第4話 路上
ついに走り出した今日子の操る〝しじみバス〟は市内を軽やかに颯爽と走っ……てはいなかった。本来御法度とされる三急運転(急発進、急ブレーキ、急ハンドル)を全て実践し、安全確認もままならないままバスは疾走する。今日子は前しか向いていなかった。
島崎は恐怖のあまり身体をこわばらせ、シートの手すりにしがみついていたが5分が我慢の限界だった。
「ちょ……ちょっと待て……」
「……」
「ちょっと待たんかー!」
島崎の怒鳴り声に思わず今日子は急ブレーキを踏む。その勢いで左側一番前の席に腰かけていた島崎はシートからずり落ちそうになる。
おそらくバスの後方の一般車も急ブレーキを踏まされたのだろう。クラクションの音が複数台分聞こえて来た。
「び、びっくりするじゃないですか! 急に大きな声出さないでくださいよ」
「……い、いいから。幸い100メートル先に広めのバス停のポケットがある。そ、そこに停車しろ」
何故か血の気の引いた顔の島崎を見て、今日子は見当違いの結論に辿り着く。
「教官もしかして体の調子が悪いんですか? 大変、早く――」
「いいから早く前のバス停へ停めろー!」
何がなんだかわからなかった今日子だが、島崎のあまりの迫力にまずはバスを動かすことにした。
ガックン! と強い揺れと共に安全地帯を目指しバスはゆっくりと走り出す。車体は大きく斜めだったが、指示されたバス停になんとか停車することに成功した。
「……今、何分だ?」
「? えっと、25分ですけど」
「良し……後10分少々はバスは来んな」
島崎はシートに座り直し深呼吸をしてまずは気持ちを落ち着かせた。
「お前……教習所卒業したんだよな? 卒検何回目で合格した?」
「え……卒検ですか……?」
今日子は聞いて欲しくないことをもろに聞かれてしまったようで、顔ひきつらせたまま固まってしまう。
「何回だ?」
島崎はドスの効いた声で睨み付けた。今日子は観念したようで指折り数え始めた。
(右手)1……2……3……4……5……
「お、おい……う、嘘だろ?」
(左手)6……7……8……9……
「十回から先は数えるのやめてしまって……アハハ……」
バツが悪そうに笑ってごまかそうとする今日子を見て島崎は言葉を失った。
「あ、でも本免の学科は一発で合格したんですよ?」
「そ、そうか……」
島崎は今日子を理解しようと必死に努めた。学科は一発で受かったんだ。頭は人並み以上には回るのかも知れない。運転は……ちょっとセンスが無いのと試験官がたまたま厳しい人だったんだろう。
なぁに、こんなことは大した問題じゃない。やる気があればこれくらい……って――
「そんなわけあるかー!」
「すみませーん!」
ゲンコツでも喰らわされると思ったのか今日子は両手で頭を庇った。
「十回以上卒検落ちるってお前……初めて聞いたぞ? センスがあるとか無いとかそれ以前の問題だろ……」
こいつのことだ。努力を怠って落ちるなんてことは考えにくい。おそらくメモを取って暗記出来るような作業は得意なのだろう。だが実技はそうはいかん。頭でわかってはいても体が動かなかったんだと推測できる。いくら悪いとこを指摘されたとしても、それを反復練習して直すには教習所の限られた時間ではこいつには足りなかったんだろう。
「本当にお恥ずかしい限りです……決定的にセンスが無いってバレちゃいましたね……」
今日子は島崎の前で俯き床にへたりこんだ。その姿を見て頭にきているのを通り越してなんだか気の毒にさえなってきた。
「……」
運転士に憧れていたと聞く。そのために頑張って頑張って……だけど思うように行かなくて足踏みばかりして……情けなかっただろうに、気ばかり焦っただろうにと思う。
母親と兼用の軽自動車しか運転したことが無いと確か言っていた。ほぼペーパードライバーだったのかも知れない。普段運転してない人間がいきなりバスでは無理もなかったのだろう。
──いや、待てよ……本当に全部がそうだったのか? もしかしたら──
島崎はしばらく考え込んでからおもむろに立ち上がった。
「いや、悪かった。ある程度お前の実力に合わせてあまりうるさくないように……と思ってたんだが、ちょっと思い当たることがある。うっし……ちょっとうるさくするぞ? 運転席座れ」
ぶっきらぼうに島崎は顎で今日子に指図した。今日子は先ほどまでの元気はどこへやら。無言でゆっくり立ち上がりふらふらと運転席に座った。
「もう日が暮れるまでそんなに時間も無い。さすがに今の力量で夜間走行は厳しい。
いいか、思い当たるやり方がある。なんとかなるかも知れない。とにかくお前は余計なことを考えるな。一から十まで俺が指示する。お前は俺に言われた動作を忠実に実行する……それだけを考えてろ。いいな?」
今日子は戸惑いながらも黙って頷いた。
「良し。お前の視点で指示を出さにゃならんから少し顔を近づけるぞ? 許せ」
島崎は今日子のすぐ傍らに寄り添い今日子の目の高さまで体を屈めた。手すりと運賃箱に掴まり不安定だが体を支える。
「くっ……この体勢は、腰に来るなぁ。じゃあ行くか。とりあえずやることが多いとパニックになるから乗客に関する動作は省く。慣れてから付け加えて行くから今日のとこは忘れろ」
前を見据えたまま今日子は頷いた。いったい何が始まるのだろう。
「フットブレーキを踏んでサイドブレーキ解除」
サイドブレーキを外す。
「クラッチを踏んでシフトを2番へ」
シフトレバーをセカンドに入れた。
「右ウインカー」
今日子は右ウインカーを入れた。
「視線を右ミラーへ」
ミラーには後続車の列。
「そのまま待て……良し、白いセダンが横に来たら発進。ゆっくりな? ハンドル九十度右に。クラッチをじわぁっと少しずつ上げろ。同時にアクセルもゆっくりと踏み込め」
怖かったが今日子は島崎を信じて言われた通りにした。ゆっくりとバスは右側へと向きを変え本線へ入って行く。
「いいぞぉ……入り終わったらサンキューハザードだ。左手を誘導するぞ?」
島崎はハンドルを持ってる今日子の左手を掴み下にあるレバーに触れさせた。
「上に入れて二回点灯。オフ」
次はシフトレバーに手を誘導させる。
「シフトチェンジ。加速後、アクセルを離すと同時にクラッチを踏め」
今日子はアクセルをゆっくり踏んで加速する。エンジン音がどんどん大きくなっていく。
「今だ。アクセルを離しクラッチ」
島崎の声に合わせクラッチを切る。すると島崎の手がシフトレバーをセカンドからサードへ誘導してくれた。
「ここが一番難しいぞ? クラッチを半分くらい上げたら一旦止めろ。同時にアクセルを半分くらい踏み込め。アクセルとクラッチを半分と半分で真ん中で出会わせる感じだ」
何故そうするのかわからなかったが、言われた通りにする。
「良し。クラッチをゆっくり最後まで上げろ」
見事バスは衝撃もあまり無くシフトチェンジすることが出来た。
「加速。次は三番から四番へ。要領は同じ。クラッチを切る」
次の動作もスムーズにシフトチェンジ出来た。
「左ウインカー」
「ブレーキ、減速しながら左ミラー確認」
「クラッチを切る。四番から三番へダウン」
「ブレーキを残しながらクラッチをゆっくり半分上げる。スピードが落ちたらブレーキから足を離してアクセルへ。半分と半分で出会わせろ」
「交差点内確認。歩行者無し左折先も車無し」
「巻き込み確認左ミラー、目視。良し──いない」
「いつでも止まれるスピードで横断歩道。左ミラーを常に確認しながらゆっくりハンドルを左へ回す。一回転……更に……そこで止めろ」
「左ミラー。後輪が交差点の角を通りすぎたのを確認したらハンドルをゆっくり戻す。アクセルはじわっと踏んだまま」
「良し戻せ。加速……三番から四番」
端から見れば恐ろしく遅く迷惑なバスだったろうが、危なげな動きだけはすることなく、ゆっくりだが確実に走って行った。
およそ三十分走行し、郊外にある広い停留所に教習車は停まっていた。
「ふぅ、出来たじゃねぇか」
島崎は額に滲んだ脂汗をタオルで拭きながら疲れた身体をシートに預けた。
「いえ……私は言われた通りにしただけで何もしていません」
謙遜でも何でもなく、今日子は本気でそう思っていた。
「だがハンドルを握っていたのは間違いなくお前だ。出来たんだよ」
「……」
実はこの島崎が行った指導方法は一見簡単に見えてかなりの高等技術だった。
まず指示する方は言ってから実際に運転する者が動作に移るまでに〝間〟が生じる。例えばクラッチをすぐ上げて欲しいのに間が生じてワンテンポ遅れると、ベストなシフトチェンジのタイミングで出来ない。結果ギクシャクした動きになってしまう。だから指示する方は間のことも考えて常に早め早めに指示を出さなくてはならない。
指示される側も全て言われた通りに……と言われれば一見簡単そうだが、結局これもある程度次の動きを頭の中で予測出来ていないと、とてもじゃないが言われたと同時に動作に移るなんてことは不可能である。おまけに指示する者を心から信用していないと怖くてこんな危ないこと本来は出来ない。
なんのことはなかった。今日子は教習所でしっかり運転の基本は習得していたのである。だだ、その情報一つ一つが単語を覚えるかのごとくバラバラに独立していたのだ。
いざ運転が始まると普通は必要な単語だけ拾い集め順番に並べるのだが、今日子は余りの情報量の多さにパニックになってしまい、上手く並べることが出来なかったのである。生真面目さと不器用さが不幸にも重なってしまった結果と言える。
島崎は必要な単語を順番に、的確なタイミングで 今日子に伝えていたのだった。そして今日子は持ち前の素直さと記憶力の良さで、このやり方を見事に実践して見せたのである。
当の今日子はと言えば島崎がいったいどんな魔法を使ったのか全くわかっていなかった。ただ、あれほどギクシャクした運転しか出来なかった自分が何故か今日だけはスムーズにこなせたことが信じられなかった。
「教習所は卒業したんだ。教習所もそんな危険なヤツを合格させるわけはねぇからな。何か秘密というかやり方はあるはずだと思ったんだ。
お前ほどではなかったが似たような症状だった奴が前にいたのを思い出してな……いざやってみたらドンピシャだった」
教習所の最後の試験の時。何がなんだかわからないうちに終わってしまったが、そういえば見るに見かねた試験官が横で色々言ってくれてたような気がする……
島崎はひとまず安心したようでいつの間にか柔らかい表情に変わっていた。正直こっぴどく罵倒されるか、サジを投げられるかのどちらかだろうなと覚悟していただけに、思いもよらぬ展開にただただ今日子は敬服するしかなかった。
「さぁ、そろそろ薄暗くなってきた。暗くなっちまう前に帰るぞヒヨっ子」
「……はい」
島崎に会釈をし、今日子は発進準備を始める。「さて、俺もあとひと踏ん張り頑張りますかっと!」
腰をさすりながら島崎はゆっくり立ち上がった。
松江営業所に帰ってきた時には、もうスモールライトを点けなければ危なく感じるくらいの暗さにはなっていた。
今日子たちのバスはとりあえず事務所前に仮停めし、終了点呼のためにバスを降りた。
「ふぃ~、なんとか無事に帰ってきたな。とりあえず運管にただいましてくるか」
「はい。ありがとうございました」
今日子は島崎に心から礼を言った。今日一日、自分を放り出さずに最後まで頭を悩ませてくれたことが本当に嬉しかったからだ。
「よせよぉ。まだまだこれからなんだぞ? 今そんなこと言われちまったら明日から雷落とせなくなっちまう」
島崎は白い歯を見せてニヤっと笑ってみせた。今日子もなるべく顔を見られないように俯いてから微笑んだ。
二人が点呼場のドアを開けると奥から話し声が聞こえた。何やらモメてるようだった。
「柴田さんが言ってることは間違ってませんけれど、一応客商売なんですから言い方ってもんがあるでしょう?」
「俺だって最初は丁重に説明したよ。けどあの爺さんもう三度目だぞ? うちの運賃箱はお釣りが出ないって何回言えば覚えてくれるんだ?」
運管席のカウンターで佐伯ではない若い運行管理者と、ガッチリした体格の齢五十くらいのやけに目つきの鋭い男が言い争っている。
「あちゃぁ、また柴田かよぉ。こりゃ小杉ちゃんじゃ荷が思いなぁ」
そう言うと島崎はまっすぐに運管席へ歩み寄って行く。まずはカウンターの前で敬礼をし、到着の報告を済ませる。今日子も慌てて島崎の傍らに立ち敬礼をした。
「運転士島崎です。教育指導よりただいま帰りました。異常無しです──で、何があったんだ?」
島崎は小杉と呼ばれる運行管理者の男と 目の前の運転士らしき男の間に入り事情を聞いた。島崎の登場に小杉も助かったと言わんばかりの表情になり、状況を説明し出した。
「あぁ島崎さんちょうど良いところに……実は柴田さんのバスでお釣りが出るものと勘違いしたお年寄りのお客様が500円玉を入れてしまって……いくら待ってもお釣りが出て来ないから『どうなってんだこのオンボロバスは!』って怒っちゃったらしいんです。その態度にカチンときた柴田さんが――」
小杉が言い終わらないうちに柴田が後を引き継いだ。
「この運賃箱はお釣りが出ません。事前に両替をしていただいてからちょうどの金額をお支払ください。と、前回も前々回もお客様にご説明しました。
失礼ですがオンボロなのはお客様の頭ではございませんか? と言ってクレームを頂きました」
柴田は直立不動で誰を見るでもなく目の前の空間を見つめ感情を込めず報告した。俺は悪くないとの無言の訴えの現れだろう。
島崎は困った表情で目を閉じ眉間を押さえた。
「あのなぁ柴田。気持ちは痛いほどわかるがなんでお前はそう自分から相手に火をつけるようなことばかり言うんだよぉ」
島崎が呆れたように言うが柴田は全く堪えてない様子だった。
「客に甘い顔ばかりするから奴らどんどんつけ上がるんですよ。間違いは間違いです。
今日も見逃したらあの爺さんまた今度もやりますよ? その時誰かがまた嫌な対応をしなければならなくなります。
始末書なら書きますから。けど自分は間違ってるとは思いません」
言うが早いか柴田は向きを変え出て行こうとしたが、ちょうど行き先に今日子が立っており向かい合う形で立ち止まってしまった。急なことだっただけに今日子もかなり焦ったが、とりあえず挨拶だけはと思って頭を下げる。
「あ、あ、あの今日からお世話になるた、高梨今日子です。よ、よろ――」
「あぁ、今のこのご時世にこんな割りに合わない仕事がしたいって入ってきた物好きさんね。ま……頑張ってやってください。現実を知って尻尾巻いて逃げるのがオチだと思いますけど。
いやぁ、それにしても最近は金さえ積めば大型二種が取れるんですもんねぇ? 便利な時代になったよなぁ」
「おい柴田」
「……失礼します」
嗜めようとする島崎を振り切るように柴田は足早に点呼場を出て行った。
「き、気にすんな? あいつはいつもあぁなんだよ。変わったやつなんだわ」
「高梨さんでしたよね? 最年少運管の小杉です。お見苦しいとこお見せしちゃってすいません。あの……高梨さん? 高梨さん?」
島崎と小杉がフォローを入れたが今日子の耳には入っていないようだった。柴田が出て行った出入口のドアを見つめたまま立ち尽くす。当たり前の話だが、歓迎ばかりされているわけではないと改めて認識せざる得ない出来事となった。
洗車機にかけ給油。そして車庫にバスを入れ、車内を清掃する。乗務記録(日報)を記入して帰る頃には日はもうとっぷりと暮れていた。白い息を吐き出しながら小気味良く自転車を漕ぐ。今日教えられたことを忘れないように繰り返し呟きながら今日子は家路を急いだ。
「でね? 教官に見捨てられなかったのは良かったんだけど、教習から帰ってきた時に偶然出会った柴田って人がもう嫌味ったらしい人でね? 今の時代は金積めば大型二種が取れるとか言うんだよ? 本当にもう……ねぇお母さん! 聞いてる?」
高梨家の食卓。少し遅くなった夕食を幸枝と向かい合い、今日の出来事を土産話に箸を進めていた。
「……へ? あ、あぁ……ごめんごめん、柴田さんて人がねぇ。へぇ……嫌な人だね」
明らかに上の空だったのだが、幸枝はなんとか話を合わせる形で上手くごまかした。
「でしょー?」
「けど、けどその人と一緒に仕事するわけじゃないんでしょ?」
幸枝は取り繕うように思いついた質問を今日子に投げかける。
「まぁね。バスの仕事は基本一人きりだから。乗務中にすれ違う時と点呼場や休憩室で出会う時以外は接点無いと思う。その辺はこの仕事のいいとこだよね。人間関係で悩むこと少なそう」
「そ、そっか。なら……いいじゃない」
「……? なんか変なの…」
「今日子ー? 今日子! お風呂沸いたわよー? 本当にもう聞いてるのー?」
幸枝は階段の下から今日子を呼んだが、応答が無いためスリッパのままパタパタと階段を上がる。
「今日子お風呂冷めちゃうじゃ……おやおや予想通りの格好でまぁ」
制服を脱ぎ捨て下着姿のままで今日子は眠っていた。幸枝はため息をひとつついたが、今日子に布団をかけ、制服をハンガーにかけていく。
「一日中緊張しっぱなしだったもんね。そりゃ疲れたわよね……もう何も言わないって約束だからお母さん我慢してるけれど、どうか危ないことだけはしないでね。もう、あんなことはたくさんだから」
ベッドに腰かけ、疲れ果て眠りにつく娘の頭を撫でながら幸枝は言った。
一生忘れることが出来ないであろう、今日子の長い長いバスマン初日がやっと終わった。
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