初めて恋する雪女
小川晴央
第1話 初めてキスする雪女 前編
「初めてキスする雪女」
1
僕の恋人〝睦月氷雨(ひさめ)〟は雪女である。
本人はまだバレていないと思っているようだが一目瞭然だった。
暑さが苦手で、夏は体育の授業を見学している。冬でもアイスを美味しそうに頬張り、私服が和服だ。今日も彼女の部屋は冷房でキンキンに冷やされている。
もちろんこれだけでは雪女みたい。で終わるのだが、彼女は人間にはできないことができる。
今も彼女は僕の隣で、手に持った麦茶をカチコチに凍らせていた。
「わわ……。ゾンビに囲まれちゃった!」
映画の主人公がピンチになるにつれ、彼女のグラスを握る手に力がこもる。同時に麦茶の水面から白い冷気がモワモワと湧き出した。
「あ、あれれー! 凍ったままの麦茶いれてきちゃったよー。これじゃ飲めないやー」
僕は「交換しよう。冷たいほうが僕好きだし」と提案し自分のグラスを彼女に渡す。
「いいよ、凍ってないやつ入れ直してくる! ――わっ!」
「大丈夫? ――うわ!」
慌てて僕も立ち上がろうとしたが、彼女と同じように足を滑らせる。
麦茶だけでなく、彼女はお尻の下の床まで凍らせていたのだ。
かろうじて両手を床につき、氷雨(ひさめ)を押しつぶすことだけは防いだ。しかし、床に倒れた彼女に覆いかぶさる形になってしまう。
「平気? 輝くん」
怪我はないが平気ではなかった。
すぐ目の前に、
普段、彼女の右目を隠している長い前髪が転倒によって乱れている。赤みがかったつぶらな瞳が前髪の間でわずかに震えていた。ぷるんとした小さな唇に、髪の毛が一本引っかかっているのを見つける。その生々しさに鼓動が早まった。
「輝、くん……?」
立ち上がる代わりに、僕は彼女の頬に手を添えた。お餅のように柔らかくて、バニラアイスのように冷たかった。
「氷雨、ちゃん……」
彼女の唇に引っかかっていた髪の毛を耳もとの束に合流させる。そうしてから、僕は数ミリだけ自分の唇を彼女に近づけた。
「――ダメっ!」
「ごごご、ごめん! 今! 僕どうかしてた!」
氷雨の母親は仕事が忙しいらしく、いつも家にいない。そんな状態でも僕を部屋に呼んでくれた彼女の信頼を裏切る行為をしてしまった。
だが、氷雨はぶんぶんと首を横に振って、逆に僕へと謝ってきた。
「わ、私こそ、突き飛ばしてごめんなさい! 怪我してない?」
「いや、してない。してても自業自得!」
「ううん! そうじゃないの! 別に輝くんとくっつくのも、しようとしたことも、嫌じゃなかったんだけど……」
〝しようとしたこと〟
僕が彼女の唇に自分の唇を近づけたことに、彼女は気が付いていた。
彼女はベッドに置かれていたぬいぐるみで、真っ赤になった顔を半分隠す。
「私、ドキドキすると、カチコチにしちゃうから……」
雪女が全員そうなのか、彼女特有の個性や未熟さのせいなのかは分からないが、どうやら、彼女の触れたものを凍らせてしまう力は、緊張や興奮などの心拍数の上昇によって無意識のうちに発動してしまうらしい。
実際、今も彼女が顔を隠すのに使っているぬいぐるみがパキパキに凍ってる。
「えっと、あぁ、緊張して動けなくなっちゃうみたいな意味かな」
「そ、そう! 輝くんがカチコチにって意味じゃないよ。そんなこと普通の人間にできるわけないもんね!」
彼女と付き合いだしたのは高二の四月。今日でもう三か月が経つ。にもかかわらず僕らは手を繋いだことがない。
天然で奥手で雪女な彼女と、チキンな僕の恋人関係は、簡単には進展しそうもなかった。
2
その前から同じ
長髪をリボンなどで飾ることもなく、制服も平均的に着こなすだけ。友達と廊下でバカ騒ぎでもしていれば僕の目にも止まったかもしれないが、彼女は静かに毎日を過ごす少女だった。
そんな僕らを結びつけたのは〝バケーン〟だ。
短文や画像をネット上に投稿し、世界中の人と共有できるこのアプリは学校内のほとんどの生徒が大なり小なり利用していた。
僕も面白かった映画の感想を吐き出すのに使っていたのだが、ある日バケーンから通知が来た。
〈このアカウントと気が合うかも!〉
その時初めて、バケーンに同じ趣味や利用傾向の似たアカウントを引き合わせる機能がついていることを知った。
〈ヒーローウォーズ2の試写会チケット当選! でも二枚もどうしよう。誰かもらってくれませんか?〉
そんな氷雨の投稿を、バケーンが僕に知らせてきたのだ。
普段は見ず知らずの相手とやりとりなどしないのだが、好きなシリーズの新作を公開前に観られるチャンスを逃したくなくて、僕は氷雨の投稿にコメントをつけてチケットを譲ってくれるように頼んだ。
一緒に観に行こうと約束したわけではなかったのだが、試写会は全席指定席で、僕らは必然的に隣同士で映画を鑑賞することになった。
「わぁ……」
彼女は上映中に何度か感嘆の溜め息をついていた。静かにすることがマナーであると理解しつつも、こぼれてしまう興奮や感動を抑えられないようだった。
エンドロールで涙をぬぐう姿を見た時、もうすでに僕は彼女を好きになっていたんだと思う。
その翌日、僕らは同じ彩華高校の生徒であることを知った。
それから何度か一緒に映画を楽しみ、学校でも感想を語り合った。
その中で僕は彼女が雪女なのではないかと疑い始め、やがてそれは確信に変わったわけだが、僕にとって些細なことだった。
そして、お互いが二年生へと進級したばかりの頃、校舎裏で一緒にお昼ご飯を食べていた時に、僕らの関係は一つ進展した。
「今年もいろんな映画がやるね。楽しみだなぁ」
「ヒロウォ3にも期待だよね」
「うん。それもあるけど、輝くんと感想言い合えるのが嬉しいんだぁ」
その屈託のない笑顔を僕は直視できなかった。
「こうやって映画のこと話せる相手が欲しかったけど、できなかったからさぁ」
彼女はスマホにメモした観たい映画リストを眺めて目を細める。
「バケーンのオススメ機能のおかげだよね。あれがなかったら、同じ学校内にこんな気が合う映画好きがいるなんて知らないまま卒業してただろうね」
高校の校舎を見上げる。この建物の中を僕らはすれ違い続けていたはずだ。
「うんうん。でも不思議、バケーンは、なんで私たちがこんなに気が合うって分かったんだろう」
「都市伝説だけど、バケーンのサーバーは、水槽に浮かんだ妖怪ぬらりひょんの巨大脳みそと繋がってるらしいよ」
氷雨は「へー」と感心してから、自分がするべきリアクションを思い出した。
「はっ! や、やだなー輝くん。ぬらりひょんなんているわけないじゃん! よ、妖怪なんてこの世界のどこにもいないんだからさー」
僕も下手くそな演技で応える。
「だよね。チュパカブラもネッシーもいないよね」
「うん。でも、もしぬらりひょんさんが引き合わせてくれたなら、私たちの仲人だね。式に呼んでスピーチしてもらわないと!」
氷雨の発言に思考停止してしまう。式? それは愛し合う男女が挙げる結婚式のことだろうか。彼女もすぐに自分の失言に気が付き慌て始めた。
「わ、わわ、私なに言ってるんだろ! 輝くんとはそんなんじゃないのに! ごめんなさい! 忘れて!」
さっきのように適当に話を合わせてもよかった。だが、僕はそうはしなかった。彼女のその言葉を見過ごせないくらい、僕の恋心は大きく、ずうずうしくなっていた。
「そ、そうだね。いつか、そうなったら、嬉しいよね……!」
背にした校舎の中から次々と「寒い!」という悲鳴がした。あとで聞いた話だが、その時、学校中のエアコンが誤作動し校舎内をキンキンに冷やしていたらしい。
その日、僕たちは恋人同士になった。
3
夏休み前の校内には緩んだ空気が漂っていた。
だが、僕は緊張気味に校門をくぐり、自分の席へとたどり着いた。
――私、ドキドキすると、カチコチにしちゃうから……。
前日に起きたことを思い出すと、どんな顔をして氷雨と会えばいいのか分からなかったからだ。
一人で悶えていると、話したことのないクラスの女生徒が近づいてきた。
「ねぇねぇ、家永くん」
氷雨さんにキスしようとして突き飛ばされたんだって?
なんて言葉が続くのかと身構える。
彼女が口にしたのは、当たらずも遠くもない話題だった。
「家長くんってさー、八組の氷雨さんと付き合ってるのー?」
僕は突然の質問に「なんで?」と聞き返すことしかできなかった。
女生徒は自分のスマホを操作して、画面をこちらに向ける。
「これって、家永くんと氷雨さんでしょ?」
画面には〈地味なあいつに熱愛発覚⁉〉という文字と共に、バケーンに投稿された写真が表示されていた。
写真にはコンビニの前を歩く僕と氷雨が映っている。昨日、映画を見終わったあと、買い物に出かけた時の様子を、誰かに隠し撮りされていたらしい。
「偶然近くで会ったから一緒に買い物しただけだよ。親同士が仲良くて、彼女とは昔からの知り合いなんだ」
冷やかされるのが嫌で嘘をついたわけではない。付き合い始めた頃に、氷雨から頼まれていたのだ。
――私と付き合っていることは、誰にも言わないでほしいの……。
詳しい理由は、はぐらかされたが、僕も自分の恋愛事情を周りに言いふらすつもりはなかった。だから、いざという時の言い訳も用意してあった。
「勘違いされたら氷雨さんも迷惑だと思うし、この投稿消してくれない?」
「無理。これ、川口次郎ってやつのアカウントだから。氷雨さんと同じ八組の」
「じゃあ、彼に投稿を消すように頼みにいってくるよ」
「それも無理だよ」
「なんで?」
「学校来てないから。あいつ今日まで皆勤賞だったんだけどねー」
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