第一幕 その2

 誘惑に引きずり落とされそうな意識を、女子生徒の怒鳴り声が引き留めた。

「何をするのだ、エルリック教諭!!」

 叫んだのは、なぜかメイド服を着ている生徒。

 フランセット・バラデュール――イリス付きのメイド兼お目付役で、アブソリュートの副長を務める少女だ。

 幼い頃からイリスの侍女として育った彼女は、イリスへの思いは人一倍強い。エルリック先生を親の敵を見るような目で睨む。

「爽やか系かと思わせて、実はとんだ変態教師だったとは!! さては勇者ギルドの一員というのも、真っ赤なウソだったのだな!?」

「な、何を言うんだフランセット君!? 違うよ! れっきとした勇者ギルドの一員だって! 僕の身元は校長先生が保証してくれるから! 変態じゃないから!」

「いいから、早く魔法を解かないか!!」

「そ、そうだった!!」

 エルリック先生が、慌てて解除の呪文を唱えると、二人を縛っていた紐が消え去った。

「大丈夫ですか!? 姫様!」

 イリスをハルトから引き剥がすように抱き寄せると、フランセットはケガがないかイリスの体に視線を這わす。微かに赤らんだ頬以外、特に変化はない。

「外見は問題ないようですが……姫様、ご気分はいかがですか?」

「え、ええ。大丈夫……問題ないわ」

 イリスはいつもの氷の表情を取り戻した。

「本当ですか? どこかお体に異常は? 気分が優れないとか?」

「だから平気よ。まったく心配性ね、フランセットは」

 立ち上がると、微かに口元を緩めた。

「しかし姫様、男にまったく免疫のない姫様が、その豊満な乳房に顔をうずめられ、あまつさえお尻を無残にも揉みしだかれたのです。きっと心に大きな傷を負われたのではと、フランセットは心配でございます」

「だ、だから平気よ……あまり思い出させないで、フランセット」

 一度引きかけた頬の赤味が、ふたたび戻ってくる。

「でも姫様の大きなおっぱいが、あの憎きハルト・シンドーの顔の形に歪められ、むにゅむにゅと形を変える様を見せ付けられると、心配せずにはいられないのです」

「も、もう十分よ、フランセット。お願いだから、やめて頂戴」

 フランセットは心なしか息も荒くなり、目つきも変わってきた。

「それに、お尻に食い込む男の指! 姫様のお尻の肉の柔らかさを表すようでした! その感触を貪るように、もみもみと! ああ、ふわふわとした柔らかさと、指を押し返す弾力を堪能していたに相違ありません! 変態の毒牙にかかった姫様の体は――」

「もうやめてフランセット!! あなたの方がよっぽど変態よ!!」

 顔を真っ赤にしたイリスは、ついに耐えきれずに怒鳴りつけた。

 そんな二人に、エルリック先生は後ろ頭をかきながら謝った。

「本当にすまない。まさかこんなことになるなんて……」

「いえ……先生が故意にあのようなことをするはずありませんから。もうこの件は忘れましょう」

 そう言われて、エルリック先生もほっとしたように肩から力を抜いた。

「いや、本当に申し訳ない。でも、おっかしいなあ……この拘束魔法だって魔族相手に何百回とやって失敗したことなんてないのに……」

「いえ、無理もないと思います……」

「え?」

 イリスは、しまったというように指先で唇を押さえた。

「あ、いえ……その、ウィザードも呪文を噛むという諺もありますし、どんな熟練の魔術師でも、失敗することはあると……」

「そう言ってもらえると救われるよ。ハルトくんもすまなか――」

 ハルトはブレイズの男子生徒に取り囲まれていた。

「まったく。うちの筆頭は見境がなくて困りますね」

 ふわりとした茶髪にアンダーリムのメガネをかけた優男が、親しげに微笑む。

「るせぇぞ、クロード。テメーも見てただろうが。事故だ」

「分かっています。しかし、もっと気を付けてくれませんか? 前後関係を敢えて無視して、帝国の姫と絡み合っていた……という部分だけ抜き取って、伝えられてしまう可能性もあるんです」

 ハルトと違って、襟の一番上までホックをはめ、びしっと制服を着こなしている。理知的で落ち着いた物腰は、ブレイズでありながら、どこか貴族的な雰囲気がある。

 それがブレイズの副長にして参謀、クロード・コノエ。

 ハルトが最も信頼する友人であり、懐刀。

「クロード、何が言いたいんだよ?」

「ハルトとアブソリュートの姫君が恋仲だなんて噂が広まったら大変だ――ってことですよ。とんだスキャンダルです」

「――っ!」

 ハルトは思いっきり顔をしかめた。

「……気味の悪いこと言うんじゃねえ。それより俺の尻拭いがお前の仕事だろ? ちゃんとこいつらに口止めしとけよ」

 と、取り囲むブレイズの生徒を見回した。するとその一人が、

「いやいや、俺たちがそんなデマ言いふらすワケねーけどよ、ハルト……その代わり聞きてえことが」

「あ?」

 ハルトは不機嫌そうに眉を寄せる。

「……どんな感触だったんだよ? ロイヤルおっぱい」

「なっ!?」

 堰を切ったように、他の男子がハルトに詰め寄った。

「そうだ! 柔らかかったか!? 堅いのか? どうなんだよ!?」

「やっぱ姫のおっぱいって、すげえフカフカなのか!?」

「いや、俺はむしろケツの触り心地を知りたいね!」

「お、お前ら! ふざけんな。触り心地なんて――」

 ハルトは感触を思い出すかのように、自分の指を見つめ――、

「そりゃ……お前……こう――うっ!?」

 頬を赤らめたイリスに、じっとりした目で見つめられているのに気付いた。

 ハルトは手を隠すように、腕組みをする。

「そ、そんなの知らねえよ! 別に触りたくて、触ったワケじゃねーしな!!」

 にやけた笑いを浮かべる男子とは対照的に、ブレイズの女子生徒はイリスに明らかな敵意を向けていた。

「何なの、あの女?」

「うちのハルトにハニートラップでも仕掛けるつもりなのかしら?」

「アブソリュートの冷血女が、ハルトに色目なんか使って……マジ許せない」

 すかさずフランセットが言い返す。

「無礼な! そちらこそ姫様に懸想しているのであろう!? 姫様は貴様らのような貧弱な肉体とは違い、美の結晶だ! 不埒な劣情を催したのではないか!?」

「やっぱハルトを誘惑してんじゃん!! それと貧弱な体ってなによ!?」

 論点もめちゃくちゃで、罵りあう生徒たちも、何を言い争っているのか分からなくなっていた。ただ、相手を罵倒することが目的となっている。

「あーっ!! ったく、てめーらいい加減にしやがれ!!」

 ハルトが大声を出した。

「俺があんな女に惑わされるワケねーだろーが! これっぽっちも興味もなければ、興奮もしねーよ!」

 イリスの氷のような表情に変わりはない。が、少し目が鋭くなった。

「私とて、貴様のような山猿の相手をするほど、慈善家ではない」

「んだと?」

 ハルトは再び前に出て、イリスを睨みつける。

 しかしイリスも一歩も引かずに、睨み返した。

北方魔族テンペストと戦う気がないのであれば、まずはブレイズを占領し、強制的に従わせてもいいのよ?」

「面白え。出来んのかよ、テメーに」

 二人の視線が火花を散らす。

 エルリック先生は頭を抱えて、さじを投げるようにつぶやいた。

「もう……僕の手には負えないよ、まったく……」

 そして生徒たちの間に、再び殺気が満ちる。

 イリスの上目遣いの青い瞳が、ハルトをじっと見据えた。

北方魔族テンペストと、戦う準備は出来ているのか? ハルト・シンドー」

 その問いに――ハルトは何かに気付いたようにハッとする。慌てたように、ブレイズの仲間を振り返った

「警戒しろ、お前ら! 北方魔族テンペストが来るぞ!!」

 突然のことに、ブレイズの生徒たちは、ぽかんとした顔でハルトを見つめた。

「は? 何言ってんだよハルト。ここは中央だぜ? 四カ国が隣接する、大陸のど真ん中だぞ? 北の国境じゃないんだぜ?」

 地響きがした。

 ゴゴゴという地鳴りと共に、微かに床から振動が伝わってくる。

「くそ! 来やがったか!?」

 ハルトは警戒するように周囲を見回したとき、廊下側の壁が吹き飛んだ。

 ――!?

「きゃぁあああああ!?」

「うおおっ!?」

 巻き込まれた生徒が床に倒れ、一瞬遅れて悲鳴が上がる。

 そして、壁を突き破って教室に入ってきたモノを見て、二度目の悲鳴が上がる。

「テ……北方魔族テンペスト!?」

 一見、それは人に見える。しかし、全身の肌は青緑色。黒目はなく、むき出した歯は肉食獣の如き牙。頭には棘のようなツノ。体は人間より大きく、全身の筋肉が異常に発達している。

 ――危険レベル5のオーガ。

 北方に近い森では、オーガに喰われた人間の残骸が、度々見つかる。

 そこそこ知能があり、危険な北方魔族テンペストであると子供の頃から教えられてる。生徒たちの脳裏に、無残に食い散らされた人間の姿が蘇る。

「きゃぁあああああああああっ!?」

 女子の悲鳴が響き、教室はパニックに陥った。

 優秀な生徒たちではあるが、実戦経験はない。突如現れた北方魔族の姿に、我を見失うのも無理はなかった。

「ど、どこから!? 何で学院の教室にっ!?」

 エルリック先生ですら、突然のことに頭が回らないのか、対処が出来ない。うわずった声で叫ぶだけだった。

 さらに悪いことに、オーガは一匹ではなかった。

 続けてもう二匹、扉を破って教室に入ってきた。

 これで廊下側はオーガに封じられ、逃げ場はない。唯一あるとすれば、窓から飛び降りるしかない。

 しかし、物質移動の魔法『ムーブメント』が使えない生徒は、死を覚悟する必要がある。

 オーガに喰われるか、転落して死ぬか――そんな選択が、生徒を絶望の底に叩き込む。

 ――が、

 死の香りのする教室で、落ち着き払った生徒が二人。

 ――ハルト・シンドー。

「……何だ、オーガか」

 拍子抜けしたようにつぶやくと、ハルトは剣を肩に担いでオーガに向かって無防備に歩いて行く。

 ここに来て、やっとエルリック先生が冷静さを取り戻した。

「いけない! 僕が対処するから、下がっ――」

 エルリック先生が拘束魔法を、オーガがハルトに襲いかかったのは同時だった。人間を遥かに超える脚力が、一瞬でオーガの体をハルトの目の前まで飛ばす。

「『フレイム』!」

 炎が一閃した。

 ハルトは何気なく、無造作に剣を振ったように見えた。

 剣の軌跡を炎が描く。

 次の瞬間には、オーガが真っ二つになっていた。

 宙を舞いながら、死体は炎に包まれ、一瞬で灰になる。

 骨格が炭となって残るが、それも床に落ちると粉々になった。

 残る二匹のうち一匹が、さらにハルトに襲いかかる。

 剣が赤く輝き、火の粉を上げる。

 ――フレイム。

 それは炎の魔法。

 ブレイズが最も得意とする炎系の魔法だ。

 威力としては弱いが、長い呪文も必要なく、発動しやすい。剣に魔法を宿らせることにより、斬った瞬間に炎の魔法を直接叩き込む。

 ハルトが軽く剣を振ると、先程より激しい炎が剣の軌跡を描く。

 オーガもハルトが強敵であると認識した。

 真っ直ぐ飛びかかるのではなく、わずかなフェイントを挟み、床を蹴る。先程のオーガよりも素早い。ツメを立てた腕が、ハルトを斬り裂いた。

 そう思われた。

 だが、ハルトはその一撃を難なくかわし、剣を振り抜いていた。

 飛びかかったオーガの体が、着地する前に、二つに分かれる。

 胴体の辺りで、上下に切り離されていた。

 二つになった体は炎に包まれながら、床を転がる。

 断末魔の叫び声を上げる間もなかった。死体は炭となり、骨も残らない。

 あと一匹。

 残ったオーガは三匹の中で一番大きく、屈強だった。そいつが、イリスに襲いかかる。

 イリスもまた、剣に指先を当てた。

「『フロスト』」

 それはフレイムの氷バージョンのようなものだ。

 イリスの剣、ストレプトペリアが青く輝き、白い氷の結晶を散らす。

 アブソリュートは氷系の魔法を得意とする。剣は極低温となり、空気の温度を下げ白い煙と光る粒を生み出す。

 襲いかかるオーガを、踊るように優雅な動きでかわした。ここから反撃に移るのか、と思った時には――、

 既にオーガを斬っていた。

 オーガの体が凍り付いてゆく。足から腰、胸、腕、頭と凍り付き、動きが止まり、息の根が止まる。

 イリスは静かにオーガの氷像に近付くと、剣の先で、軽く突いた。

 氷の彫像と化したオーガが、崩れ落ちた。最早、オーガだった事も分からない。ただの砕いた氷の山。

 生徒たちは息を詰めて、一連の流れを見つめていた。

 そして数秒の後、

 静まり返った教室に、割れんばかりの拍手と歓声が響いた。

「すっげええぞハルトぉおお!! さすがブレイズの筆頭魔術師!! 最強だぜぇ!!」

「イリスさまぁあああああ! まさに氷の妖精! 素晴らし過ぎますぅうう!!」

 興奮した生徒たちが叫びまくっていて、何を言っているのか聞き取れないほどだった。

「ハルトくん! イリスさん! 大丈夫かい!?」

 エルリック先生は駆け寄ると、二人の体を心配そうに見つめた。

「大丈夫って……何がだ?」

 剣をポケットに収めながらハルトが聞き返すと、エルリック先生は呆れたように肩をすぼめた。

「いや、聞く必要もないね……申し訳ない。本来、僕が対応しなきゃいけなかったのに」

 イリスは剣をしまうと、首を横に振った。

「突然のことですから。驚かれるのも無理ありません」

「うん……それなのに、君たち二人は冷静で、本当に凄いね。やはり国を背負って立つ筆頭魔術師だけのことはあるよ。それに、今の二人の連携を見て、この学院の設立が間違っていなかったことも確信したよ」

「何だと?」

 ジロリと睨むハルトに、

「だって、見事な連携だったじゃないか。お互いの息もピッタリで」

「はぁ!? どこがだよ! 息なんか、全然合っちゃいねえよ! それに筆頭魔術師を一緒にすんな! あいつは、身分で手に入れたんだろーが! 俺は実力で手に入れたんだよ!!」

 イリスも不機嫌そうに顔を曇らせる。

「先生、不快なことをおっしゃらないで下さい。ブレイズなどと同列に扱われること自体が、我々への侮辱です」

「え……あの」

 冷や汗を流し、エルリック先生が後ずさると、今度はお互いに睨み合う。

「教室で炎を使うなんて、放火魔なの? 思慮が浅すぎる。そんなことでは民を守るどころか、関係のない人々を巻き込むことになるわ」

「は? 負け惜しみ言ってんじゃねーよ。俺が倒したのは二匹、お前は一匹。俺はお前の倍、強ええってことだろーが」

「私が倒した奴が一番大きかった。ザコの露払いご苦労様。そう言う意味では、少しは私の役に立ったわね。嬉しい?」

「て……テメェぇえええええええええ!!」

 ハルトは再び剣の柄に手をかけ、イリスもまた抜刀しかける。

「まあまあ! とにかく君たちのおかげで学院が守られたんだ。教師陣を代表して、お礼を言うよ!」

 エルリック先生は引きつった笑いを浮かべながら、二人の間に割って入った。

「それより、なんでオーガが現れたのか調べないと! さ、みんな廊下に出て! 調査を始めるよ!」

 イリスは頭に付けた髪飾りを指先でいじると、指先に髪の毛をくるくるっと巻き付けてから、さらりと払った。

「ハルト・シンドー、貴様など二十一回、時計塔の上から落としても飽き足らないわ。その顔、一生見ずに済めばどれだけ幸せか」

「……面白え。お前が嫌がることなら、やってやるよ。このツラまた拝ませてやるから、覚悟しておけ」

「だからもうケンカはやめてって!! お願いだから!!」

 エルリック先生に泣き付かれ、二人はふんと顔を背けたまま教室を出た。

 その後――校舎周りを調べた結果、土を掘り返したような跡があり、ここからオーガが現れたことは間違いないと断定された。

 確かに、オークやオーガは土の中から発生することが確認されている。

 しかし、学院の敷地から現れた例はない。

 北方魔族テンペストの襲来、そして魔王の復活が現実のものとして近付いて来ている。教師も生徒も、その現実を肌で感じていた。

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