第3話 教育開始

「ふむ、一通り済んだの……お、そうじゃそうじゃ。エンジンオイルの量を見る時はエンジンをかける前じゃぞ? エンジンかけてしまったらオイルが回ってしまってしばらく正確な量が見れなくなるでの」

「はい。……エンジンをかける前……と」

 メモを取りながら話を聞く今日子の姿を見て常松は頼もしそうに頷く。メモを取るということは二度も同じことは聞かない、一回でなんとか覚えるという本人の前向きな姿勢の現れだからだ。

「それとこの一連の作業を10分以内で終わらせることが出来るように手際を考えてな?」

「なんで10分なんですか?」

 いくら考えても今の今日子には見当がつかなかった。

「ふむ。運転士はとにかく時間が惜しい。出来れば1分1秒でも長く睡眠を取って欲しいものじゃ。朝、点検にかける時間が短ければ短いほど、僅かではあろうが家を出る時間が遅くて済む。

 それと運悪く、その日自分が乗るバスが調子悪くて急遽他のバスに変更して発車する場合、発車時刻が迫っとるからと言って点検もせずに出庫することは絶対に許さん。だからとにかく短時間でキッチリ点検が出来るように慣れておかなければならんわけじゃ。わかったか?」

 なるほど。時間をかけてでもゆっくり確実にと思っていた今日子だったが、それは間違いだったらしい。目から鱗だった。

「べ、勉強になります」


「――はよーす!」


 低いが良く通る大きな声が整備棟いっぱいに響いた。声のする方を見ると、背は今日子より少し高い程度だが恰幅が良く広い肩幅と突き出たお腹、そして何より白髪の混ざったごま塩頭に鋭い眼光がこの男の凄みをさらに印象付けていた。

 まだまだ寒い季節だというのにブレザーも着ずにワイシャツにネクタイのみというのも体のラインがより際立って迫力が増しているようにも見える。

「おー島ちゃん! 待っとったぞ」

 常松は笑って出迎えた。この人が島さん……見るからに怖そうな雰囲気に今日子は固唾を飲んだ。

「常さん遅れてすんません。今日は教育後の夜便だけのはずだったのに急遽走らなくちゃならんくなって。ヒヨっ子の面倒見てもらったみたいでありがとうございます」

 島崎は頭をかきながら常松に頭を下げた。こんな怖そうな人が恐縮するくらいなんだから、やはり常松課長は凄い人なのだろう。と今日子は勝手に想像する。

「なぁに、久しぶりに教え甲斐のある奴だったもんで時間も忘れておったわい」

 そう言うと常松と島崎二人が同時に今日子へ顔を向ける。今日子はすかさず背筋を伸ばし、常松へやったのと同じように深々と頭を下げた。

「今日からお世話になります! 高梨と言います。よ、よろしくお願いしまった! ……あれ?」

 最後の方を盛大に噛んでしまった。すると下げた頭の上から二人の笑い声が聞こえてきた。

「カカカカッ! なー? 面白いヤツじゃろ?」

「ククッしまってどーすんだよ? 意味わかんねーぞ? ダハハハハ!」


「アハ……アハハハハ……」


 愛想笑いするしかない今日子をよそに、ひとしきり笑った後、常松はご機嫌で自分の仕事に戻り、残された島崎と今日子はようやく本題に入ることが出来た。

「……あー笑った笑った。お、すまんすまん。話は聞いてると思うが俺が教官の島崎だ。ま、ひとつよろしく頼むわ」

 右手を顔の前まで挙げ、島崎は挨拶をした。

「あ、改めましてよろしくお願いします」

「おぅ。一応履歴書は見させてもらったが全く経験が無いんだって?」

「はい……全く」

「大型トラックは?」

「ありません」

「中型トラックは?」

「ありません」

「1トントラックとかは?」

「ありません」

「さすがに軽トラくらいはあるだろ?」

「お母さんと兼用の軽自動車をたまに運転するくらいです……すいません」

「ほ、本当に真っ白の素人か……?」

「はい……」

 島崎はその場にしゃがみこんで頭を抱えてしばらく考え込んだ。

「いや、すまん。お前が悪いというわけじゃなくてな? ズブの素人教えるのは俺も初めてなもんで、何から教えたら良いのかちょっとプランを練り直さなくちゃならん。ちょ、ちょっと待て」

「お手数おかけします……」


「……」


「……」


「……」


 結局、島崎は昼食時まで考え続けた。



「ダーッハッハッハ! いやぁ、すまんすまん。色々考えてたら考えすぎて最後は自分が何を考えてんのかわかんなくなっちまった!」

「……いいですけど、別に」

「お、怒るなよぉ」

「怒ってませんけど……驚いたと言うか……」

「何に?」

「ここ……」

 粗末な長机で向かい合って二人は昼食をつついていた。ここは運転士休憩室。今日子が〝物置〟と認識していたあのプレハブ小屋であった。

 島崎に連れられてこの小屋の前まで来た時は、昼食の前に何か部品の講義でもするのかと思ったのだが「ん? ここが休憩室だぞ」と言われた時は今日子も言葉を失った。

 今日子は箸を弁当箱の上に置き、両手を膝の上に置いた。

「だって……なんで運転士だけがこんな……ボロボロのとこで休まなくちゃいけないんですか?」

 見渡せば数人の運転士とおぼしき男達が急造で拵えたであろう畳の間でいびきをかいて寝ている。隙間風は入ってくるのに暖房と言えば、誰かが蹴飛ばしたのかフレームの歪んだ古ぼけた石油ストーブひとつだけだった。

 とにかく掃除をしてないらしくそこら中が埃だらけだったし、流しにも洗ってない汚れた食器類が山積みで、ごみ箱はカップラーメンの容器で溢れているという有様だった。

 今日子達が食事をしている長机ですら、こぼした醤油が固まってこびりついていて、黄ばんだ布巾なのかタオルなのかわからない布切れが無造作に置かれていた。男臭さとタバコや色々な食べ物の匂いが入り交じってなんとも言えない悪臭が染み付いている。

 女の視点から言えばボロボロの前にまず不衛生なのが許せなかったのだが、今日入ったばかりの新人の立場で臭い! 汚い! を連呼するわけにも行かず、かなりオブラートに包んで島崎に抗議するのが今の今日子の精一杯だった。

 島崎はしばしの間黙り込んだ。人間というのは長年同じ環境にいると慣れてしまって、おかしいことでもおかしいと思わなくなってしまう。おそらく目の前の新人は自分に言った以上のことを感じたのだろう。

「俺達はな……事務所にいる連中とはちょっと違うんだよ」

「どういうことですか?」

「ネクタイなんざ締めてかっこだけは整えちゃいるが、俺達ゃ荒くれもん変わりもんの成れの果てだってことだ。

 元トラックやダンプの運転手だったやつ。夜の世界でタクシーを走らせてたやつ。ゴミの収集車やバキュームカーに乗ってたやつもいる。若い時からバス一筋だったやつもいるにはいるが、みんなそれなりに荒っぽいことして修羅場くぐり抜けてきて、やっとここで落ち着いたやつも多い。

 対して事務所組は大学、専門学校出の出来の良い奴らばかりだ。勘違いするなよ? あいつらが嫌いなわけじゃねぇ。その証拠にあの中で一緒に飯食いに行くやつだって何人もいるんだ。

 ただな、やっぱり根本は違うんだよ。参考書に囲まれて生きてきたやつと、泥や汗にまみれて生きてきたやつはな。身なりを同じようにしても、やっぱりどこかがな……だからこんなオンボロの薄汚ねぇとこに放り込まれても、そうした環境にばかり身を置いていたもんだから〝こんなもんか〟って思っちまう〝仕方ない〟って諦めちまうんだ。

 お前の求めてる答えとは少し違うかも知れないが、それを良しとしてしまっている俺達自身にも問題があるのかも知れん。俺達がこのごみ溜め小屋をおかしいって思わん限りは何も変わらんのかもな」

 意外だった。今日入ったばかりの新人の言うことなど笑って流されるか、逆ギレされるかのどちらかかと思ってたが、この人は真摯に受け止め真剣に考えてくれたのだ。

「けどな、荒っぽいと言っても法に触れるようなことをしてきたわけじゃない。なんて言えばいいんだ……汗臭い……じゃないほら! 男の世界ってやつだ。

 他のバス屋の運転士はもうちっと上品だと思うんだがな。社長が『前歴なんか関係ない! 気持ちのある人間を採用する』って考えの人だからそういうのが余計集まっちまったのかもな。

 でもみんな気のいい奴らだぜ? みんなバスが好きで入ったり、入ってからバスが好きになったり……顔合わせりゃ給料が安いだの拘束時間が長いだのブーブー文句言ってるが……それでも辞めないってことは、そういうことなんじゃねぇかなって俺は思ってるけどな」

 島崎は後ろで寝ている運転士を顎で示してそう言った。

「なんかいいですね……そういうの」

 そういう気持ちを持った人間のいる会社に入れたことが、今日子は何より嬉しかった。

「ハッ。でも現実問題会社も金が無いってのも本当なんだ。新しい休憩室建ててくれ! って言っても厳しいかも知れんなぁ」

 顎の無精髭をじょりじょり撫で回しながら島崎は困った様子で思案していた。

「とりあえず、まずはここ掃除しましょうよ? 皆さんで!」

 今日子の提案に島崎は苦笑いする。

「バーカ。それが一番難しいんじゃねぇか。男やもめに蛆がわく……ってな?」

「なんですか? それ」

 薄汚れた休憩室に少しだけ優しい空気が流れ込んだ気がした。一見無骨に見えて、こういう懐の広さがあるから教官を指名されてるのかも知れないと今日子は感じていた。


「じゃまぁ、昼からはちょっくら運転してみろ。お前の力量というかセンスもわからんうちは注意のしようも無いからな。ダハハ!」

 またおあずけかと今日は半分諦めかけていた時だっただけに驚きも喜びもひとしおだった。

「は、はいっ!」



 事務所一階の点呼場に二人はやってきた。運転士達全ての発着がここで行われる。島崎は制帽を被りネクタイを整えた。今日子もそれに続こうとしたが、その前に自分の制帽と島崎の制帽を見比べる。

「やっぱり微妙に違うんですね?」

 今日子の質問に島崎は一度被った制帽を脱いだ。

「あぁこれか? そうだな。お前のは見習い用だからな」

 良く見ると島崎の制帽には、中央の金地の帽章に会社のシンボルマーク〝二つのしじみ〟の意匠が施されている。今日子の帽子は金地だが無地だ。

 更に〝腰〟と呼ばれる帽子下部の周囲に宍道湖ブルーのラインが一本入っている。今日子のにはそれが無かった。

「ま……一人前になったらちゃんと貰えるさ。だから頑張って励め」

 島崎は制帽を被り直し指差して笑った。

「はい!」

 今日子は改めて気合いを入れた。

「良し、まずはカウンターの左手、あいつが整管(整備管理者)だからあそこからだ」

 今日子が持っていた先ほどの始業前点検表を島崎はひったくると、手本を見せるためにカウンターへと歩を進めた。

「宍道湖松江二号車、始業前点検異常無し。出庫します」

 島崎は点検表を整管に手渡す。常松とはまた違う五十歳くらいの背の高い男だった。男は点検表に目を通し印鑑をついた。

「はい。許可します。お、例の新人さん? 整備の門倉です。よろしくね」

 門倉は被っていた作業帽のつばに手を添え会釈をした。

「あ、はい。高梨です。よろしくお願いします!」

「島さんあんまりいじめちゃダメよ~?」

 門倉は胸の前で指でバッテンを作りニヤついた。

「バーカ。俺も定年が見えてきた立派な御老体だぞ? そんな無駄なことしてる時間も元気もねぇよ」

 軽口を叩きあってるのを傍らで聞いていて、意外にも見た目より島崎が歳をとっていることに今日子は内心驚いていた。元気と迫力が彼を若く見せてるのかも知れない。

「おし。次はこっちだ」

 整管席の隣、30センチ四方ほどの小さな機械があった。数字を打ち込むであろうテンキーとデジタルの液晶ディスプレイが中央に見える。

「アルコール検知器だ。お前酒は飲むのか?」

「いえ、全く」

 今日子は顔の前で手のひらを横に振る。

「最近の若いやつは飲まないのが増えたよな。俺ら酒飲みは前の晩は飲むタイミングと量考えて飲まないといけねぇ。これにNOって言われたらアルコール抜けるまで仕事出来ない上に始末書もんだ。運転士失格の烙印を押されちまう」

 そう言って島崎は検知器の横に備え付けられた紙製のストローを手に取り、何やら数字を打ち込んでからストローを介して機械へ息を吹き込む。

 3……2……1。ピンポーンとチャイムが鳴った。OKのようだ。

「ほれ、お前もやるんだ」

 島崎が新しいストローを手に取り今日子に渡した。

「最初にお前の社員コードを打ち込む」

 聞きなれない単語だった。

「社員コード? ってなんですか?」

「何ってお前……社員証に番号書いてある……あ、お前まだ仮採用だから貰ってないのか……」

「……貰ってません。すいません」

 今日子は子供のように俯いて答えた。周りで多くの人が見ている中での疎外感は地味にきつい。

「やややや、すまん! べ、別にお前が悪いわけじゃねぇんだから謝る必要なんかねぇよ。少しの間だけだから……とりあえず、000って打って下の「入力」ってボタン押してから息を吹くんだ」

 慌てて島崎がフォローを入れてくれた。こういう細やかな気遣いも出来る人なんだな……と思いつつも今の状況では余計に悲しくなる。

 言われた通りにやって息を吹いた。3……2……1。ピンポーン――

「お、おし……OKだな」

「……」

「じゃあ最後は運管だ!」

 カウンターの右端に運管(運行管理者)席がある。先ほどの二人のやり取りを冷ややかに見ていた佐伯が待機していた。

「お、今日は佐伯ちゃんか。お手柔らかに頼みますぜぃ」

 軽口を叩く島崎だったが佐伯はぴくりとも反応しなかった。

 そんな佐伯の態度を見て、やれやれと言った感じで苦笑いする島崎だったが、それもつかの間先ほどの点検表を佐伯に手渡し、胸ポケットからパスケースに入った免許証を取り出し佐伯の前に提示した。そして背筋を伸ばす。

「宍道湖松江、運転士島崎です。飲酒、体調、車両異常ありません。教育指導のため二号車発車します。点呼お願いします」

 佐伯は免許証と渡された点検表に整管の印鑑がついてあることを確認する。

「確認しました。では本日の注意事項です。お客様の積み残しが無いように、車外のミラー及び目視での確認の徹底をお願いします。と言ってもお客様を乗せることは無いでしょうが」

「ダハハ」

「はい。では無事故の誓い及び安全確認復唱お願いします」

 佐伯がそういうと二人は呼吸を整えタイミングを合わせた。

「「プロとしての誇り責任を持ち、みんなの安全安心守ります! 右良し。左良し。車内良し。前良し!」」

 二人は指差し呼称で安全確認をし敬礼をした。

「では島さん、よろしく頼みます」

「おう。よろしく任せろ」


「……」


「ん? ど、どうしたヒヨっ子? 一人前になったらお前もやるんだぞ? わかってんのか?」

「す、すいません……あ、あんまりかっこ良すぎて見とれてしまいまし……た」

「点呼がか? ダハハ! んなわけあるかい」

 豪快に笑い飛ばす島崎を尻目に耳まで真っ赤にした佐伯が苦々しげに頭をかいていた。

 さっきの休憩室での会話を今日子は思い出していた。学歴も生きてきた環境も違うのかも知れないけど、この二人の間にはきっと仲良しとか好きとか通り越して苦楽を共にして来た信頼関係のようなものがあるんだろうなと、なんとなくだが感じていた。



 整備棟に戻った二人はいよいよ発車の準備にかかる。およそ小一時間にわたって機器類のレクチャーを受けた今日子は緊張と期待が入り交じった表情で教習車の運転席に座っていた。傍らに島崎が腕を組み仁王立ちしている。

「いいか? こっからはビシバシ行くからな? 人命を預かる仕事なんだ。甘い顔はせん」

「……よろしくお願いします」

 この人の指導ならどんなに厳しくても耐えて見せる……今日子はこの瞬間、そう心に決めた。

「シートベルトはしたな? じゃあ行くか……バスに火を入れる。メインスイッチ!」

「メインスイッチ入れます!」


 バスの主電源が入る。


「ブレーキを踏みながらニュートラル確認!」

「ブレーキ踏みます。ニュートラルOKです!」


「エンジン始動!」

「エンジン始動します!」


 キーを回した。後ろからエンジン音が響き渡る。


「光電確認!」

「光電OKです!」


「続けて車内灯及び出入口灯点灯!」

「車内灯及び出入口灯入れます!」


 薄暗かった車内が明るくなる。


「運賃表示器及び整理券発行機ON!」

「運賃表示器及び整理券発行機電源入れます!」


 頭上の運賃表示盤が明るくなった。


「系統番号入力。回送!」

「系統番号……えっと、185。入力します!」


 頭上の運賃表示盤に「回送」と表示された。


「……今この瞬間からお前の運転士としての人生が始まるんだ。準備はいいか?」

 今日子は生唾を飲んだ。

「お願いします」


「良し。フットブレーキを踏んだままサイドブレーキ解除!」

「フットブレーキヨシ。サイドブレーキ解除します!」


「指差し呼称で安全確認。右ミラー!」

「右ヨシ!」


「左ミラー!」

「左ヨシ!」


「ルームミラー!」

「車内、ヨシ!」


「サイドアンダーミラー及び前方!」

「前ヨシ!」


「発車準備右ウインカー!」

 右の安全をもう一度確認しつつ発車合図を入れる。


「よーぅし、では発車!」


『ねぇ見てる? 私、やっと運転士になるんだよ』


「発車しますっ!」

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