第2話 入社

「ねぇお母さん、お母さんてば!」

 いよいよ入社日を迎えた高梨家の朝。けたたましい今日子の声が家中に響いていた。

「はいはい何よもう朝っぱらから騒々しい」

 二階の今日子の部屋の襖を幸枝は開けた。するとあられもない姿の今日子が右手にスーツ、左手に制服を持ちかなり焦った様子で思案している。

 何に悩んでいるのか幸枝は見当がついたが、ひと呼吸入れさせるためにも敢えて聞いてみた。

「あんた何やってんの? もう時間じゃないの?」

 今日子は右手と左手に視線を行ったり来たりさせながら落ち着かない様子で身体を揺らす。

「ねぇお母さん。初日ってみんなの前で挨拶とかするだろうから最初はやっぱりスーツで行った方がいいのかな? それとも事前に支給された制服で行った方がいい? あ、でも面接の時と同じスーツだと笑われるかなぁ……それとも両方持っていって途中で着替えるとか。いや、でもそんな時間あるのかな……」

 さすがの幸枝も娘のことを良くわかってる分、慌てふためく様は滑稽ではあったが気持ちは痛いほど理解していた。今回の宍道湖交通の入社、本当に真剣だった分嬉しかったのだろう。

「もう本当にこの子は……制服に決まってるでしょう? じゃなかったらなんでわざわざ入社前に呼び出されて採寸して支給してもらったのよ? 今日から着てこいってことに決まってるでしょう」

 動き回ってた今日子の動きがやっと止まった。

「あ、そ……そう、だよね」



「じゃお母さん行ってくるね!」

 今日子は愛車の赤い小径の自転車に跨がる。まだまだ肌寒い2月も終わりかけの頃。深い紺色のブレザーとスラックス、宍道湖交通のイメージカラーである青い斜めのストライプ柄のネクタイ。ぎこちない出で立ちではあるが運転士としての生活がついに始まるのである。

「今朝は冷えるわよ? コートも羽織って行った方が良いんじゃない?」

 表まで見送りに出た幸枝が寒そうに体を縮めて言った。

「大丈夫! 自転車漕いでたら5分もしないうちに暑くなるから。じゃあ行ってきます!」

 弁当と見習い用の制帽が入ったショルダーバッグをたすき掛けにし、今日子は幸枝に向けて敬礼をした。幸枝も今日子へ答礼をする。高梨家では二人にしかわからない日常の光景だった。

 ペダルを力いっぱい踏み込む。松江営業所までおよそ十五分。待ちに待ったスタートを今日子は踏み出した。

「事故だけは気をつけなさいよー ?」

 初出社を祝うかのような晴天……というわけにはいかなかったが、重くのしかかる曇天の雲を吹き飛ばすかのごとく、幸枝は小さくなっていく今日子の後ろ姿へ精一杯の声で送り出した。

「まったく……はりきっちゃって。勢いが付き出すと止まらないんだから」

 幸枝は振り向いて古い戸建ての我が家をしばしの間見つめる。

「本当……そっくり……」



 宍道湖交通株式会社


 島根県出雲市に本社を構え、主に県東部の路線バス事業を展開している。支所は県庁所在地である松江営業所。鳥取県との県境に位置する安来営業所。南の中国山地を背に臨む雲南営業所の三ヶ所である。その他、高速バス事業を主とした宍道湖エキスプレスや、観光事業を中心とした宍道湖トラベルサービスなどの支社も存在する。

 明治時代より、日本で七番目に大きい湖である宍道湖周辺の住民の足として、元々は〝宍道湖電気鉄道〟という小さな鉄道事業から始まったそれなりに歴史ある企業である。

 松江営業所について言及するならば、市内の路線業務を担ってと言えば聞こえは良いが、その実比較的利用客の多い市内中心部のほぼ全てのエリアを公営の交通局が網羅しており、松江営業所はと言えば時間や曜日を限定した特殊な便を除き、市内郊外の過疎地から中心部を結ぶ利用客の少ない赤字路線を四本受け持つのみであった。

 高度経済成長期に後押しされ事業拡大した時代は、たとえ郊外と言えど網の目のように路線が張り巡らされており、利用客も多く莫大な収益を生んだものであった。

 しかしマイカーの普及により利用客は減少の一途を辿り、宍道湖電鉄より分社化されて以降は廃線に廃線を重ね、この四つの路線を残すのみとなってしまったのである。

 路線減少による利便性の悪化から更に利用客は減り、行政からの補助金を合わせたとしても採算は僅かに合わず、比較的順調な高速、観光事業等からその赤字分を補填するような形でなんとか体裁を保っていた。

 しかし、いくら割に合わないと言っても、市民の足として機能している路線バス事業から手を引くということは簡単なことではない。なんとかギリギリのところで踏ん張り、利用客の増大、増収に繋げるためにあれやこれやと行政側と手を取り、試行錯誤しているのが宍道湖交通松江営業所の現状であった。


 その松江営業所。市内中心部からほんの少し外れた所に拠点を構え営業をしていた。広大な敷地面積はかつてバスの台数の多かった時代を思い起こさせるほどだが、現在は保有する台数もめっきり少なくなり、余ったスペースは月極め駐車場として一般に貸し出している有様である。

 その敷地の広さとは対照的に、百坪ほどのこじんまりとした二階建ての社屋がほぼ敷地中央に位置していた。一階が総務や運行管理者達、内勤の社員およそ20名が詰めており、二階が所長室、応接室、そしてこの前今日子が面接をした会議室などが設けられている。

 その一階事務所。社員達の前に立たされ、ガチガチに緊張する今日子の姿があった。


「き、今日本日からお世話になりました! な、なります。右も左も高梨今日子ですっ! 一生懸命頑張って生きています。よ、よろしくお願いしますっ……あれ?」

 腰を直角に折り曲げ頭を下げた今日子ではあったが自分がどんな挨拶をしたのか良くわかっていなかった。が、周囲の反応からしてインパクトのある挨拶だったことは間違いないようだった。

 松江営業所の事務所内はざわつき、所々クスクスと笑い声が聞こえてくる始末であった。隣にいた佐伯が面接の時と同じく青筋を浮かべひきつった笑顔を浮かべながら場を取り持つ。

「えー……かなり緊張されてるようですが、初日ですし皆さん多目に見てあげてください。当面は見習いとして島崎さんの下で教育を受けていただきます。それから人数が人数ですのでこちらの自己紹介はおいおいということで。

 左手側が総務の方々、右手側が我々運行課、運行管理の者達です。運転士は40名弱いるのですが、ほとんど出払っているか休みかですのでここにはおりません」

 早くこの場を終わらせたいのか佐伯はかなりの早口でまくし立てた。

「ほらっ、最後にひとこと言って一礼……!」

 佐伯に肘で小突かれ今日子は慌てて頭を下げた。

「よ、よろしくお願いします」

 自己紹介も終わり佐伯に連れられて事務所を出る時、どこからともなく誰かの話し声が耳に入った。


「やっぱり教官島さんなんだ。可哀想に」

「今度は何日持つかなぁ」

「今日だけだったりして」


 島さんていったいどれだけ鬼なんだ……今日子の不安はいっそう募るばかりだった。


 駐車場に出た。来た時は緊張しまくりで辺りを見回す余裕がなかったが、改めて見ると本当に広い。バスが何十台も停まるわけだから当たり前と言えば当たり前だが。

「今は朝の便にほとんどの車両が出ているので停まってるのはご覧の通りです」

 そう言う佐伯が指し示す先に五台ほどのバスが適当に間隔を空けて停めてあった。

「わぁ……」

 白地に屋根とバンパーが青。ボディ中間くらいの高さに横一直線の青と黒のライン。ボディ側面と正面には宍道湖交通のシンボルマーク〝二つのしじみ〟が描かれていた。ずっと昔から市民に親しまれてきた、通称〝しじみバス〟がそこにあった。※しじみは宍道湖の名産品。

 あれに乗るんだ……やっと。胸の鼓動が高鳴るのを感じる。六年待った分、思うこ――

「何してるんです? 次行きますよ!」

「は、はいっ!」


 敷地の南東側の隅にはバスが二台くらいすっぽり入りそうな高い屋根の建家があった。その隣の少し離れた場所に薄汚れた大きいプレハブ小屋がある。物置小屋かな? 窓にカーテンがしてあり中の様子が伺えない。

「整備棟です」

あぁ、やっぱり。あの小屋に部品やら何やらいっぱいしまってあるのだろう。

 整備棟に近づくにつれ、中に一台のバスが停まっているのが見えた。先ほどのバスたちとは違い更に古くくたびれ果てたようなバスだった。色はくすみ汚れていて、所々錆びが浮いてきている。

「教習車です。少々くたびれてはいますがまだまだ現役です。予備車として運行することもあります。当面は島崎さんと共にこのバスで……高梨さん?」


「……同じ型のだ、あのバスと……」


 そう呟くと今日子はそのバスをじっと見つめたまま動かなくなってしまった。佐伯の説明も耳に入っていないようである。佐伯のイライラが更に募る。いい加減大声を出そうとした時だった。

「いいバスじゃろう? 質実剛健──飾り気が無くシンプルじゃが頑丈で故障も少ない。もう二十年選手じゃが、少し小洒落てなよっちくなった今の型よりワシはこっちの方が好きじゃ!」

 そう声が聞こえたかと思うと腰にバシッと衝撃が走る。

「「わぁっ!」」

 想いにふけっていた今日子は一瞬で現実の世界に引き戻され飛び上がった。隣の佐伯も同じ反応をしている。どうやら腰を叩かれたらしい。

 振り向くとお爺ちゃんと呼んでも差し支えないくらいの年齢に見える小柄な男がしたり顔で立っていた。

「カッカッカ! お前さんか? このご時世に運転士になりたいなどとわざわざ志願してきた変わりもんは?」

「つ、常松課長! 驚かさないでください」

「カカカカ! 悪い悪い佐伯ちゃん。一度声をかけたんじゃが二人とも気がついてくれなんだでな」

 老人は両手を後ろの腰に回し高らかに笑った。

「課長?」

 薄汚れたヨレヨレの作業着を着た老人の出で立ちと課長という単語のギャップに今日子が苦しんでいると佐伯は察したのか、紹介を始める。

「ぉほん……えー、こちらが整備課長の常松さんです。本来なら定年のお歳なのですが、こちらの方もなかなか人手不足なもので続けて勤務していただいている次第です」

 新人の前で取り乱したのが恥ずかしかったのか咳払いをし、あらぬ方向を向いて佐伯は常松を紹介した。

 状況を理解した今日子はすぐさま常松へ頭を下げ自己紹介した。

「き、今日からお世話になる高梨です。よろしくお願いします!」

「おぅ。まぁそんなに固くなりなさんな」

 にこやかに常松は応える。佐伯と違って雰囲気の柔らかい人で良かったと、今日子は少しだけホッとしていた。

「では常松課長、後はよろしく頼みます。島崎さんはまだ乗務から帰ってきてませんので、それまでお願いします。

 ──では私は戻ります。後は常松課長の指示に従ってください」

 常松と今日子にそう言うと素早く身を翻し佐伯は足早に事務所の方へ帰って行った。

「ったく、相変わらず堅物じゃのぅ。自分自身も疲れるだろうに。のぉ?」

 常松が今日子に同意を求める。今日子は愛想笑いをするしかなかった。


「んじゃま、ある程度は教習所で習ったのかも知れんが、始業前点検のやり方からおさらいしとこうかの」

 整備棟の中、先ほどの古いバスを見上げて常松は言った。いよいよ〝あのバス〟を運転出来るのかと期待していた矢先に点検をやれと言われたものだから、今日子は少々出鼻を挫かれた想いがした。

「はい……点検ですね」

 その今日子の言葉の微妙なニュアンスと顔つきに常松は何かを察したらしく、先ほどまでの朗らかな笑顔は消え真顔で今日子を見据えた。

「発車させんぞ?」

「はい?」

 常松が何のことを言ってるのかわからなかった。ただ、先ほどまでとは明らかに雰囲気が違って見えることだけは肌で感じていた。

「運転士はな、運行管理者の指示の下バスを走らすじゃろ?」

 今日子は黙って頷いた。

「その運行管理者と双璧を成すのがワシら整備管理者じゃ。 運行管理者がどんなに発車せぇ言っても、点検も出来ていない危険な状態のバスならワシらはOKは出さん。整備管理者の了解が無ければバスは発車出来んのじゃよ」

 常松はそう言うと傍らにあった工具が入ったラックから細身のハンマーを取り出した。

「ちょっとこっちゃ来い」

 今日子に古いバスに近づくように促し、タイヤの前でしゃがむ。

「見えるか? タイヤホイールのナットに魚の鱗のような模様がいくつも見えるじゃろ?」

 今日子もしゃがみこんでナットの側面を見る。確かに細かい無数の何かの模様のような跡が見えた。今日子が確認したのを見るや、常松は持っていたハンマーでナットを軽く叩き始めた。


 コンコン、コンコン、コンコン……


 甲高い金属音が整備棟内に響き渡る。


 コンコン、コンコン、コンコン……


「こうしてな、ナットが弛んでないか調べるんじゃ。こうやって片方の手はナットに添えて。弛んでおったら曇った音が聞こえる。添えた手に鈍い感触が伝わってくる……ほれ、やってみろ」

 常松からハンマーを渡され、今日子は見よう見まねでナットを叩いてみた。


 コ、ココン、コン、コン……


 初めてなのでリズミカルには行かなかったが、とりあえず常松は頷いてくれた。

「いいじゃろ。コツは徐々に覚えて行ったらいい。ほれ、もっぺん貸してみ?」

 今日子からハンマーを受け取ると常松は再びナットを叩き出して言った。

「この模様はな。来る日も来る日も、雨の日も風の日も運転士達が始業前にナットを叩き続けた跡じゃ。一日や二日じゃこんな跡はつかん。それこそ気が遠くなるほど長い年月を毎日毎日な……」


 コンコン、コンコン、コンコン……


「ワシはこの跡を、あれらの勲章だと思っとる」


 運転士として、するべきことをせずに浮かれていた自分と、この老人を心のどこかで軽く見ていた自分を今日子は恥じた。それと同時にとても大切なことを教わった気がした。

 今日子の胸の内に温かい感情が流れ込み、思わず呟く。


「バスマンの勲章……」


「ん? 嬢ちゃん何か言ったか?」

 振り向いた常松の前に改めて立ち上がり深々と今日子は頭を下げる。

「常松課長。先ほどは本当にすみませんでした。ちゃんとした点検の仕方、どうか教えてください!」

 礼をしたままじっとしている今日子の姿を見て、常松はしばらくポカんとしていたが、やがて先ほどのような朗らかな顔に戻って行った。

「永嶋が面白い奴が入ってきたと言っとったが、本当のようじゃの」

「え?」

「なんでも無いわい! さぁ、島ちゃんが出てくるまでに一個でも二個でも覚えておくんじゃ。次はタイヤの点検じゃ」

 常松がハンマーを振りかざして立ち上がる。今日子もそれに続いて気合いを入れ直した。


「お願いします!」

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