【李農・冉瞻】キェ・ガの子
○三題噺
【雲】【兵士】【激しい子ども時代】
足元からの悲鳴、怒号、怨嗟に耐え切れず、
後背よりの鞭が背をしたたかに打つ。
「目を逸らすな! 奴らの代わりに貴様を叩き落としてやってもこちらは構わんのだぞ!」
痛みと屈辱、そして何よりも何もできない自分に対する怒りが、傷口から、下腹部から、じりじりと李農を焦がす。歯を食いしばり、声の源に向く。自分と変わらぬ装備の兵士らが、身震いするほどの深さの穴に放り込まれている。出してくれ、引き上げてくれ、死にたくない。誰もが口々に叫んでいる。中には李農とさして年かさの変わらぬ少年もいる。
くじを持つ手が、震える。
彼らと自らを分けたのはただひとつ、このくじに朱色の一本線が入っていたか、否かでしかない。自身の才覚に何かがあったわけでも、家柄に何かが、発言に何かがあったわけでもない。ただの気まぐれによって隔てられた、と言うしかない。しかし、これを明暗と呼べるのか。なぜ同胞の絶望と恐怖を目の当たりとせねばならぬのか。
左右を見回せば、居並ぶ誰もが怒りに、屈辱にその瞳を燃やしていた。一部笑っているものもいたが、見るからに気が触れているのがわかった。その者は背後から穴へと蹴り落とされた。
どん、と太鼓の音が鳴り響く。
李農から見て、穴の反対側。土が、汚物が、泥水が、太鼓の音に合わせ、穴に注ぎ込まれていく。逃げ道はない。誰も彼もがなすすべもなく泥濘の中に沈んでゆく。最も上にまで手を届かせていたものが泥に沈んでも、なおひとひとり分が流し込まれ、その上に大小様々な大きさの岩石が転がされる。更に板が渡されると、そこにひとりの鎧武者が馬とともに乗り上げ、李農らを睨みつける。
「見よ! いま、汝らの輩は大地に帰した! 輩はこの
誰がその言葉を真に受けよう、というのか。
しかし、生かされた。確かなことである。
ならば戦ってみせよう、その刃を、確かに仇の喉元に突きつけるまで。
とうに埋もれきったはずの怨嗟の声は、しかしいつまでも、李農の耳にこびりつき続けた。
ひとたび天下を統べたはずの
とは言え晋や蛮夷どもと較べ、キェ・ガの戦力はあまりにも心もとない。ひとたびの勝ちを掴んだところですぐさま相手に立て直され、逆襲を受けることも少なくもなかった。勝敗常ならぬ日々をキェ・ガのひとりとして過ごしたため、李農は浮沈激しい子ども時代を強いられた。それがかえって李農のしたたかさを育んだ、と言ってしまうのは、その生涯を伝えるにあたり、ややも冒涜に過ぎるだろうか。
「また、ずいぶんと殺したな」
「大地の恵みのためだ、やむを得ん」
眼下に広がる、死体の荒野。小高い丘より睥睨する李農の腰帯には「大趙」と刻まれた佩符が揺れる。
「だいいち、おまえが語るな、
李農は不機嫌そうな面持ちを隠そうともせず、語りかけてきた相手に向き直る。
冉良は李農と同じく、趙軍によるキェ・ガの穴埋めを目の当たりとしている。ふたりは戦場で拾った盃に、輩が埋め立てられた場の泥水、そして互いの血を混ぜ合わせて飲んだ。誓うは、夷狄共の誅滅。
夷狄の国、趙はその剽悍な兵力を時に外部に、時に内部に向ける。力と恐怖でもって兵を、民を縛り付け、代わりに戦果さえ挙げれば取り立てられもする。かの者らに取り、内紛すら強さの証立てとしかならない。最も強きものが、王。単純でこそあるが、空恐ろしき統治機構である。
冉良が李農の隣に並ぶ。
「この中には、いましき日のおれたちもいるんだろうな」
「構わんさ。それで牙が研がれるなら。すべてを飲み込み、あるいは飲み込まれて。誰かの牙が届きさえすればいい。それがおれやお前でなくとも」
「ああ」
冉良は頷くと、懐から割り符を取り出した。そこに刻まれている文字は、
「いましがた、
王弟。
ざわり、と李農に憤怒がよぎる。
正確には、趙の王の甥にあたるという。しかしその抜群の武から弟のように取り立てられ、周囲よりの警戒をよそに王よりの寵愛を一手に受け、さらなる武勲を立て続けに挙げている。その強さとともに残虐さ、酷薄さでも知られる、まさに、この国を体現するかのごとき存在である。
「王弟は何と?」
「おれの子になれ、と」
夷狄の奇妙な風習のひとつに、気に入った部下の抱え込みとして養子に迎える、と言うものがある。年齢の差は関係がない。ときには年上のものを養子として迎えることすらある。これまでの姓を捨て、親の姓を、そして新たな名を授かり、親のため、命を賭け戦うことを誓わされる。
代わりに、その側に立つことを許される。
「――ようやく、届いたな」
「連れて行くぞ、お前も」
「望むところだ」
李農は鞘から剣を抜くと、目前に掲げる。
そこに冉良も剣を抜き、重ねた。
王弟のもと李農と冉良は多くの戦いを勝ち抜き、ついには王弟を王の座へと押し上げた。そのさなか冉良は戦の露と果てたが、李農はその息子である
その石閔、姓を戻して冉閔にまた李農も殺されることになるのだが、その物語もいずれどこかで語られることになるだろう。
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