第8話 ひだまり【 小夜啼鳥|Nattergalen】
小夜さんの退職の知らせは唐突だった。
まるでいきなり過剰電圧でブレイカーが落ちたような終わりだった。
挨拶もなく、退職願いが郵送で送られてきた。
係長は、動揺していて、その動揺を隠すかのように、社会人としていかがなものかと、必死に愚痴っていた。
小夜さんがいない初日は職場がなんとなくざわついているように感じたが、一日経てば、普通の日常が戻ってきた。誰も理由を聞かなかったし、話題にしなかった。
社内でのいじめに対しての後ろめたさがあったからか…
誰も彼女の日常に関与していない、関与させない聖域みたいな存在だったためか…。
ある日、街中で小夜さんを見つけた。
全く違う別人のようだった。
僕は、声をかけようか、躊躇した。
もう、他の世界の人だと諦めて反対方向に歩き出そうとしたが、理屈ではなく体が、踵を返して追いかける方を選んだ。
小夜さん!と、息を切らして声を掛ける。
振り向いて、僕を認めた彼女は、笑った。
こんな顔で笑うんだ…。と思った。
そう思って、彼女の笑顔を、僕は見たことがなかったことに気づいた。
おそらく、誰も、社内で彼女の笑顔をみたことはない。
「ちょうど良かった、退社の手続きで、キミの会社にいくとこ。あんな辞め方をしたからね。敷居が高いわ…。」
「気にしないくせに。」と、言うと、「ばーか。私もそのくらいの感情はあるわ。」と答えた。
小夜さんには、たくさん話したいことがあったんだ。
ルコが、係長と小夜さんのスクープを拡散して、みんなが面白おかしく揶揄していること。
小狡い先輩が、小夜さんがいなくなって、ひどく仕事ができないやつだという事実が露呈したこと。
小夜さんが抜けた後、小夜さんがやっていた仕事を三人の中途採用の人員を投入しなければ、まかなえなかったこと。
あなたが、いなくなって、会社は、あなたがどれだけ有能か思い知ることになりましたと…。
でも、きっと彼女にとっては、その全部がどうでもいいことだった…。
春先の少し冷たい強い風に向かっても、微かに口角が上がっている小夜さんにとっては…。
「今、何してるの?」
「ん、広告代理店に戻った。
アーティストをね、育てたいと思って。」
「そうなんだ。」
僕は、彼女の前職も知らなかった。
「ねぇ、かわいい彼女は、元気?」
「え?ルコ…?うん。相変わらず。」
「ヨウタは愛されてるね。」
「まぁ、多分。」
「こっちは、これから戦争だよ。いろんなところと戦っていかなきゃ。」
その事が何を指しているのか、わからなかったけど、きっと、この会社で戦ってたことなど、戦っているうちに入らないくらいの苦労が待っているのだろう。
その言葉を聞いて、自分だけ置いてかれたような気分になった。
「なんだ?
そんな顔してどうした?」
誤魔化すように苦笑いする僕に、小夜さんは続けた。
「君たちは、明るい場所で、たくさんデートして、たくさんセックスして、子供を産んで、美味しいものをみんなでいっぱいいっぱい食べて、毎日この世界をずっと続けていってほしいな。
きみたちは、私にとって、ひだまりに見える。
ちょっとうらやましい。」
「そう?」
「そう…。
私が、到達できなかった場所だからね。」
「小夜さん、結婚してるんじゃなかったっけ?」
「してるよ?」と、笑う。
「ほら、あの人。」
喫茶店の中で窓際で、背中を丸めて紅茶を飲んでいる。しょぼくれた爺さんを指差す。僕は、その他の席に男性の姿を探すが、めぼしい相手を探すことができず、戸惑って、小夜さんの顔をまじまじと眺め、うそ。と…。慌てて訂正したが、手遅れであることは自分でよくわかっていた。
小夜さんは、笑った。
何度目の笑顔だろう…。
「母がね、あの世に飛んでいきそうな娘をね、つなぎとめるために契約した旦那。」
「契約?」
「うん。
セックスはしません。
食事も作りません。
洗濯も掃除もしません。
部屋も別々です。
私に話しかけないでください。
私に触らないでくださいって。」
「はぁ?」
惚けた顔を向けた。
「彼は笑って、俺にはなんの得もねぇじゃねぇかと言ったわ。そりゃそうよね。こんな、ぶっ壊れた女に、なんでって思うけど。
で、彼が出した交換条件があって…。
朝の紅茶の時間だけは、一緒に過ごしてほしいと。
だったら、その条件飲んでやるって。
んで…、結婚成立。」
「一人の大馬鹿なジジイのおかげで、ようやく、楽になったわ…。今だに、私が話しかけないと、声もかけないのよ、あの人…。」
手を叩きながらケラケラと笑った。
「だから、私がたくさん話しかけるの。
もういいって言われるくらいに。」
そんな小夜さんは、本当に可愛かった。
一緒に社屋に入った僕たちを、ルコは、「なんだお前ら!不倫カップルか!」と声高に揶揄した。そして、部署内は、ルコ以外、やましさに満ちたよそよそしさで、小夜さんを迎え入れた。
小夜さんは、幾分か柔らかい雰囲気で、受け答えをしていたが、気を張っていた時よりも、ずっと遠くにいってしまったような、よそよそしさしかなかった。まるで、彼女に人が触れられない結界が貼られているような…。
ひとしきり、手続きが終わったであろう頃、小夜さんが戻ってきて、ドアを半分だけ開けて、「ヨウタ、ルコ、おいで。お茶でも飲もう。」と声をかけてきた。
就業時間であったが、僕たちは、その声に、当然のように席を立って、小夜さんのあとについていった。ルコは、「はぁい」と気の抜けた返事をした。
社内が静かにざわついていたが、気にならなかった。
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