第7話 小夜の刻印【 小夜啼鳥|Nattergalen】
焦点が合わない毎日が過ぎていった。
二人は、この世を生きていなかった。
彰は、見開いた眼球から、ぼろぼろと涙を流しながら、呟いた。
「ねぇ、小夜。
僕たちは、どこにも存在してはいけないことをしてしまったよ。
生きていくには、嘘をついて、皆を騙して生きるしかない。」
大きく天を仰ぎながら、唇を震わせながら、彰が言う。
「嘘つきだ。
ボクも小夜も…。
この世は嘘で虚構で回り続ける…。
本当の世界とはお別れだ。
本当のとても愛しい世界、誰もたどり着けない本当の世界を僕たちは知っていると言うのに…。」
私たちは、兄と妹だった。
彰は言う。
「小夜は、きっと良い人と出会い、たくさんデートを重ねて、たくさんのキスをして、たくさん抱き合って、真っ白なウエディングドレスと祝福の笑顔。
そして、毎日、たくさんの快楽を覚えて、子供を産む…。
かわいい子供たちを連れて、遊園地へ行ったり、旦那さんの食事やお弁当に頭を悩ます。
毎日がキラキラとした明るい日差しに満たされた毎日を送るんだ。」
虚ろな瞳で、彼は語る。
おそらく、そうなるであろう私は、その現実を否定しなかった。
ただ、腹から胸を貫き、喉奥から突き上げてくる懊悩に耐えられず、体を折って床に突っ伏して喉がちぎれてしまえ!と願いながら泣いた。
女の生きる術の無さ。
依存しなければ社会から抹殺されてしまう恐怖。
腹に子を宿さねば、幸せになれないという固定概念。
それらと、声を張り上げながら戦っていた。
肺が潰れてしまって、もう、声が枯れ、体の筋肉でさえ機能しなくなった。
ああ、私はもう、彰と寝た時に覚悟を決めたじゃないか。
世界と断絶した生を生きるのだと。
床に突っ伏し、うずくまりながら、床に撒き散らされた大量の涙か唾液なのか洟なのかわからない体液に塗れながら、床と一体化したような身体から、しわがれた老婆のような声を絞り出した…。
「彰、私はずっと一緒にいる。」
自分の足が支えることも困難なくらいにふらつく足で立ち上がった私に、彰がすがりつく。
いや、彰は私を支えていたのかもしれない。
「小夜、嘘でもいい。
今は、信じるよ。」
微かな笑み。
すがりつく彰とその言葉を全力で振り切った。
「嘘じゃない!
私はずっと一緒にいるんだよ!
私の体は、あの時!
完全だった!
彰がそこまで連れていってくれたんだ!」
ボロボロの裏返った声と絶叫が混じった声。
「なのに、その真実を嘘にしろって言うの?!
私は、他の誰にも抱かれない!
子供も生まない!
一緒にいるんだよ!
私の体は、誰にも、抱かせない!」
感情的になったからではない。
自分の中の世界の倫理と戦って、世界の中の全ての優しさを振りほどいて、引きちぎり、出した結論だ。
その時、私は、もう、あなた以外の人にとって、人外の化け物になることを決めていた。だから、醜い化け物の正体を、世界の皆が見分けられるように…。
石油ストーブの上の、赫赫としたケトルが、その二人だけの祭祀の神具だった。
腰から太腿にこぼれ落ちる液体。
官能的な熱が走り痛みを伴い、爛れていった。
世界中の愛が、色褪せるくらいの二人の契約だ。これは、私の…二人の生きてる証明だ。痛みなど大したものではない。
これが、私にとっての刻印なのだと信じていた。
秘められた世界の真実を知っている人間の証明なのだと信じて疑わなかった。
ケトルがすべての熱湯を吐き出し、私の手により投げ捨てられ…。
私はその場に眠るように崩れ落ちた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます