第2話 ジェームズの誕生パーティー5日前

 ハワード家に晩秋の朝がやってきた。冷たい風が丘を超え、木々の葉を枯らしながらやってくる。冷え込みが厳しくなってからは屋敷住み込みのメイド、チェルシーが湯を沸かし、洗面所へお湯を運び、桶に汲み置きしてくれるようになった。温かいお湯はことのほかありがたく、一瞬で顔の血色がよくなるのがわかる。

「チェルシー。おー、温かい。いつもありがたいわ。こんな冷え込む日はなおさらね」

「メアリー様、これが私の仕事ですから」

「私はこの家では居候の身です。同じ年なんだからもっと気軽に話をしてね」

「メアリー様はお優しいですね」

 私はこのお屋敷に住まわせてもらっている孤児に過ぎない。身寄りがなければどれだけ心細い生活をすることになったのかと思うと、ここにいられるだけで有難い。二人で話をしていると、いつの間にか長兄ジェームズが、私たちのそばに来ていた。

「なんだか楽しそうだな。僕も仲間に入れてくれるかい。こう寒くなると、ベッドから出るのもつらくなる。温かいお湯はうれしいよ」

「まあ、ジェームズ様にも喜んでいただけて、光栄です」

 チェルシーは、幼さの残る顔を赤らめ、恥ずかしそうにエプロンに手をこすりつけ水気を拭きとった。ジェームズから優しい声を掛けられて、嬉しくない若い女性はいないだろう。農家の子だくさんの家に生まれたメイドのチェルシーにとっても、幾ばくかの給金をもらい食事の心配もないこの家に住み込みで働くことは、有難いことのようだ。

「おお、オリバーにシャーロット。やっと目が覚めたようだな」

 二人の顔を見て、ジェームズは兄らしい口調で話しかけている。

「こう寒くなっちゃ、ベッドから出るのがつらくなる」

「何を言ってるんだ、オリバー。いい若者が。朝食が済んだら、俺は農園の方を見てくる」

「兄さんはいつも模範的だよ。俺は今日は友達の家へ行く約束がある。気を付けて行ってきてくれよ」

「ああ、お前こそ馬で飛ばしすぎて、けがをしないように気を付けろよ。シャーロット、髪の毛がぼさぼさだぞ。綺麗にとかせよ」

「あのね、これは生まれつきなの。ジェームズ兄さんの嫌味は聞き飽きたわ。私今日は、パットさんにアップルパイの焼き方を教えてもらうわ。婚約者のベティに褒めてもらいたいからね」

「おう、それはうれしいな。せいぜいがんばれよ」

 賑やかな朝が始まり、私は部屋へ戻り身支度をする。チェルシーは、地下にある厨房へ急ぎ足で戻っていく。発酵した小麦が程よく焦げる香ばしいにおいと、ベーコンとビーンズの香りが混ざり合い、部屋の中まで漂っている。

 一階のダイニングテーブルには、ハワード夫妻が上品に座っていらっしゃる。ヘンリーおじ様は、お茶を飲みながら新聞に目を通し、隣の席ではリリーおばさまが静かにおじさまの方を向いて話しかけていた。

「おはようございます」

「あらおはよう、今日はあなたが一番乗りね。

まあ、私たちを除いて」

 リリーおば様は老眼鏡をずらして私の顔を見た。

「もうこの家にもすっかり慣れたようね。娘がもう一人できたようだわ」

「はい、皆さんと色々話ができるようになって、私にも新しい家族が出来たような気がしています。特にオリバーなんか、この間……」

「あら、オリバーとどうかしたの?」

「え、いいえ、なんでもありません。楽しい方です」

「そうね、子供のころは、茶目っ気があって可愛かったわ」

 思わず顔をほころばせて、目じりにしわが寄った。つい最近屋根裏部屋へ荷物を取りに行った時、オリバーにおもちゃの蜘手で脅かされ、大騒ぎになったことを思い出した。妹のシャーロットには決してそんなことをしないと言っていたが。以前からかい半分にいたずらしたが、本気で怒って、しまいには大泣きされて手が付けられなかったことがあるからだそうだ。それ以来、からかうのは程ほどにしているということだ。兄弟のいない私にとっては、オリバーとそんな他愛のないいたずらで大笑いした瞬間は愛おしい。

 ハワード夫妻の隣に三人の子供たちが座り、その隣に私が座る。年長のメイド、クララがてきぱきと指示をし、チェルシーがテーブルの上に料理を並べていく。夫妻の前では終始緊張しているが、ジェームズとオリバーに料理を出すときは、はにかんだ笑顔を見せ、シャーロットの時は茶目っ気のある瞳をする。私の番が来ると、ようやく緊張が解けてくるのか、ほっとしている。

トントンとノックの音がして、執事のダニエルが入ってきた。黒の背広をきりりと着こなし、軽やかな身のこなしでヘンリーおじ様の横に来た。

「旦那様、お手紙が届いております」

「そうか、ありがとう。どんな知らせだろう?」

 封筒の端をすっとペーパーナイフで切り開き、便せんを広げる。表情に赤みが差し、満面の笑みが顔中に広がった。

「みんな聞いてくれ! 兄の家に初孫が生まれた。おめでたいことだ。早速お祝いの品を届けよう」

「あら、おめでたいこと! みんなは、おじさんと叔母さんになるのよ。明日にでも街へ買い物に行ってきましょう」

 その話を聞いたシャーロットが言った。

「街へ買い物へ行く時は、私もつれて行って。

ジェームズ兄さんの誕生日プレゼントも見つけたいわ。ね、いいでしょ?」

 そばかすだらけの頬を輝かせて言った。

「そうね、明日はロンドンまで行ってきましょう。メアリーもつれて行かなきゃね。久しぶりでしょうから、ご両親にお花をお供えしてくるといいわ。執事のダニエルも一緒だから安心よ」

「ありがとうございます、おばさま」

「ロンドンへ行くんですもの、当然あなたを連れて行きますよ。そろそろ新しいドレスを買わなくちゃ。メアリー、あなたずっと持ってきた服を着ているんだもの」

 その日の午後、街で仕立ててもらったベティのドレスが届いた。ジェームズがプレゼントしたもので、寸法を測ってもらい、屋敷に届けてもらうように手配していた物だった。ブルーの光沢が美しいドレスだった。女性たちは羨望のまなざしで見つめ、皆一様にため息をついた。

 明日はロンドンへ行くことになった。半年ぶりの里帰りに心が浮き立った。馬の蹄が通りの敷石にぶつかる騒がしい音や、物売りの大声、種々雑多な人々がひしめき合う帝都ロンドン。静けさの中、鳥の声で目覚める生活をしていても、そんなものが今では懐かしい。

 部屋で、繕い物をしてから窓の外見ると、シャーロットが、庭師のジャックと話をしていた。ジャックは十年ほど前から、ここでずっと庭師をしていた祖父とともに、見習いををしていたのだという。祖父が倒れてからは、一人で庭の管理をしている。シャーロットがまだ幼い子供のころからの知り合いだったようだ。二人は幼馴染のようなものなのだろう。  

 ジャックは、集めた木の葉の中から美しい色に染まった一枚をシャーロットに手渡した。暮れてゆく時が、木の葉のようにさらさらと過ぎ、黄昏時のほの明るい日の光がジャックの黄金色の髪や、シャーロットの薄紫色のドレスに当たり、揺らめいていた。


ドアのベルが鳴り、御者が館の扉を開けた。恰幅のいい男性で、よく日焼けした顔にはあごひげが蓄えられていた。リリーおばさま、シャーロット、執事のダニエルと私は馬車に乗り込み、ロンドンへと向かった。

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