」
シンヤと呼ばれるその青年はワイシャツに宍道湖交通のイメージカラーである青いストライプ柄のネクタイをし、これまた似たような色のスラックスを履いている。首には身分証入れだろうかパスケースのような物を首から下げ、手には礼装用の手袋をしていた。
「誰が呼んだかシンヤってみんな言ってる……ちょっと知的障害が入った子でなぁ。けどバスが大好きで大好きで、あぁして運転士の真似をしてはうちのバスに乗ってくるんだよ。さすがに制帽だけは用意出来なかったみたいだがな」
島崎は十メートルくらいの距離まで坊主頭の彼が近づいてきたのを見て、ニカっと笑い敬礼した。彼もそれを見て島崎に答礼をする。
「ほれ。お前もやって見ろ!」
突然島崎に促され慌てた今日子ではあったが、言われるがままにシンヤに敬礼をしてみた。シンヤは今日子を一瞥はしたものの、それ以上の反応は見せずそのまま行ってしまった。
「……?」
やがて信号が青になりバスは走りだす。横では島崎が声を殺して笑っていた。
「な、なんなんですか? 二人共感じ悪い」
今日子は唇を尖らせて抗議する。
「や、悪い悪い。シンヤはかなり繊細な奴でな。バスは大好きなんだけど、自分が認めた運転士のバスにしか乗らないんだよ。
つまりは……シンヤにとってお前はまだ〝そうだ〟ということだ」
話の内容は理解したがあまり気分の良いものではない。今日子は無言で運転を続けた。
「またいずれ近いうちに合間見えることになるさ……良し、この時間なら次の停留所もしばらくバスは来らんだろう。15分ほど休憩する」
宍道湖畔。国道九号沿いにある停留所にバスを停め、二人は湖岸の防波堤に腰を下ろした。
まだ若干冷たいが春の匂いを乗せたそよ風が今日子の頬を撫でる。広大な空と湖が全く同じ色に染まり、絶景と言っても過言ではない風景だった。
「きれい……」
先ほどの嫌な気分など、いつの間にか消えてしまっていた。今日子は持って来ていた水筒から紙コップにお茶を注ぎ島崎に渡す。
「はい。教官」
「お、悪いな」
島崎はお茶を啜りながらおもむろに喋り始めた。
「さっきのシンヤもだけど、これからお前は色んなお客さんを乗せる」
真面目な話のようだ。今日はふざけたり真面目だったり忙しい。今日子は返事をする。
「はい」
「元気な人ばかりじゃねぇ。知的障害の人、体に障害を持った人……それから高齢者の方々な?
俺達の仕事のメインの客層って言ったら、そういう所謂〝交通弱者〟と呼ばれる人達だ」
「……交通、弱者」
おそらくこの仕事をしてなかったら、ほとんど馴染みの無い言葉だったろうなと今日子は思った。
「元気で働いてる奴はこんな公共交通の便利が悪い田舎じゃ車に乗るわなぁ。朝晩の学生や子供、一部のサラリーマンは別として、それ以外のお客って言ったらほとんどがそういう人達だ」
実際に乗客を乗せて運行したことが無い今日子にとってはまだ実感の湧く話ではなかった。
「愛想の悪い者。何考えてるかわからない者。動きの遅い者。人の話を聞かない者。心を閉ざしてしまった者……そりゃあ色んな人達がいる。
そんな乗客達の態度やしぐさに、お前も頭を悩ませる時が必ず来る。
元々喋れない人だったのかも知れない。ありがとうございましたって声が聞こえなかったのかも知れない。身体が自由に動かなくて苛々していたのかも知れない……どこか具合が悪かったのかも知れない。
だけどこっちも人間だ。誠心誠意やってるのにって……なんだか蔑ろに思われてるような気になってしまってな。落ち込む時だってある。
そりゃマナーの悪さで言えば健常者の客の方が多い。そうじゃなくて何て言うのかな……扱いに神経を使うと言うか、気持ちが伝わりにくいというか……」
今しがたのシンヤの感じからして、なんとなくだが島崎の言わんとしていることが今日子も理解出来た。
「それでも……それでもあの人達を大事にしろ。それがローカル路線バスの存在意義だと俺は思ってる」
島崎は宍道湖の遥か向こうを見ながら言った。
「あの人達にはバスしか無いんだよ。俺達みたいに思い立った時に車やバイクに乗ればいいって気軽さは無いんだ。
俺達の百メートルが、あの人達の一キロにも二キロにもなる……だから暑い日でも寒い日でも、ただじっとバスを待つしか無いんだ」
「存在意義……」
今日子は呟き頷く。
「都会でバスに乗ってた時はこんなこと考えもしなかったがな。都会じゃ数分置きにバスが来る。けど島根じゃ一時間に一本なんてざらだ。そりゃ駆け込み乗車してでもこのバスに乗らないとって気持ちは理解出来るんだ。
知ってるか? 台風や大雪なんかで電車が停まるだろ?」
今日子はニュースで良く見る映像を思い出す。
「あんな時でも、バスが運休になるのは一番最後なんだぞ?」
「知りませんでした……てっきり電車と似たり寄ったりの時にもう停まるものだと」
島崎は首を振る。そして誇らしげにこう言った。
「人々の暮らしに最も寄り添った公共交通がバスなんだよ」
入社してから今日まで、覚えることが山ほどあり過ぎて乗客のことを考えてる余裕なんて今日子にはなかった。
運転の習熟も勿論大事だけど、それも乗ってくれるお客様……弱い立場の人達がいて初めて成り立つと言うことを、シンヤをきっかけに島崎は伝えたかったのかも知れない。
技術の方も大事だけど、心も忘れるなって今日子は教わった気がした。
「そうそう、大雪っていや八年前の年越しの大雪覚えてるか?」
島崎はお茶をぐいっと飲み干して思い出したように聞いてきた。
「はい。あの時は家は停電するわ玄関は雪で開かなくなるわで、もう大変だったんで良く覚えています」
島崎も頷きながら続けた。
「そうだろう。あの時は営業所も大変でもうパニックだったよ。いたるとこでバスが立ち往生してなぁ、帰れないバスが続出したんだ。
苦渋の決断で所長が運休の指示を出したんだけどな……最後の最後まで反対したのが柴田だったんだよ」
あまりにも意外な名前が出てきたので今日子は聞き返した。
「え? 柴田さんがですか? 真っ先に撤収しましょうとか言いそうなイメージですけど……」
苦笑いする今日子だったが島崎は真剣な顔つきで首を横に振った。
「いや、待ってる人がいる。帰れない人がいるのにギリギリまで走らなくて何が公共交通だ! って所長に食ってかかったんだぞ?」
島崎の話が現実の柴田のイメージと噛み合わず、しばらくの間今日子の頭の中は混乱していた。
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