第2話 初めてキスする雪女 後編

 

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「こっちかな、いや、あっちかな?」

 氷雨が手の中でスマホをくるくるとひっくり返しながら、地図アプリに表示されている地形と、実際の住宅街の景色を見比べる。

「多分あれだよ。正面の赤い屋根の家」

「あ、そっか。逆に見てた……」

 普段ならば「地図読むの苦手なんだよね」なんて舌を出して照れるはずなのに、今日は緊張気味にツバを飲み込むだけだった。


 彼女の様子は、昼休みに僕らの写真がバケーンに投稿されたことを報告した時から少しおかしかった。

 ――困るよ……!

 それが氷雨の第一声だった。

 彼女はスマホで川口次郎による投稿を確認すると、不安そうに眉をハの字にした。

 ――どうしよう……。

 その表情は、恋愛事情を知られることを危惧しているだけには見えなかった。

 付き合っていることを周りに知られたくない。という彼女の願いを今まで真剣に考えてこなかったが、反応を見る限り、それは切実な願いだったようだ。


 そこで僕たちは川口次郎の友人から彼の住所を聞き出し、放課後ここへやってきたというわけだ。


 彼の家は学区の端っこにあった。

 日が傾いていて、住宅街はオレンジ色に染まっていた。

 チャイムを押し込む。僕と氷雨はカメラ付きのインターホンへ向かって声をかける。

「どうも、僕ら次郎くんと同じ学校の友達なんですけど」


 しばらくすると家の扉が開いた。出てきたのはスーツを着た中年男性だった。

 長い髪をちょんまげのようにまとめていて、顎には無精ひげを生やしている。

「どーもどーも、次郎の父の太郎です。よぉ来てくれたなぁ」

 詳しい地域は分からないが、言葉のイントネーションは関西のものだった。

 氷雨が僕の後ろで「パパが太郎で息子が次郎なんだ」と独り言をつぶやく。


「でも、次郎は今ちょっと出かけてんねんなー。すぐ帰るはずやから、よかったらあがって待っとって。いやー次郎の友達が来てくれるなんて嬉しいわー」

 大げさなほどに喜びながら、太郎は僕らを家の中へと招き入れた。


 促されるままリビングのソファに座った時、氷雨の額に汗がにじんでいることに気が付く。

「ちょっと熱いよね。氷雨ちゃん」

「ちょびっとだけね」

 川口家の窓はすべて閉まっているようで、こもった空気が充満していた。

「すいません太郎さん。よかったら冷房いれてくれませんか?」

「冷房? あんまつけたくないねんけどなー。ほら、節電って大事やん?」

「じゃあ、窓を開けてもいいですか?」

 呑気な太郎に苛立ちを覚えつつ立ち上がる。その時だった。


 ――ぶえっくしゅん!


 ふすまで隔てられた隣の部屋から、男のくしゃみが聞こえた。

「あの、今のってなんです?」

「あーえっと、犬、飼ってんねんうち」

 犬もくしゃみはするだろうが、聞こえたのは明らかに人間のものだった。

 考えてみればおかしい。太郎は節電のために冷房をつけてないといったが、ならなぜ窓を閉め切っていたのだろうか。


「犬ですか。僕、犬好きなんですよ。撫でてみたいなぁ」

 ソファの背もたれを飛び越えて、ふすまを開ける。


 隣の和室では彩華高校の制服を着た男子が、ロープで椅子に縛り付けられていた。

「川口くん⁉」

 氷雨が声をあげる。どうやら彼が川口次郎らしい。

「んー!」

 彼は口にされた猿ぐつわの中で、なにかを必死に訴えている。

「なんで……!」

 彼のロープをほどこうと近づいてから気が付く。


 猿ぐつわをされている状態で、くしゃみはできない。他に人が――?


 そう思った時には遅かった。

 ふすまの陰から太った男が飛び出してきて僕を突き飛ばす。

「勘のいいガキだなぁ、もう」


「アホか! お前がでかいくしゃみするからや!」

 太郎が太った男のネクタイを掴んで恫喝する。

 太った男は「すんません! 鼻がモゲモゲして!」と涙目で言い訳した。

「まぁえぇ! スマートにいこうと思ったが計画変更や!」


「あんたら何者……」

 僕が質問を終える前に、首筋にチクリと痛みがした。

「輝くん!」


 隣のリビングで叫んだはずの氷雨の声が、遠くから聞こえているような気がした。

 世界がぐわんぐわんと揺れはじめ、僕はその場に倒れこむ。

 辛うじて動く首を傾けて見上げると、太郎の手に注射器が握られているのが見えた。

「三日三晩は目が覚めないやろけど、死にはせんから安心せい。デブ! 一応ロープでも縛っとけ」

「うす!」


 太った男がどしどしと近づいてきて、僕の体にロープを巻き付け始める。

「やめて!」

 氷雨が太った男を突き飛ばそうとするが、体格差があってびくともしなかった。

「こいつが大事なんやったら、大人しく俺らに捕まってくれへん? ちゃん」

 ――雪女?

 確かに太郎がそう口にした。意識は朦朧としているが聞き間違いではない。


「なんで、そのこと、知ってるの……?」

 怯える氷雨に、太郎は歪んだ笑顔を向けた。

「そら知っとるよ。俺ら雪女ハンターやから。君らを欲しがる金持ちって多いねんで? 人魚、セイレーンに次ぐ三番人気!」


 人間ではないものが社会に混じって生きていることは知っていた。

 だが、金のために人さらいをする悪い人間がいることは知らなかった。


 太郎はスーツの内ポケットから写真を取り出す。そこには氷雨が写っていた。

「めっちゃ探しててんで? この街に住んでるってことまでは突き止めててんけど、そこから中々進展せんくてなぁ。そしたら昨日、バケーンに走らせてたプログラムが反応してん」

 僕を縛り終えた太った男が鼻息を荒くする。

「オレのプログラムなんだぜ。この街で投稿された写真を自動で解析して、君に似た人が写った写真を見つけたら知らせてくれるのさ」

「そんで投稿したやつの家に来て君のこと聞き出そ思たら、普通に訪ねてきてマジびびったわ」

 飛んで火にいる夏の虫だったわけだ。おそらく太郎も適当につけた名前なのだろう。


「にげ……ろ……」

 体中がしびれていたが、なんとか声を絞り出す。

「は? お前まだ喋れんの。さっきのうまく刺さってへんかったんかな」

 一本の注射器を取り出した太郎に、氷雨がすがりつく。

「やめて! 輝くんにひどいことしないで!」

「じゃあ、大人しくついてきてくれるな?」

「ダメ、だ。逃げて……」

 もつれる舌でもう一度つぶやくが、氷雨は首を横に振った。


「ごめんね。輝くん。私、ママからこういう人もいるから気をつけなさい、目立つようなことしちゃダメだよって言われてたんだけど……」

 こんなにもすぐ、しかも、バケーンに投稿された一枚の写真から見つかるとまでは思ってはいなかったのだろう。だが、少しでもこいつらのようなやつに見つかるリスクを減らすために、彼女は投稿を消してもらわねばと焦っていたのだ。


「ほんとはね、人間と仲良くなるのもダメだよって、言われてたんだけど……」

 ――こうやって映画のこと話せる相手が欲しかったけど、できなかったからさぁ。

 あぁ、そうか。氷雨は僕のように人付き合いが苦手なわけではなかったんだ。

 こういう事態になることを恐れて、人を寄せ付けないようにしていたんだ。

「でも、輝くんは、輝くんだけは……」


「はい、もうええかな。おじさん忙しいから」

 太郎は分厚い皮の手袋をしてから、氷雨の腕を掴んで庭へと引きずっていった。

 停めていた白いバンに二人がかりで氷雨を押し込むと、すぐに車を発進させる。

 僕はそれを窓越しに眺めていることしかできなかった。


「かっこ悪……」

 誰とも付き合うべきではないと理解しつつも、彼女は僕と一緒にいることを選んでくれていたのだ。最高に可愛い恋人じゃないか。最高に光栄な話じゃないか。

 なのに僕は、今まで何をやっていたのだろうか。


「あー! ほんと情けない! かっこ悪すぎる!」

「ん⁉」

 椅子に拘束された川口くんが猿ぐつわの中で驚きの声をあげる。

 薬を撃たれて三日三晩眠りにつくはずの僕が立ち上がったからだ。


「ふっ!」

 力を入れると、体に巻かれていたロープの束が、バツンと音を立ててちぎれた。

 自由になった手で首筋をポリポリと掻くが、生えてきた体毛のせいで、どこに針を刺されたのか、もうよく分からなかった。


「んー⁉ んー⁉」

 川口くんが縛られた椅子ごとひっくり返る。

 先ほど男たちが同じ部屋にいた時よりも、彼は怯えている。

 無理もない。学校では視界に入ることもなかった同級生が、突然白いけむくじゃらの化け物に変化したのだから。

「あー、やっとフラフラするのが治ってきた。急がなきゃ」


   5


 外へ出る。もう完全に日が暮れていて、あたりに白いバンは見つけられなかった。

 僕は膝を折り曲げて足に力を籠める。丸太のように膨れあがったふくらはぎに耐え切れず、制服の膝から下がビリビリと破けた。


「ふっ!」

 今年の体力測定における、僕の垂直飛び記録は六十センチだ。それが高校二年生男子の平均らしいので、それくらいで抑えておいた。だが、実際は僕はもう少し高く飛べる。

 あと三十メートルくらいは。


 跳躍と同時に、まるで航空写真の地図を縮小するかように、視界の中であたりの家々が小さくなっていく。

 川口家を中心に周囲数キロを見渡せる高さまで来たところで、僕は猛スピードで東の方向へ走り去る白いバンを見つけた。

「あっちか……」


 着地と同時に隣の家の屋根へと飛び乗る。そこから電信柱の上を飛び移りながら、氷雨を乗せたバンを追いかけた。

 一キロ程先にある工場地帯へ十歩でたどり着く。

 そこで完全にバンに追いついた。

 十一歩目で、僕はバンを追い越し、その前へと着地する。


 振り返ると、眩いヘッドライトの間に、目を見開いた太郎と太った男が見えた。

 突然目の前に現れた僕をひき殺そうとしているのか、それとも驚きで体が動かないのか分からなかったが、バンは減速することなくこちらに近づいてくる。


「ふん……!」

 僕は両手でバンを受け止めた。

 コンクリートの道路に指を引っかけて踏ん張る。

 五十センチほど押し込まれたところでバンは完全に停止した。


 助手席の太った男は意識を失っていたが、太郎はエアバッグに押しつぶされながら鼻水を垂らしている。

「お、お前、さっきのガキやんな? 俺があの薬打ったから、そんな化け物に……?」

「いや、あれただの麻酔薬なんでしょ? 人間用じゃ、どんなに強くても眠らせるとこまではいかないよ。しばらくは動けなくかったけど」

「じゃあ、なにがどうなっとんねん……」

「おじさん、僕らみたいなのに詳しいんじゃないの?」


 ごとん、と車のバックミラーが外れて落ちる。鏡はちょうど夜空に浮かぶ月と、僕の体を映し出した。身長こそ変わらないが、顔以外を白い体毛に覆われた僕の体は普段の倍以上に膨らんでいる。


「僕、実は雪男なんです」

「うえぇっへえっぇぇぇぇ~!」

 太郎以上に驚いていたのは、後部座席にいた氷雨だった。

「氷雨ちゃん。もう暗いし家まで送るよ」


   6


 氷雨を腕に抱えたまま、工場地帯に広がる建物の屋根を飛び移っていく。

「わー輝くん、モフモフ……」

 自分も雪女だからか、彼女は僕が雪男であることを思いのほか簡単に受け入れてくれた。まるで大型犬でも撫でるかのように、僕の胸元の白い毛を撫でている。

 体毛越しとはいえ、くすぐったくもあり気持ちよくもあり、僕は平常心ではいられなかった。


 ちょうど彩華高校の上を通りがかったので、僕は校舎の屋上へといったん着地する。

「どうしたの? 疲れちゃった? あ! もしかして私重い! ごめんね!」

「いやいや、それは平気! そうじゃなくて、氷雨ちゃんに謝りたくて」

 氷雨が首を傾げる。彼女の赤みがかった瞳に月が映りこむ。まるでルビーのように美しかった。


「雪男だってこと、隠しててごめんね」

「それは私も同じだよ……」

「僕は氷雨ちゃんが雪女なのは知ってた。いろんなもの凍らせてたし」

 氷雨が「そうなの⁉ なら言ってよ!」と頬を膨らませる。

「いや、私も、輝くんが雪男だってこと余裕で気が付いてたけど?」

 彼女らしい強がりに笑ってしまう。


「でも、氷雨ちゃんと僕とじゃ事情が違う。君は自分と周りを危険に巻き込まないために隠してたけど、僕は臆病者だからそうしてただけ」

 氷雨はまるで自分が馬鹿にされたかのようにムキになって否定する。

「臆病者じゃないよ。さっきだって私を助けにきてくれたもん!」

「いや。僕が怖がってたのは、ああいう悪いやつらじゃなくて、こうやって君と触れ合うことだよ」

「触れ合う……」

 氷雨は僕の言葉を聞いて、自分がお姫様抱っこされていることを意識しだしたようだった。

 顔を真っ赤にして、小さな手できゅっと僕の体毛を握りしめる。

「男らしくなかったよね。昨日なんて、トラブルに乗じてキスしようとしたし」

「いや! 昨日も言ったけど、別に私嫌じゃなかったんだよ? 私だって、輝くんと手を繋いだり、その、ちゅ、チューだって、したいなって思ってたけど、ずっと我慢してた。輝くんをカチコチにしちゃうから……」

 氷雨の体からモクモクと冷気が湧き出る。まるで音楽ライブのドライアイス演出のように学校の屋上が煙に包まれる。未だかつでないほどに、彼女は周りの温度を奪い続けていた。

「はっ! そんなこと言ったら! 今だってやばい! 私、輝くんにこんな風にぎゅっとされて! さっきから心臓バクバクだもん!」

 氷雨が僕を突き放そうとする。彼女の触れた胸の体毛がパキパキと音を立てて凍っていく。でも、僕は彼女を離さない。


「平気だよ」

 僕は人間離れした身体能力を持っている。でも、雪男の特性はそれだけじゃない。

「僕、寒いの全然平気なんだ。雪男だから」

 体毛を生やしていない時も同じだ。僕は一度も、氷雨といて寒い、冷たい、と感じたことなどない。

「僕は君と手を繋ぐこともキスすることも、君に嫌がられるのが怖くて、避けてきただけなんだ」

 自分が雪男であることを黙っていた理由は、ただそれだけだ。

 なんて情けないのだろうか。氷雨は誰とも接点を持つべきではないと親に言われ人を遠ざけてきた。それでも、僕とだけとは繋がりを持とうとしてくれた。そんなにも僕を想ってくれていたのに、僕は自分から彼女に近づこうとはしなかった。

「だから、君がどんなにドキドキしたって平気」

 さぁ、家永輝。そんな自分を変えるなら今だぞ。


「氷雨ちゃん。僕とキスをしませんか?」


 物凄い速さで鼓動が聞こえた。それが僕の心臓が鳴らしているものなのか、くっつている彼女のものなのかも分からなかった。


「……はい。お、お願いします……」


 世界で一番可愛い女の子が、僕の腕の中で小さくうなずいた。

 熱帯夜になったその晩、彩華市では季節外れの雪が観測された。

                                おしまい



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初めて恋する雪女 小川晴央 @ogawaharuo

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