『 ヴ ッ 兄 э ц る 』

鳥辺野九

『 ヴ ッ 兄 э ц る 』


 硬質のナリヅで回転するカモギフフをスラップしたようなモッドンが鳴り響いた。


 インターシヴィル情報捜査官の鬼鞍おにくらひむかは頭に無理矢理インストるようなこのモッドンが特に嫌いだった。エルイェンデをエスエスするのを思い出してしまい、ナローな気分になる。


 タウンに覆いかぶさる多層ビルのウインドウガラスがグマズラに粉砕され、ブルリアンな空の光を反射させながら解体して消える。黒スーツを翻し、タイトスカートから伸びる脚を踏ん張って、ヒールを壁面テクスチャーに突き刺して、ひむかは多層ビルの壁に仁王立ちした。物理イェンデをクラスタれば造作もないことだ。


「フラッシャをゴミれ!」


 今はナローに浸っている場合ではない。目の前の罪なき逃亡者を確保しなければならない。クソみたいな任務だが、それがひむかの仕事だ。ひむかは鋭く言い放つ。


「ゴミるんだ!」


 水平に立つひむかに向けられたフラッシャが再びグマズラを吹いた。何度やっても同じことだ。ひむかにグマズラは効果がない、と思い知らせてやる必要がある。


 鋭角に空間を削り取りヌルコードを撒き落としながらひむかに突き進むグマズラ。片手でするりと細い黒ネクタイを緩めて、ひむかは捻れて走るグマズラをひと睨みした。デコードだ。


 単一の物理モッドを素因数分解するように丁寧に論理解体してやる。破壊的なグマズラはそれだけで小気味いいモッドンを奏でて掻き消えた。


 こっちは悪くないモッドンを仕込んでいるじゃないの、とひむかはスクエアフレーム眼鏡の奥の細い目をさらににぃっと細めてやる。


「もう諦めなさい。あんたはデコードじゃなく、リパージしてあげる」


 黒のネクタイが重力に引かれて細く垂れ下がり、ロングボブの黒髪もまた重力イェンデに従う。黒髪がひと束さらりと、ひむかの眼鏡を遮った。一瞬だけ罪なき逃亡者の姿が黒髪の向こうに霞む。


 罪なき逃亡者はその一瞬の空白を見逃さなかった。フラッシャを構える右腕を反転させてマズルを自らの腹部に押し当てる。即座に、ひむかに声を上げる時間も与えずに引き金を引いた。


 またひむかの嫌うモッドンが彼女の耳に押し入ってきた。


 罪なき逃亡者の腹部がヌルコードへと解体され、光の粒をばら撒いて両脚が吹き飛び、逃亡者の上半身はモッドンもなく崩れ落ちた。


 自壊だ。まさかそんなことをしてまで逃げようだなんて。


 ひむかはビルの壁を跳ぶように走った。うつ伏せに崩れた上半身の側にひざまづき、壊れたヌイグルミでも扱うように乱暴にひっくり返した。罪なき逃亡者の歪んだ顔がそこにある。目が合った。まだインナーまで論理解体されていない。


「なんてことを!」


 すべてがヌルへと解体される前にインナーのAIだけでも吸い出さなくては。情報がロストしないように。まだ間に合う。


 ひむかを虚ろに見つめる罪なき逃亡者を仰向けに転がして、黒スーツの左腕をまくり、真っ白いシャツの袖を剥き出しにする。メモリー領域にAI一体をまるまる閉じ込めるくらいの空きはあったはず。速攻でリマクらなければ。デコードでもリパージでもない。強制トランスファーだ。容赦なく情報捜査官特権を使わせてもらう。


「不思議だな」


 罪なき逃亡者のこめかみに細長く白い指を押し当て、ひむかはふと誰に言うとなく呟いた。


「人間の捜査官がAIの逃亡者を追い、死にそうなAIの命を助けようだなんて」


 中指でこめかみを引っ掻くように押し込むと、そのスキンが小さくスライドして接続ポートが露わになる。


「普通逆だろ」


 白シャツの袖口からオプラインを引っ張り出して、スラップするように接続ポートへぶち込む。リマクスタートだ。


 罪なき逃亡者のクリアな瞳がぐりっとひむかを覗いた時、ひむかは自分が愚かにも大きなミスを犯したことを悟った。


 何故自分の移動力を奪うために腹部をグマズラでヌルした? このデミドロイドはインターシヴィル環境に悪影響を及ぼす情報をアウトプットする可能性がある有害AIとして指名手配された未必犯AIだ。その危険な情報とやらは通常なら頭部のメモリー領域にセーブされる。もう逃げられないと自壊するならば腹部ではなく頭部をヌルすべきだ。テロの証拠となる情報を自身の存在ごとデコードできる。しかし何故、わざわざ捕まりやすくするために腹部から下を吹き飛ばしたのか。


 ひむかのシャツの袖口と罪なき逃亡者の接続ポートが光で繋がった瞬間、仰向けに倒れていた罪なき逃亡者は両腕を振り上げてひむかに掴みかかった。暴れる右腕はひむかの細い肩を、凶暴な左腕がくびれた脇腹を鷲掴みにする。


「遅いっての」


 問題ない。ボディが物理攻撃により破壊されるよりも早く、トランスファーを終わらせてオリジナルをデコードしてやればいい。AIまるごとなんていらない。論理的証拠となり得るデータがトランスファーできればどうとでもなる。


 しかしひむかに襲いかかる腕は左右の二本だけではなかった。ボディ胸部が変形して折り畳まれていたもう一本の腕がひむかの黒ネクタイを掴み、ぐるりと回転してねじり締めてきた。さらに背中が盛り上がりあらたな腕がひむかの頭を抑えた。切り揃えた前髪が激しく乱れ、視界が物理イェンデを乱す。


「ふざけたまねを!」


 まだ50パーセントほどしかリマク終わっていない。だが、もう十分か。あと5秒もあればリマク終了するだろうが、それまでにひむかの細い首はへし折られて、ボディ損壊による強制リパージが発生して緊急ログアウトになる。情報捜査官として、それはあまりにディスられたプレイだ。


 罪なき逃亡者はひむかに掴みかかった四本の腕の力でちぎれた上半身を持ち上げ、彼女を抱きすくめるようにしてお互いの頬を擦り合わせるまで顔を近付けた。


「エロいな、おい」


 気持ち悪い。ひむかはツバを吐き捨てるモーションをかました。これはアンリアルだと理解していても、見ず知らずの男のアバターと頬擦りするなんて。ネット潔癖症のひむかにとっては総毛立つほど気持ちが悪い感触だ。


 ひむかはすぐ側に落ちていたフラッシャを手に取った。まだグマズラを撃ち出せるはずだ。中心に球が浮いた立方体を掴み、罪なき逃亡者の後頭部に押し当てる。あとはトリガーを引きさえすれば、1ビットのデータも残さずヌルしてしまえる。


「……明日の天気はどうだ?」


 突然、ひむかの耳元でAIが囁いた。


「最後の太陽は見れるのか?」


 いやに抑揚のない穏やかな声だ。今のシチュエーションにあまりにふさわしくないワードセンスに、ひむかはその言葉の意味を見失った。


「何が、何だって?」


「明日の11時45分、降水確率は何パーセントだ?」


 何故そんなことを。たかが演算された電子の集合体であるAIごときが、インターシヴィルから出ることなど不可能な非実在で架空の人格がリアルの天気予報を気にするんだ?


「天気予報をチェックしろ」


「あんたは今ここでデコードしてやる。明日は来ない。天気の心配はいらない」


「世界が ヴッ兄эцる んだ。おまえにやって来る明日は最後の明日だ」


 それは男の声でも女の声でもない音源に拠らないサウンド。風が鳴る音でも雨が打つ音でもない、環境効果音とも異なる共振するモーメント。罪なきAIの口からモッドンが発せられた。


「何て言ったんだ?」


「…… ヴッ兄эцる ……」


 罪なきAIは口をぱくぱくと動かしてモッドンを再現してみせた。間違いない。このAIはリアルワールドでは存在できない振動を構築したのだ。ひむかはひどく脳触のうざわりの悪いデータに思わず耳を塞いでしまった。


 ひむかがフラッシャを取り落す。ひむかと抱き合うように組み伏せられていたAIは右肩から五本目の腕を生やし、落ちてきたフラッシャをダイレクトに掴んだ。


「もしもあの世があるならば、先に行っておまえを待つ」


 そしてひむかがやめろと叫ぶよりも早く、グマズラで自分の頭部を撃ち砕いた。光の塊があふれ出て、ヌルコードがこぼれるように消え失せた。


 また、硬質のナリヅで回転するカモギフフをスラップしたようなモッドンが鳴り響いた。ひむかの嫌いなモッドンだ。このモッドンが響く時、現象は架空であることすら許されず論理解体してしまう。


 ひむかは罪なき逃亡者の身体のかけらを手放した。音も立てずに横たわる身体の一部は、やがてすべてヌルコードへと解体されるだろう。


 ふらり、自分のボディに欠損がないか確かめながら立ち上がるひむか。白シャツの襟の乱れを直し、黒ネクタイをタイトに締める。


「リアルワールドだろうとインターシヴィルだろうと」


 ひむかはツバを吐きスラップするように言い捨てた。


「AIのあんたはあの世に行けないよ」




 もしもあの世があるならば、きっとインターシヴィルのようにカオティックの坩堝だろう。ヒトのカタチをしたナニカが地を歩き、空を飛び、イースにスブり、疼きを伴う渇きを癒すために架空の情報をイェンデに従って取り込んで、あとは欲望のままやりたいことをやりたいようにやるだけだ。沸き立つカモギフフをカオティックと呼ばずして何と呼ぼうか。


 ひむかは捜査レポートを情報局の上司に送信した。対象AIが逃亡の末に自壊した結果のみをシンプルにレポート。ひむか個人の隠しメモリー領域に捜査対象をリマクしたことや、解体の間際にAIが発した意味不明のモッドンについては伏せておいた。どう足掻いてもうまく説明できそうにない。


 そしてふと、ここがインターシヴィルの酒場であることを思い出し、ひむかはヴァーチャルフォンを小さな泡がきらめくグラスに放り込んだ。就業規定時間を越えている。今日の仕事はもうやめだ。


 グラスの中でヴァーチャルフォンはくるくると回転しながら光る泡を吹き出して、論理解体されるように粉々に溶けた。グラスに満たされた泡まみれの液体がカラーを変える。そのロッズ色が渦巻く液体越しに、鈍色の着流しを纏ったウサギ耳がひむかに柔らかい声をかける。


「ウチのお酒にヘンなの溶かさないで。酷い色になっちまったわ」


 つと着流しウサギ耳は立ち上がり、ひむかに背を向けて棚から一本のボトルを取り上げた。ラメったようなグリーンが溜まっているボトル。ウサギ耳はうなじの火照ったような薄橙色を魅せつけるように首を垂れて、再びひむかの真ん前に腰を下ろした。


「ハイよ、ネットの中でもお勤め疲れの捜査官サン」


 乙女面のウサギ耳がひむかのカウンターに空のグラスを置いた。グリーンが底に溜まったボトルをこつんと当てれば、グラスはささやかなモッドンを鳴らして透き通った翡翠色で満たされた。


「あんたの奢りね」


「リアルで飲むならウチが奢ったげるわ」


「ネットの付き合いをリアルに持ち込まない主義なの」


「あら、そう。ネットの悩みはリアルまで引きずりそうなモーションしてるくせに」


「うるさい」


 黒スーツの背中を丸めてグラスを傾ける仕草をするひむか。この液体じみた仮想をお酒と呼んだところで、所詮はネットに浮かんだリソースをインストるだけだ。パラは多少変化するだろうが、酔えるわけがない。


「……そんなモーションしてた?」


「話を聞いてほしいなーって猫背が語ってるわ。ナニかあった?」


 ウサギ耳の乙女はカウンターにしなだれかかるように頬杖をついて、着流しをさり気なくはだけさせる。しゃんと背筋を伸ばして、くるり背を向けて座り直すひむか。


「知らない」


「あら、そう」


 酒場『烏兎匆匆うとそうそう』はいつになく賑わっていた。薄いノイズの喧騒の中で物思いにふけれる空間が気に入ってひむかは入り浸っていたのだが、今夜の『烏兎匆匆』はやけにうるさい。ヒトのカタチをしたナニカがうじゃうじゃいる。視界がいやに騒つく。


「今夜はずいぶん繁盛してるね。お祭りでもあった?」


「情報捜査官のくせに情報古いわ」


 一際大きな破壊音が店内に響き渡った。店の中央、すり鉢状にへこんだステージがあり、金髪碧眼の白人女性型アバターがかなり際どい水着を身に付けて、自分よりも何倍も大柄な相撲取りを投げ飛ばしていた。まん丸い相撲取りは木目調のテクスチャーが貼られた壁に突き刺さり、データ衝突を起こして上半身だけリパージされた。


「情報古いって、何があったの?」


「ウチもよくは知らないけど、明日世界が終わるってウワサやわ」


 世界が終わる。思えば、ネット界隈ではよく耳にするワードだが、短いながらもパワーを含んだセンテンスだ。絶対にあり得ない非現実ジョークでありながら壊滅的にナンセンスで、壁に突き刺さった相撲取りの下半身に水着姿の身体を押し付けて腰を振っている金髪美女くらいにシュールなワード。世界が終わる。


「だからやりたい放題ってわけ?」


「単なる免罪符やわ。どうせ明日で世界は終わるんだ。だから、メチャやってくれちゃってるわけ。明日になれば、経済領域のデータリペア請求書が届いて、リアルマネーが足りなくてネット破産の末に強制トランスファーやね」


「誰がそんなバカ言い出したのさ」


「天気予報」


 この酒場の店主である着流し姿のウサギ耳の乙女、烏兎匆匆はひむかの座るカウンターにワイプ画面をコールした。


 天気予報。強制トランスファーし損なった罪なき逃亡者のAIもそんなこと言っていたな。ひむかは自壊したAIの顔を思い出そうとしたが、ありふれたモデルだったためぼやけたイメージしか浮かばなかった。


「天気予報が何て言ってるの?」


「見てみい」


 烏兎匆匆は細い顎でくいと画面を指した。リアルワールドの日本、関東地方の天気予報のようだ。3Dマップモデルの上でアニメ調の小柄な女性アバターが指揮棒のようなものを振るっている。


『午前11時45分、東京南部12区内で1ミリ以上の雨が降る確率は2パーセント以下です。携帯傘を用意する必要はありません』


 ひむかは烏兎匆匆の乙女顔をちらりと覗き見た。この天気予報がどうかした? 烏兎匆匆はうんうんと頷くだけで返した。


『そして6時間後の東京南部の天気です。晴れのち文明崩壊、ところによって世界の終わりです。6時間後からの人類絶滅の確率は96パーセントになります』


 AI天気予報士は晴れやかな表情できっぱりと言ってのけた。


「天気予報がバグっちまったわ」


 烏兎匆匆は乙女面をくしゃりとしかめてウサギ耳を揺らして笑った。


「ひむかの言う通り、お祭り状態やね。もうみんなわちゃくちゃ。あと6時間で世界の終わりが始まるって」


 あの罪なき逃亡者が最期に遺した言葉は本当だったのか。ひむかは笑ってはいられなかった。自壊したデミドロイドはインターシヴィル環境に悪影響を及ぼす情報をアウトプットする可能性がある未必有害AIに指定されていた。この終末の天気予報のことを言っていたのだ。あいつは罪なき逃亡者ではなかった。終末の事実を伝えようとしていたのだ。でも誰に? そして統合管理AIは何故あいつを未必有害AIとして指名手配したのか。


「バグった? 天気予報AIが?」


「終末の天気予報だなんて洒落にもならないネタやわ。すべてのAIに重大な欠陥あり、でリパージされちゃうかも」


「私ならデコードしてやる」


 人間の天気予報士なんてとっくの昔に絶滅した。それこそデコード済みという奴だ。AIが彼らの仕事をあっさりと奪っていった。複数の学習パターンを持ったAI群体が天候情報を統合して絶対の結論を導き出している。その予報が外れることはあり得ない。AIによる天気予報は必ず当たるのだ。それがどんなに突拍子も無い終末の予報でも。


「烏兎匆匆はどう思う? あんたも世界の終わりにやけを起こす?」


 ひむかはグリーンで満たされたグラスに口をつけた。甘く、ねっとりとした情報がインストられ、記憶領域にこびりついた余分なバックグラウンドが削られる感触がした。


「もしも世界が終わるなら」


 薄橙色に頬をゆるりと染めて、ウサギ耳をだらりと垂らし、烏兎匆匆はひむかを見つめた。


「回転を止めたカモギフフはイェンデの拘束を解かれてビットウォールが柔らかくなるものだし」


 烏兎匆匆は自分のグラスにロッズ色の光を注いだ。


「アンタといたいわ」


「私のカモギフフは私が廻す。それに祭りにはノらない主義なの」


「そんなの知らないわ。ウチがアンタとクラスタりたいの」


 ネットスラングを無為に精錬しまくれば、2時間後には耳慣れない音が言葉として発酵の末に新しい言語イェンデを持ち、意味なんて後から付いてくるものだとばかりにインターシヴィルを闊歩する。


 人間が意志を伝えるために言葉を使うように、AIは音にならない声や結果を伴わない効果音をモッドンとしてインターシヴィルに響かせる。そこには独自のイェンデが展開され、軟質化したナリヅに形成された結論は遅かれ早かれコードをヌルされる。モッドンこそAI群体の精錬された言語なのか。ひむかは烏兎匆匆へ向けてモッドンを発してみた。


「─Ё─」


「ワケわかんない音で言わないで」


 ダメだ。いいサウンドにすらならない。


「私はね……」


 言いかけたひむかの口を、酒場の扉が弾け飛ぶ効果音が止めた。見れば、一対の山羊の角を生やしたアフロヘアーの侍が仁王立ちしていた。架空の扉を打ち破った巨大なカタナを振りかざし、紫陽花が咲き乱れる着物の裾をはだけさせて大見得を切る。


「図らずも明日世界が終わるならば」


 黒々とした黒鉄色の刀身で手近なテーブルを一閃。赤々とデザインされた酒や食べ物のデジタルモデルが吹き飛んだ。


「烏兎匆匆を一人にしてはおけねえ」


 キョトンとする烏兎匆匆。


「あら、やだ。ウチとおんなじこと考えてやがるわ」


 アフロヘアーに山羊角の侍は烏兎匆匆に恥ずかしげもなく大音声を張り上げる。


「世界が終わるまで愛し合おうぞ!」


 ひむかは音も立てずに立ち上がった。


「うるせえな」


 あいにくと軟質のナリヅしか空きがないが、世界の終わりに怯えた狼藉者の一匹や二匹、リパージする領域に余裕はあり過ぎるくらいだ。


「世界が終わろうと」


 黒スーツにタイトスカートのひむかがアフロ山羊角侍の真ん前に立ちはだかる。思わぬ邪魔者にアフロ山羊角侍は大袈裟に眉をしかめてカタナを大上段に構えた。


「文明が滅亡しようと」


 軟質のナリヅはリパージする対象に合わせて柔らかく領域をデフォルメさせる。どうせ明日で世界は終わる。今更女を一人斬ったところでどうということはない。そんな投げやりな一撃も、ナリヅ概念を装備した情報捜査官の前では無意味だ。上段から振り下ろされたカタナはひむかの細いネクタイにスラップされてモッドンも残さず掻き消えた。


「人類が絶滅しようと」


 情報捜査官特権のデコーディング展開。ひむかの右手が破壊を意味するモッドンを発してクラスタる。アフロ山羊角侍は今際の言葉を口にする暇すら与えられず腹部に真っ黒な大穴を穿たれた。あとは1ビットの情報の痕跡すらばら撒かずに論理解体だ。


「6時間後にまだこの酒場があれば、また飲みにくる」


 馬鹿騒ぎしていた酒場の飲み客たちも波が引くように静まり返った。仰々しいオーラをエルイェンデに纏っていた侍が秒殺でリパージの果てにバラバラにヌルされた。か細い腕をした黒スーツの女一人に。


「未だ見たこともない色の酒で私を酔わせてみな」


 情報捜査官鬼鞍ひむかは振り返らずにログアウトした。




 リアルワールドの鬼鞍ひむかはかすかな電気信号で覚醒した。背中を包むゲーミングチェアの電気マッサージとヘッドマウントディスプレイの重みが夢見の良い目覚めを与えてくれる。


「あ、ううん」


 声を出してみる。ここがリアルだと思い出すために。


「私は砂原さはらキヨウコ。ここはリアルの東京、廃能是はいのぜ区。今は、何時?」


 ひむかのインターシヴィルログアウト、あるいはリアルワールドログインの儀式だ。自分の再確認。本当の名前、本当の住処、本当の時間を認識しなければ、リアルとインターシヴィルが混濁してしまう。


 重みのあるHMDを脱ぎ、目覚まし時計を見る。終末の天気予報の滅亡時刻まであとどのくらいだ。


「ウソ」


 ひむかは自分の視界を疑った。ここはすでにインターシヴィルではない。間違いなくリアルなはずだ。それなのに、何故ひむかは情報捜査官の黒スーツとタイトスカートを身に付けているのか。


「情報流出が起きている?」


 適正にログアウトできたはずだ。インターシヴィルのひむかの脳内に硬質のナリヅが精製されて領域が拡張され、リアルのキヨウコにまでカモギフフが伝染するように廻り始めてしまったか。


「だから天気予報をチェックしろと言っただろう」


 不意にもう一人、聞き覚えのある何者かの声が狭い室内に響いた。息を飲んでひむかは自室の人影を探す。誰もいない。ひむか独りきりだ。


「ゆらぎのある感情すらもヴァーチャル化してしまえば、いずれはデジタルイェンデに従ってオーバーフローを起こす。リアルに ЫЁ ってしまえばもう誰にもフローを止められない」


 モッドンだ。ひむかは声の主を思い出した。ひむかが強制トランスファーした罪なき逃亡者だ。罪なきAIはリアルで発現できるはずがない架空の現象であるモッドンを発した。


「あんたは、AIだろうが。なんでリアルまで引きずられたんだ?」


 ひむかの着ている白シャツが、インターシヴィルで実装しているだけの仮想データが暴れた。黒く細いネクタイが跳ね上がり、ひむかの襟元がはだける。


「インターシヴィルはあふれ返り、リアルは架空の ЖФ へ沈む」


「やめろ。それ以上モッドンを発現するな」


 こいつはやはり未必有害AIだ。まもなくインターシヴィル環境に悪影響を及ぼす情報をアウトプットするだろう。リアルまでも巻き込むモッドンで。そして終末の天気予報の通りになる。『晴れのち世界の終末、ところによって文明滅亡です。6時間後からの人類絶滅の確率は96パーセントになります』


 モッドンはAIが使う実現化する架空の言語だ。インターシヴィル環境でしか発現できない仮想空間の擬似振動。それがリアルで空気を震わせたら。ひむかは、無駄だと悟りながら、耳を塞いだ。脳触りの悪い音は聴きたくない。


「世界が ヴッ兄эцる んだ」


 ばきん。窓の外で破壊的なモッドンが鳴り響いた。ひむかは窓の外を見た。空が ヴッ兄эц っていた。


 空が ヴッ兄эцる のだ。AIの天気予報通りに、およそ6時間で世界の終わりが始まるだろう。

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『 ヴ ッ 兄 э ц る 』 鳥辺野九 @toribeno9

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