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 透子とうこはみやについて、いまもって詳細を把握しているわけではないことがある。このことになるとみやの口は途端に重くなって、追及すればかわいそうなくらい露骨にごまかしてくるので、あまり強く出ることもできなかった。


 透子はみやの両親を見たことがない。すずも同じはずで、それぞれの親に尋ねても多くは語らなかった。

 だから、みやがネグレクトされているだとか、あるいは虐待の疑いがあるとかの話は、無責任な噂の上でしか知らないことだった。


 初めて耳にしたのは小学生の頃だ。

 再婚の関係で父親とみやには血の繋がりがないだとか、若い母親はみやを放って夜遊びが絶えないとか、いかにもな尾ひれまでついたゴシップは、幼心にも嫌悪感をおぼえるものだった。


 そうした無責任で低俗な噂が小学生の時分、にわかに流行したことがあった。


 ドラマじみたエピソードであることもあって、そもそもが浮いたところのあるみやをいじる材料に使われることに大した抵抗はないようだった。当然の帰結のように、いじめは発生した。


 すでに武闘派として名を馳せていた鈴は、そうしたいじめっ子相手に容赦はなかったし、透子もおとなしくしていたわけではなかった。



「透子はさ、鈴のことになるとあまのじゃくになるよね」


 小学生の頃のことだ。放課後の教室で透子とみやの二人きりだった。

 あの日は信じがたいことに鈴が風邪で欠席して、透子は心の底から衝撃を受けたことをよく憶えている。透子はこの時まで鈴のことを、俗に言うところの風邪を引かない人種だと思っていた。今でもなにかの間違いではないかと思っている。


「なにそれ」


 透子は後ろを振り向こうとする。みやは席に座る透子の背後に立ち、保健室から借りた櫛で透子の髪をとかしていた。


「あ、だめだめ動いちゃ。傷んじゃうよ」

「いいけど別に」

「だめ。わたしが許しません。あんなことのあとなんだから」


 珍しく強く出るみやに、透子は苦笑した。


「それで? あまのじゃく?」

「あ、うん、それね。ほら、さっきのことだってそうでしょ」


 透子は返事代わりに鼻から息をもらした。

 

 鈴が学校にいない。

 いじめっ子にはチャンスにでも映ったかもしれない。

 みやにちょっかいを出すと鈴によって痛い目にあうのなら、鈴がいない時にちょっかいを出せばよい。

 

 そもそもちょっかいを出すなよ、と透子は思うのだが、いじめっ子男子はそうは考えなかったらしい。アホだから。

 透子のことを、いつも本を読んでいて鈴の陰にいるようなやつが一体なにをできる、とあざけり丸出しの顔で見ていたことを憶えている。こういう輩になにを言っても無駄だろう、と思った。アホだから。


 だから、非難の口上はなく叱責の声も上げず、そのアホを思い切り蹴飛ばした。

 取っ組み合いのケンカになった。


 自分らしからぬ行いを、透子は多くは語りたくはない。思い出したくもない。ただ、喧嘩両成敗と相成ったとだけ言っておく。


 みやの言うところの「あんなことのあと」とは、その中で髪を掴まれて引っ張られて、ということだった。


「だめだよ面倒くさがっちゃ。透子は髪、きれいなんだし」


 それを聞いた透子はゆるくお下げにしたみやの髪に触れた。


「わたしはみやの髪の方がいいと思うな。ふわふわでかわいい」


 みやは「ぃえへへへ」みたいな若干気持ち悪い笑い声を上げた。


「透子に褒められるのはうれしいな。鈴にも言ってあげたら?」

「なんで」

「鈴の髪もさらさらできれい」

「あそう。それはいいんだけど」


 透子は話を戻す。


「あまのじゃくとかなんとかって?」

「ほら、鈴がやりそうなことだったでしょ? さっきの」


 それは聞き捨てならない。反論しようとして、透子は口ごもった。


 確かに面倒くさいからといって最初から暴力に訴えるというのは、いかにも鈴の行いだった。これから暴力を振るいますよと啖呵を切る分だけ、下手をしたら鈴の方が理性的ですらあるような気がする。認めがたいことだった。


「影響だよねえ、鈴の」

「……毒されたって言うのよ、それ」


 苦々しく透子は呟いた。


 でもね、とみやが言った。


「鈴も同じ。透子に影響受けてるとこいっぱいあるよ」


 それはそうだろう。そうでなければ困る。そうじゃないと不公平だ。

 透子は大真面目にそんなことを思うのだ。が、もしも鈴がこの場にいたら「透子と一緒にすんな」と不機嫌になることだろう。そして、透子も言うのだ。


「鈴と一緒にしないで」


 みやは嬉しそうに声を弾ませた。


「言うと思った。透子、あまのじゃく」


 透子は今度こそ押し黙った。


「あ、でもさすがに鈴もスカートで蹴ったりしないと思う。パンツ見えちゃうよ」

「それはいいけど別に」

「絶対だめ。わたしが許さない」




「透子、透子。風邪引いちゃうよ、ずっと道端で突っ立ってたら」


 戻らないあの頃が吹き飛ぶ。過ぎ去った時が身体を置いて、周回遅れの意識に合流する。異物が混入した現実で透子は不機嫌そうな声を上げた。


「……うるさい」


 透子は、覗き込んで手なんか振ってみせる幼馴染の姿に言い放った。


「やっとこっち見た。もうとっくに鈴帰っちゃったよ」


 みやは笑った。何事もなかったかのように。子供のころのように。透子と鈴と三人でいる時のように。


「また出た」

「そりゃ出るよ。だってわたし、幽霊。どこにだって出るよ。透子がいるとこにね」


 ほら足ないでしょ、と透子の都合のいい幻覚は幻聴で足を示す。


 「また」だ。こうしたことは初めてではなかった。

 正直、透子はこうして姿が見えて声が聞こえるこの現象を測りかねていた。一体どう捉えたらいいのか。あるいは自分はとうに頭がおかしくなっているのかもしれない、とやけに冷めた頭で考えたこともあるが、あまり考えたくもないことだった。よもや本当に幽霊ということもないだろうが、みやがいなくなったという実感を奪うに十分なものではあった。


 だから、鈴ほどには悲しむことができない。


「別にいいんだよ、こっちとしては悲しまない方がいいに決まってるんだから」


 透子の考えを見透かしたタイミングで言った。こういうところが都合のいい幻覚だと思う。


「じゃあ鈴のところにも出てあげなよ」

「できればいいけど、ほら、相性とか霊感とか」

「見えないものは信じないよ」

「てことは、わたしは信じられるね」


 みやが口にしそうな理屈だ。やはり自分は頭がおかしくなったのかもしれない。


「鈴を慰められるのは透子だけだよ、信じて」

「大きなお世話よ」

 

 ましてや元凶なのに、そう言うとみやが笑った。他人事みたいに。


 たとえ幻覚だろうと気に食わなかった。真っ直ぐにらみつけた。


「なに笑ってんのよ。なんで笑ってんのよ」


 どんな気持ちでいるのかは分からないが、聞き分けのない子供を前にした時のように困ったような微笑みを浮かべている。


「ごめんね」


 透子は何度もかぶりを振った。否定だろうと口にすればまた必要もないのに謝らせてしまうかもしれない。


 たとえ幻覚だろうとそれは自分が許せなかった。

 それでも、


「なんで、鈴のところじゃないのよ」


 これだけは口にせずにはいられなかった。


 みやは二度は言わなかった。その代わりに、


「素直になりなよ、透子」


 そんな幻聴が聞こえた気がした。

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