第7話 きっかけ

『次は 野井 野井です』


「つ……次は、野井! 野井です!」

 この日初めて使用した制帽取り付け型のマイクを通して、車内に今日子の声が響き渡った。かなり緊張した様子なので叫んでいるようにも聞こえてしまう。


『ピンポーン 次停まります お降りの方はバスが完全に停車してから席をお立ちください』


 島崎が降車ボタンを押し車内放送が流れる。女性の機械音声が流れ、運転席背面上部の〝つぎとまります〟の緑のランプが点灯した。

 

 島崎から必須テクニックについて説明を受けた日より更に五日が経過していた。あれ以降今日子は運転する時は〝三つの技〟を気にしながらバスを操作しているものの、残念ながら持ち前の不器用さからか目立った進歩は見られなかった。

 現在、宍道湖交通松江営業所の路線の一つ〝美保マリン線〟の往路を二人は練習走行していた。実戦さながら運賃表示器の端末に行先を入力し、車内も外の方向幕も〝美保関ターミナル行〟と表示されている。

 方向幕とはあまり聞きなれない言葉だが、バスの正面フロントガラスの上に大きく表示される行先表示のことである。今はデジタル表示が一般的ではあるが、その昔まだ今日子が産まれるずっと前にはビニール製などのそれこそ本当の〝幕〟で行先が書かれていた。その名残りで方向幕と呼ばれているのである。

 運転席右手にある〝送りボタン〟をひとつ押すたびにその路線の停留所が次々に放送される。島崎はその放送をただ漫然と聞いているよりは、意識して発声した方が数倍早く頭に入るということを師匠から教わっていた。以来島崎もずっと、自分の教え子にはこのやり方で覚えさせていた。

 停留所を過ぎる度にボタンを押して、次の停留所を声を出して告げる。島崎はランダムで降車ボタンを押し、今日子はその次の停留所へ停車する。という練習内容だった。

 次の停留所はポケットが無いので標示板を目標にバスを路端停車させる。今日子はウインカーを出しバスを徐々に左に寄せて行く。左に……左に――

「おい寄せすぎだ!」

 島崎の突然の声に慌てて急ブレーキ。ハンドルを右に切り、停留所のかなり手前でバスはやや右側を向いて停車した。

「……ふぅ。危なかったな。あのまま行ってたらミラーが標示板に当たってたぞ? 左に寄せなければならないが無理はするな。ぶつけたら元も子も無いんだぞ? 

 しかもここはポケットが無い。乗客は標示板の近くに立ってるわけだからある程度余裕を持って停車させないと危ないだろ」

「……すいません」

 島崎の注意に今日子は力なく頭を下げた。もう何度目だろう。停留所ひとつ満足に停車させることが出来ない。

「おそらくこの前俺が言った必須テクニックを気にしながらの運転の上に、停留所の名前と場所と形状を覚えながらだからパニックになってるんじゃないのか?」

「いえ、そんなことは……」

 そう言う今日子だったが顔つきを見れば図星だということが一発でわかった。島崎は思案する……さて、どうしたものか。記憶力は良いはずなのに、それが色々複合してくると頭の中がこんがらがって本来の良さまでスポイルしてしまうようだ。

 だからと言って一つ一つ時間をかけてやっている余裕も無い。宍道湖交通の初等教育期間は二ヶ月程度──今まで教えてきた新人達も、だいたいそのくらいで巣立って行っていた。

 ただ、これはあくまでも下地が出来ている者らの話だ。中途入社がほとんどである昨今のバス業界……入ってくる新人はだいたい過去に何らかの運転職を経験している。全くの未経験から始めた場合、やはり二ヶ月という期間は酷なのではないかと思うくらいに短い。

 通常試用期間は三ヶ月。そのうちの二ヶ月間が教育期間で、残りの一ヶ月は先輩のバスに乗り込み実車の訓練を行う。

 今回に限り期間を延ばしてもらうように上に頼んでみるべきだろうか……いや、後々のことを考えて出来ればみんなと同じようなタイミングでスタートラインに立たせてやりたい──


 結局その日もさしたる進歩も見られず、一日が終わってしまう結果となってしまった。



 次の日。今日子は休日でいつもより遅い起床だったが、まだ布団から出れないでいた。この日は幸枝も仕事に出ており、家には今日子一人きりだった。

 宍道湖交通は基本五日勤務一日休日のサイクルでシフトが回っており、月に二回程度は連休となり四勤二休の週があった。

 何故切り良く六勤一休や五勤二休にしないのかと言うと、シフトで動いているため皆が同じ休日なわけではない。一週間、七日をフルに使ったシフトにすると、日曜日休日の人はずっと日曜が休み。月曜日休日の人はずっと月曜が休みになってしまうからである。

 そうした不公平感を無くすために、休みの曜日が一日ずつずれるように五勤一休が基本とされていた。なので水曜日と日曜日が休日の幸枝とは合わない日も出て来てしまう。今日はその日だった。

 静まり返った室内……今日子は右腕を額に乗せ、天井をただじっと見つめていた。昨日までの自分の不甲斐なさを思い返しながら――

 

 何が『この人の指導ならどんなに厳しくても耐えて見せる』だ。


 何が『いつか辞める時が来たとしても、この仕事を嫌いになったりしません』だ。


 自分の力量もわきまえず、行き当たりばったりで軽はずみなことばかり口にして結果このざまだ。僅かに残っていた自信も消え失せ、他の仕事の方が自分には合っているのではないか? そんな思いが頭の片隅に芽生え始めている。 

 〝あんなこと〟にさえなってなければ、そもそもバスの運転士なんて目指してなかったのかも知れない。知らず知らずのうちにそれしか選択肢が無いかのような暗示を、自分にかけていたのかも知れない。

 良く考えて見ろ。今のこのご時世にバスの運転士になろうとする人間がどこにいる? 短大時代の友人達も、祖母の介護の時勤めていたスーパーのパート仲間も、バスの運転士になるって話したらどんな顔をしてた?


 その時だった。携帯の着信音が室内に鳴り響く。ディスプレイを見ると知らない番号だった。どうする? 間違いかいたずらか特殊詐欺か……

 無視しておけば良かったのだろうが、何故か無意識に今日子は携帯を取り電話に出た。

「……はい。き、教官? どうしたんですか?」

 電話の主は島崎だった。

『休みに突然申し訳ない。若月に電話番号を聞いてな。迷惑じゃなかったか?』

「いえそんな。でもどうしたんです?」

 教育しやすいように見習いの間は島崎と今日子の休みは同じになるように予定は組まれていたので、こんな時間に電話がかかって来ること自体は不思議ではなかったが、わざわざかけてくる理由が今日子には思い当たらなかった。

『お前スクーターは乗ったことあるか?』

 いきなりの突拍子もない質問に少々戸惑いながらも今日子は正直に答えた。

「はい。短大時代は通学で乗っていた時期はありましたけど?」

『なら話は早いな。今から恵曇(えとも)の港まで来れるか?』

「え、恵曇ですか? 今日は母が車を使う予定が無いので、車で行こうと思えば行けますけど……本当にどうしたんですか?」

 島崎が指定した場所は今日子の家から車で約二十分。自転車では少々きつい道のりだった。

『練習だよ。練習!』



 恵曇港。松江市の北西部に位置する市内最大の漁港である。朝は水揚げの漁船や競りでかなりの賑わいを見せているが、午前中も遅い時間となると人通りもほとんど無く閑散としていた。

 指定した場所に着くと島崎が片手を上げて呼んでいる。

「おーい。ここだここだ!」

 今日子は駐車場に車を停め、島崎の方へ歩み寄る。ジーンズにパーカーというラフな服装、手には家の倉庫から引っ張り出してきた昔使っていたヘルメットを手にしていた。

「お疲れ様です。教官……なんですかこれ?」

 ジャージ姿の島崎の傍らには黒いスクーターが一台置いてあり、ヘッドライト部分に真一文字に竹の棒がくくりつけられていた。しかし明らかにバランスが悪い。真ん中から見て右側が五十センチ、左側はなんと今日子の身長を優に超えているであろう長さで取り付けられている。

 しかも右側の先には紐で地上すれすれまでぶら下げられた空き缶、左側の先には先端三十センチほどが梱包で使用しそうな棒状の柔らかい発泡スチロールのような物が取り付けられていた。

「ダハハ! 聞いて驚くなよ? 名付けて〝ヒヨっ子感覚養成マシーン〟だ!」

 島崎は怪しげなスクーターのシートをパンパンと叩き誇らしげに笑って見せる。

「……感覚養成マシーン」

 まだ事態の飲み込めない今日子は、その時代遅れのネーミングを復唱することくらいしか出来なかった。

「いきなり言われてもわからんわなぁ。良し! 説明するぞ。

 この竹の棒はバスのミラーからミラーまでの長さと全く同じに合わせて取り付けられている。左の先端は物に当たっても大丈夫なように発泡にしてあるしな。右はカーブで曲がる時に車体が傾きすぎると、空き缶が地面に設置してうるさい音が発声する。あれを見ろ」

 島崎が指し示す先、漁船の水揚げが行われる屋根付きのとても大きな建屋があった。屋根の高さは二階建てのビルくらい、幅は二十メートル以上はありそうだ。奥行きはもっと長く五十メートルくらいはあるかも知れない。その巨大な屋根を支えるために太い一メートル四方程度の柱が十メートル間隔で立っていた。

「あそこの柱の内側を右回りで、左先端の発泡を柱にギリギリ擦りつけながら一周して帰ってくるんだ。但し、座席には座らずにステップに立って運転してもらう」

 今日子は島崎が自分に何をやらせようとしてるのか大体察しがついてきた。車幅感覚と、ブレーキとカーブの練習だろう。

「残念ながらこれでクラッチの練習は出来んがな。まぁ、三つのテクニックの中で初日からやっていた分、比較的クラッチは出来てると思うから今日は忘れろ。それより苦手を克服することに専念するんだ。

 身体で覚える前に、お前は頭で整理してから覚えて行くタイプみたいだからな。感覚はまたバスで覚えるとして、今日は遠心力や慣性力の作用の仕方とかを理解しながら車幅間隔をマスターしてもらう。

 漁協には許可を取ってある。夕方までここには船は着かないらしいから気にせずやってくれ」

 島崎の心遣いに、先ほどまで暗く沈んでいた気持ちに光が差し込んで来た。

 

 ――応えなくてはいけない――


 今日子はヘルメットを被りひとまずスクーターに跨がった。そしてセルを回しエンジンをかける。

「とりあえずスクーターに慣れるために座ったまま一周してみろ」

 やや緊張した面持ちで今日子は頷き、ゆっくりスロットルを回す。スクーターなんて久しぶりな上に前に余計な物が付いているので結構ふらついてしまった。

 更にスロットルを回しスクーターは直進する。左は結構寄せてるつもりなのだが、まだ発泡は当たらなかった。やがて突き当たり右に曲がる。ブレーキをかけ車体が傾き――


 カラン! カラン! カラン!


 空き缶が地面の上で躍り建屋内に激しい音が鳴り響いた。もう二周してから島崎の前で今日子はスクーターを停めた。

「どうだ? こっちから見ていてまだ柱まで三十センチは開いていたし、曲がるのも一苦労だろ?」

「はい。カーブはかなりスピードを殺してゆっくり行かないと、鳴らさずに行くのはまず無理ですね」

 島崎は今日子の感想に概ね満足しているようだった。

「良し。じゃあ次からはステップの上に立ってやって見ろ。更に不安定になるから気をつけてな? 直線は怖がらずにスピードを出すこと。恐る恐るやると余計にふらついて危ないからな」

「わかりました」

 今日子は再びスクーターを走らせる。ある程度スピードに乗ってからステップの上に立ち上がった。ハンドルがグラグラする。

「こ……怖っ」

 最初の曲がり角に差し掛かった時両手でブレーキをかけた。その慣性の勢いで今日子の体が前に持って行かれそうになる。

「――!」

 たまらず今日子はスクーターに座り停車させた。

「どうだー? ただブレーキをかけるだけじゃダメなのがわかったかー?」

 島崎がスタート地点から叫んでいた。ブレーキをじわっとかけ、尚且つ車体を傾けずに曲がるには……今日子はもう一度スタート地点に戻りやり直す。

「行きます!」

 再び曲がり角。先ほどより少し手前から少しずつブレーキをかけて行く。さっきより緩やかだが体が前に持って行かれそうなる。今日子はそのタイミングで両手のブレーキをじわーっと緩めて見る。

 体は投げ出されることなく、前につんのめることもなく、車体は垂直を保ったまま見事スクーターは減速に成功した。


「あ!」

 今日子の中で何かと何かが繋がった。


 そのまま薄氷の上を進むかのごとく、僅かにスロットルを回し微速前進する。車体はほぼ傾くことなく曲がり角を抜けて行った。空き缶の音は聞こえなかった。

 

 島崎の元に戻った今日子はヘルメットを脱ぎ、満面の笑みを見せた。

「教官! 私、私、なんとなくですが〝戻す〟って感じがわかりました!」

 島崎もそれを聞いて安堵のため息をついた。

「良かったなぁ。何故出来たかわかるか?」

 理屈はわかっているのだが、何故? と聞かれると完璧に返答する自信が無かった。

「手だよ。今まで足で操作していたブレーキを手で行ったからだ。手は足の何倍も器用だからな。おまけに手先が見えるため調整がしやすい。

 しかも短大時代にスクーターに乗っていたとなれば、バスより馴染みのある乗り物なわけだろう? だからこんな変なもん付けた状態でもなんとか運転出来たわけだし、感覚も掴みやすかったってことだ」

 それを聞いて納得したと同時に今日子は自分が恥ずかしくなった。当の本人が完全に意気消沈し諦めかけていたと言うのに、教える側の島崎が諦めず創意工夫をし道を指し示したのだから。

「ただ、あくまできっかけを作る作業に過ぎん。手先で覚えても実際に行うのは〝足〟だ。今日ここで出来るようになったとしても、バスでやるにはまた更に習熟が必要だと思う」

「はい。けどどうしたら良いのかが、なんとなくわかっただけでも全然違います」

 今日子の返答に島崎は頷く。

「そうだな。今日出来たことを応用することが出来れば上達は早いだろう。

 さぁ、まだ時間はあるぞ。スピードを上げたり下げたりして色んなパターンでブレーキをかけてみるんだ。慣れたら停まった瞬間に反動が来ないように完全に停車させてみろ。

 車幅感覚もまだまだだから、狙って発泡が擦れるようになるまでやってみるんだ」

 今日子はもう一度ヘルメットを被った。

「はい!」



 日が西に傾き空が茜色に染まりかけた頃、港の片隅にある自販機の横で二人はあの時と同じように缶コーヒーをすすっていた。

 違うのは今日のお礼として、今日子がどうしてもとお金を出したことだろう。

「良く頑張った。左の車幅感覚もほぼ寄せれるようになったし、ブレーキも十回のうち八回九回は成功するようになった。スクーターで出来るのはここまでだ。後は今日やったことをいかにバスで出来るようになるかだな」

 穏やかな表情で島崎はコーヒーをひと口飲み言った。どこかで海猫の鳴く声が聞こえる。

「教官はどうしてそんなに一生懸命に教えてくれるんですか? 私……恥ずかしい話諦めかけてたんですよ?」

 今日子は恥ずかしさと情けなさで島崎の顔をまともに見れなかった。今日のことはどんなに礼を言っても言い足りないと思ったからだ。

「ヒヨっ子が偉そうに『諦める』とか言ってんじゃねぇ。諦めるって言うのはな。死にものぐるいで頑張って頑張って……それでもダメだってなった奴しか言うことは許されないんだよ。

 お前はまだそこまで追い込まれてねぇだろ……許さねぇぞ? 今度諦めるなんて言ったら」

 島崎の手厳しいひと言に今日子はただ黙って頭を下げるしかなかった。

「俺は一度面倒見るって決めたら最後まで責任は持つ。仕事だからな……

 さぁ、ぐだぐだ言ってねぇで今日はもう帰れ。明日からまた仕切り直しだ!」

 島崎は今日子を急かすように手のひらを叩く。まるで鶏を追い込むかのような動作だ。

 今日子は立ち上がり改めて頭を下げた。

「今日はありがとうございました。それから……すいませんでした」

 最後の謝罪はきっと諦めかけたことに対してだろう。島崎は頷くだけでそれ以上何も言わなかった。

「失礼します」

 会釈をして車に乗り込み、今日子は家路に着いた。

 島崎はヘルメットを取り出し、さっぱりした自分のスクーターに跨がりながら今日子を見送る。


「どうしてってお前……もう最後だからな。時間がねぇんだわ……」

 

 薄暗くなった恵曇の港に島崎のスクーターの甲高いエンジン音が響いた。

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