バスマン!
江留賀 実男
第1話 面接
「はい。最っ高のバスマンになるためです!」
面接会場とは名ばかりの小さく薄汚れた会議室に今日子の声が響き渡る。そのはつらつとした些か大きすぎる声に気圧されたのか呆れたのか、今日子と対峙して正面に座る二人の男はしばし言葉を失った。
静まりかえった会議室。調子の悪そうな空調の音だけが響き渡り、余計に場を重苦しくさせた。
やがて片方の痩せた中年男が、眼鏡の位置を人差し指で整えながら怪訝そうな眼差しで今日子を睨み付けた。きっちり七対三に分けられた髪、黒縁の眼鏡、細い体がこの男の神経質さをより一層際立たせている。
「高梨さん? 失礼ですがバスマンというのは……間違っていたら申し訳ないのですが、私が今まで生きてきた中でおそらく初めて聞く単語ではないかと思いまして」
顔は笑っているが明らかに怒っている。こめかみに浮かんだ青筋と、笑顔とは正反対の冷えきった眼差しが今日子を射抜く。自分のした質問をふざけて返されたとでも思っているのかも知れない。
さすがに〝前向き、元気が取り柄の女〟と家族や友人に揶揄されるのが日常の今日子であっても、これは弁解せねばマズいと口を開いた。
「えーと、その……バスマンというのはですね……バス……そう! バスに乗る人……的な?」
それを聞いた男は益々青筋を浮かび上がらせる。
「ほ、ほほう……?」
その鬼気迫る少々間抜けなやり取りを聞いていたもう一人の大柄な男が、ため息をひとつほどついて口を挟む。
「要は運転士ということかな? 応募の動機は最高の運転士になりたいから……そういう解釈でよろしいですかな?」
助け船を出してもらい咄嗟に今日子は反応する。
「は、はい! その通りです」
大柄な男はグレーになった髪や皺の数から痩せた男より歳は重ねているように見えるが、穏やかな口調やそのふるまいから風格や威厳を漂わせている。
人の上に立つ人間の成せる所作なのかなと、答えながら今日子は思った。
「高梨さん、一応ここは面接の場です。質問には我々の理解出来る範囲の言葉で回答をお願いしたい。よろしいですか?」
静かに、しかしそれでいて有無を言わせぬ空気を吐き出しながら大柄な男……宍道湖(しんじこ)交通松江営業所所長、永嶋は言った。
「は、はい。申し訳ありません」
これは落ちたかも知れない……気圧された今日子は肩を落とす。
「よろしい。では、次の質問を……佐伯くん」
永嶋は長机の上で両手を握り合わせながら隣の痩せた男に促した。
「はい。では質問に戻ります」
宍道湖交通松江営業所、運行部二課長である佐伯は、永嶋が間に入ってくれたことでどうにか苛立ちを抑えることが出来たようだった。深呼吸をし話を続けた。
「現在我々を取り巻く環境は非常に厳しい状況だと最初にお話しました。その中で多くのバス会社が運転士獲得のために日々悪戦苦闘しており、大型二種免許を所持していない応募者に対しては応募、面接、採用、費用会社負担で教習所。という流れなのに対し、当社は応募、個人負担で教習所、面接、採用後教習所費用を個人へ支払う。という流れになっています。何故だかわかりますか?」
佐伯は淡々と感情を込めず今日子に質問した。予想していなかった質問に今日子は焦り、「いえ……」という言葉しか出て来ない。
「確かに今バス業界の運転士不足は深刻です。当社も例外ではなく、喉から手が出るほど運転士が欲しい。しかしだからと言って安易に応募してきた者をそう簡単に採用するわけにはいかないのです」
冷ややかだがまっすぐに佐伯は今日子を見つめる。まるで今日子の胸の内を探っているかのようだった。
「……人命」
佐伯の話を受け、今日子は反射的に思い至った単語を口にした。それを聞いた永嶋が深く頷きながら続きを引き継いだ。
「その通り。我々は荷物ではなく人命を運びます。ご存知の通りこれは何よりも重いものです。運転士はそれなりの重責を背負って運行することになります。しかし、深刻な運転士不足が社会問題化する昨今、とりあえず頭数が揃えたい会社側が大型二種免許取得の費用を負担するからと、大した面談もせずに安易に採用するケースが増えています」
永嶋の話を横耳で聞きながら佐伯も目を閉じ頷いていた。
「応募する方もする方で何十万とかかる大型二種免許の取得費用を会社が負担してくれる上に簡単に雇ってもらえるなら……と、この仕事の責任の重さを甘く考え応募してくる者も増えました……こんなことを続けて行けば、最後はどうなるかおわかりになりますね?」
永嶋の問いに今日子は想像し得る行着く先を思い浮かべ、ためらいながらも口にする。
「……交通事故の絶えない会社になると思います」
「そうです」
永嶋は再び頷いた。その後を追うように佐伯が続けた。
「うちは違います。それ相応の覚悟のある者、安全への意識が高いものしか採用しません」
この時点で何故自費で最初に行かされたのか。今日子はなんとなくわかり始めていた。
「安全は何ものにも優先する。これは当社のモットーです」
永嶋が低く、しかし会議室中に響き渡る強い声で断言した。隣で佐伯も今日子を見据えたまま深く頷く。そして種明かしを始めた。
「まず応募の段階で自費で教習所に通ってもらうことを伝えましたよね?
いくら採用後には費用は返ってくると言っても、途中で何があるかわからない。本当に採用されるという保証も無い。本気でうちで働く気の無い者ならこの時点で辞退されます。
そして次に何十万という高額の費用を実際に手にし、この免許がいかに世間的に意味のある重要性の高いものなのか……その金額をもってある程度認識していただきたかった。入社後に会社が教習所へ支払う場合、本人は実際に現金を手にしませんからね」
おおよそ予想はつき始めていたのだが、今日子は姿勢を固くしたまま固唾を飲むことくらいしか出来なかった。つまり最初から面接は始まっていたのである。
「貴女はなんの躊躇いも無く教習所へ行く選択をしてくれました。第一段階は合格です。そしてここからが第二段階です。所長お願いします」
佐伯が永嶋に振った。永嶋の視線が今日子を捉える。微笑んでいるようにも見えるが、眼差しは真剣そのものだった。今日子も腹を据えて永嶋の方へ視線を向ける。
「先ほどもお伝えしたように、現在のバス業界を取り巻く環境は大変なものとなっているのはおわかりいただけましたね?」
今日子は黙って頷く。
「平成十四年と十六年の規制緩和によるバス会社の乱立と相次ぐ不採算路線の廃止、苛烈極まる価格競争と減便による利用客離れの皺寄せが運転士を直撃しました。長時間労働低賃金……ひと昔前ならバスの運転士と言えば子供たちも憧れる花のある職業でした。それが今やブラック職業の代名詞のように言われています」
永嶋の話を佐伯は眉間に皺を寄せ苦々しげに聞いている。
「うちも例外ではありません。長時間拘束している割りに満足の行くお給料は出せないでしょう。休日も……あくまで無理の無い範囲でとは考えていますが、いくらかは出勤していただかないとシフトが回らないのが現状なのです。恥ずかしながら……」
今日子を見つめていた永嶋の視線が下を向いた。雇用側として、責任者として情けない想いもあるのだろう。しかしこれだけで話は終わらなかった。
「待遇面でこれだと言うのに、運転士の両肩にかかる責任は重いままです。多くの人を乗せるリスクは余りにも大きい。例え命にかかわるような大事故ではなくてもね……
乗務中にお客様が車内で転倒して怪我をされる――これも〝車内事故〟として通常の交通事故と同じ扱いとなります。
運行はその時点で中止。警察を呼び実況検分を行い。運転士には処分が下されます」
今日子は生唾を飲んだ。これは聞いていなかった。車内で人が転んでも免許に傷がつくなんて……背中を嫌な汗が流れ落ちるのを感じた。永嶋は続ける。
「どうです……こんな割に合わない仕事誰がすると思いますか? まぁでも入社していただけるなら、このような事態にならないように教育は熱心にさせてもらうつもりでいます。
晴れて一人前になるまでは、うちでも特別厳しい鬼教官に指導を担当させますので……安全のために」
「鬼……教官」
わけがわからなかった。この所長は私を落としたいのではないかと疑いたくなるくらい、最後の方の言葉は芝居じみて聞こえた。
思考が先に進まない今日子をよそに、頭のずっと遠くから今度は佐伯の声が聞こえた。
「考え直すなら今です。自費で教習所に行ってもらった理由はここにもあります。今なら考えを改められてもうちは懐は痛みませんので。
かかった費用も免許取りたてですし、次に面接されるところでご相談されては如何ですか? よそもうちと同じく火の車ですし、教習所費用は出すから早く来て欲しい。と言うところは多いと思いますよ? 」
「寧ろ取りに行かせる手間が省けたって喜ぶかもねぇ?」
「えぇ、まったく」
「あー、ひまわりコミュニティの片岡くんがこの前会った時に誰でもいいからいませんか? って泣きついてきたなあ」
「ひまわりさんのとこならおすすめですね。あそこの社長は本当に女性には甘いですから。優しくしてもらえると思います」
「紹介しようか?」
固まり続けている今日子を横目に話が別会社への紹介ということで話が進んでいる。私は何のために今日ここへ来たのだろう。落とされに来たのだろうか……いや違う、馬鹿げてる。
さすがの今日子も緊張が怒りへと沸々と変化しているのを肌で感じていた。
身体が震える。我慢の限界だ。それでも堪えろと自分に言い聞かせる…… 爆発してしまえばもう終わりだ。長い長い教習所での苦労も全て無駄になる。
けど……けど……
「……かげんにしてください」
「「ん? 何か言いました?」」
永嶋と佐伯が声を合わせて今日子の方を向いた。その瞬間……
「いいっ加減にしてくださいっ! なんなんですか? なんなんですかさっきから!」
ついにキレてしまった。もう終わりだと思うと同時に、抑えてきた感情が激しい奔流へと変わり溢れ出てくる……もう止められない。
「私は今日、宍道湖交通の運転士になりたくてここへ来たんです! それがなんですか? いくら私を採用したくないからって、嫌がらせが過ぎませんか?
ずっと、六年間ずっと待っていたんです。運転士になりたくてなりたくて……二十一歳になると同時に免許を取るつもりでいました。けどお母さんに猛反対されて説得出来なくて……そうこうしてるうちにおばあちゃんが寝たきりになってしまって、ずっとずっとしたいことも我慢して、お母さんと交代で介護してきました。
こんなこと言ったら不謹慎だと思われるかも知れませんけど、昨年おばあちゃんが亡くなってやっとやりたかったことが出来るようになったんです! お母さんもやっと説得が出来たんです! それなのに……それなのに……!」
一気に吐き出した。気がつくと今日子は立ち上がり両手の拳を握りしめ永嶋らの前に立ち尽くしていた。
そうだ。他の会社ではダメなのだ。宍道湖交通でなければ……
肩で息をし頬を涙が伝う。化粧は崩れてるだろうしせっかく新調したスーツも乱れているだろう。泣き顔を見られたくはなかった。後ろでまとめていた髪を解く。肩までかかる髪が力無げに項垂れる今日子の顔を隠した。
面接開始前、はつらつとした顔でこの部屋へ入ってきたというのに、その姿はもう見る影も無かった。取り乱し疲れ、放心状態の女が一人……会議室は静寂に包まれた。もう永遠にこの時間が続くかと思われたその時、今日子の一番想像していなかった言葉が彼女に投げかけられた。
「ん……採用」
永嶋だった。隣にいた佐伯も少々驚いた様子で永嶋を見ていた。
「……へ?」
日本間抜け声選手権なるものが開催されるのであれば、ベスト8に入るくらいの気の抜けた声を今日子は発していた。余りにも展開の変化が早すぎて付いて行けない。
「とりあえず〝仮〟です。うちの教育は本当に厳しいと思います。それを晴れてクリア出来たら本採用ということで。
教習所費用もその時にお渡ししましょう。それまでは契約社員という身分になります。日当も少ないですがお出しします。途中で投げ出された場合は先ほどお話した通り他社さんを紹介させていただくということになるかも知れませんが ……それでもよろしければ」
永嶋は表情ひとつ変えずに言った。
今日子はゆっくりと顔を上げる。仮採用ではあるが、これは一歩前進したということではなかろうか? 頭の中の混乱がまだ続いていて永嶋の言葉を理解するのに時間がかかる。
「私……私、バスに乗れるんですか? バスの運転出来るんですか?」
「当面は見習い。古い教習車で良ければ」
無表情だった永嶋の表情が少しだけ綻んで見えた。先ほどまでどん底に叩き落とされていた感情に光が差す。色を失っていた視界が元に戻り、血の気を失っていた全身に再び熱いものが流れ始めた。
――バスに乗れる ――
今日子は泣き腫らした顔に満面の笑みを浮かべ目の前の未来の上司達にこれでもか! というほどに深く、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします! 」
今日子が今にもスキップでも始めるのではないかという勢いで退室し、少々型破りな面接は終了した。
実は今日の面接、本来なら隣の市にある本社で然るべき人事担当者の元で行われるはずだった。本社で面接の後、採用されれば本人の意向や家族構成、住まいなどを加味された上で、いずれかの営業所に配属されるのが通常の流れである。
しかし応募の段階でどうしても松江営業所で勤務したい! と身の程もわきまえず執拗に懇願してきた今日子に本社の人事担当者も困り果て、永嶋に相談してきたのが事の始まりだった。
その話を聞いて今日子に興味を持った永嶋が、それならばうちで面接してみましょう。ということで今日の面接に至ったのである。
どこの営業所も人手不足なので「永嶋のとこだけズルいぞ」と他の所長らが文句を言ってきてもおかしくない案件だったが、何かと本社の偉いさんとコネのある永嶋ではあったので、なんとか事を荒立たせずに異例の面接をすることが出来る運びとなったのであった。
「本当に良かったんですか? 所長。やる気があって今時珍しいタイプだとは思いますが、私は苦手です……トラブルの臭いがプンプンします」
今日子が退室し、温度の下がった会議室で佐伯はため息と共に愚痴をこぼした。
「ん、まぁまだ仮採用ですし、島さんの指導を耐え抜けばそれなりに見込みもある。ということにしときませんか? どっちみち人足りないんだし」
少し冗談めかして永嶋は佐伯を諭した。少々神経質ではあるが生真面目さが売りの男である。今回は永嶋の独断で決めた面も少なからずあるので、佐伯に対して申し訳ない想いもあった。
「鬼の島さんですか。確かにあの人の教育を耐えることが出来れば、根性があることだけは認めますけどね……」
手元の資料をまとめながら佐伯は席を立つ。
「私ももうアラフィフです。トラブルメーカーは御免ですよ? 本当に」
「そんな時のための佐伯くんでしょう? 事態収拾の手際の良さ、期待しているんだから」
「止めてください。それに今回は上手く行きましたけど、こんなやり方続けてたらますます人が集まってこなくなると思いますよ? 社長の方針というのは理解しますが、現状も考慮してもらわないと……では、頼みます」
茶化す永嶋を手で制し佐伯は会議室を後にした。
「……バスマンね……」
一人残った会議室。どことなく楽しそうな永嶋の姿があった。
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