亡命者たち
チタン
第1話
北の峡谷には「橋」が架かっている。
しかし、その橋は向こう岸に繋がっているわけではない。その橋はアーチの丁度半分くらいで途切れてしまっているのだ。そしてそれは決して崩れてしまったからではなく、最初からその形だったのだ。
その峡谷は絶壁というのに相応しい高さで、その橋は一見すると、断崖から飛び降りるよう誘っているようにも見えた。
けど、もし誰かが断崖に架かる橋を渡ろうにも、そこを通ることは困難を極めた。なぜなら橋は常に封鎖されており、門番の兵士が昼夜問わず見張っているからだ。
「ぼく」が生まれ育ったのは、峡谷の南側にある小さな村だった。
ぼくたちの村は元々貧しい村だったが、橋を見張る人たちの拠点として昔よりほんの少しだけ豊かになったと、父さんが前に言っていた。といっても、この国の重過ぎる税金の前では、そんな変化は微々たるものに過ぎなかったけれど。
それでも、父さんを含めて村の大人たちはあの橋の存在を歓迎していた。
けど、あの橋がなんなのかについては決して教えてくれなかった。
村の子どもは誰もあの橋のことを知らない。
隣の家のキーマも、向かいの家のカリーもボンも橋のことは知らないと言っていた。
だけど、14歳になったぼくの姉さんはあの橋がなんなのか知ったようだった。それ以来、姉さんと父さんはよく言い争っている。ちょうど今日も晩ご飯のときに、姉さんは父さんに食ってかかった。
「ねえ、お願いよ、父さん。私たちもあの橋を渡りましょうよ!」
「あの橋は渡れないんだ、何度も言ってるだろう」
「けど、バーモンドの家は家族全員で橋を渡るって」
「橋を渡るために見張りの兵士への賄賂がいくら必要だと思ってるんだ。一人頭50万だぞ。ウチは4人家族なんだから200万だ。とても用意できる額じゃない」
ワイロというのが何なのかわからないけれど、すごく大金だというのは分かった。ぼくは頭の中でぼんやり想像した。それだけのお金があれば、今食べてる雑穀の粥が何杯食べられるんだろう。たまにしか食べられない山羊の肉もお腹いっぱい食べられるんだろうか。
「エミもお父さんも、グレの前で話すことじゃないでしょう」
母さんがそう言って割って入った。
「とにかく、この話は終わりだ」
父さんはそう言うと奥へ引っ込んでいった。
♢♢
夜寝る前、ぼくが厠へ行こうと外に出たとき、姉さんが家の前の石段に座り込んでいた。横を通ろうとしたとき、姉さんは少し泣いているように見えた。
ぼくが戻ってきたときも姉さんが座っていたから、ぼくは隣に座った。姉さんは何も言わなかったからぼくら姉さんに話しかけた。
「姉さんはなんであの橋を渡りたいの?」
「知ってるでしょ、子どもには教えちゃいけないのよ。だからグレには言えない」
姉さんは俯いたまま、ぼくにそう言った。
「姉さんだってちょっと前に知ったんじゃないか」
「私はもう14だもの。大人よ」
姉さんが顔を上げてそう言った。ぼくはムクれて見せたけど、姉さんがもう泣いていなかったから、ぼくはもう質問の答えはどうでもよかった。
けど、姉さんはぼくが本当にいじけていると思ったようで、こう尋ねた。
「聞いたこと秘密にできる?」
ぼくはびっくりして姉さんの顔を見た。今聞いたらホントに教えてくれそうだった。ぼくは好奇心に負けてしまった。
「うん、絶対に言わない」
「わかった、じゃあ、教えるわ。グレ、あの橋はね、別の世界に通じてるのよ」
「え?」
「橋の先にワームホールっていうのがあるの。目に見えないけどね。だから橋の端まで行くと下には落ちずにワームホールに入っちゃうのよ」
「姉さん、ぼくをからかってるの? ぼくだってもうそんなこと信じる
「いいえ、本当なのよ。だからあそこは兵士が守っているし、国が管理しているの」
「じゃあ別の世界ってどんなところなの? なんで姉さんはその世界に行きたがるの?」
「そこはね、とても平和で素晴らしい世界よ。ここみたいに苦しい生活はないし、飢えて死ぬ人もいない。そこの人はみんな、当たり前にご飯を毎日お腹いっぱい食べて、立派な建物で暮らしてる。きっとお肉だって食べたい放題よ」
ぼくはその話が信じられなかった。
「行ったこともないのになんでそんなこと知ってるのさ?」
「聞いたのよ、大人はみんな知ってるわ。あそこの兵士たちがそう触れ回ってるの。橋を渡りたい人は兵士に高額のワイロを渡すんだから、兵士たちにとっては良い小遣い稼ぎなのよ」
ぼくはそれ以上なにも訊けなかった。すると、姉さんはぼくに訊いてきた。
「……ねえ、グレ。もし私と一緒にその世界へ行けるなら行きたい?」
「それって父さんと母さんも一緒に?」
「ううん、一緒に行きたいけど、二人だけ」
「じゃあ、ぼくはいいや。だって父さんと母さんと離れ離れになっちゃうから」
「そう……。そうよね」
そう言うと姉さんは少し微笑んだ。
ぼくたちは家の中に戻って眠った。ぼくの頭は秘密を知って少し興奮していたけど、いつの間にか寝てしまっていた。
その2日後、姉さんはいなくなった。
♢♢
姉さんがいなくなった次の日、兵士が家にやってきて父さんと母さんを連れて行った。
連れて行かれる前、父さんは「叔父さんの家へ行きなさい、叔父さんには言ってあるから」とぼくに言った。
叔父さんの家に着くと、叔父さんはぼくを優しく抱きしめた。そしてぼくに言った。
「グレ、かわいそうになぁ……。エミのやつが密航しちまったせいでなぁ……。グレ、これからは叔父さんが面倒見てやるからな」
ぼくは叔父さんの言っている意味がよく分からなかったけど、叔父さんが真剣な顔でそう言うからぼくは頷いた。父さんと母さんはしばらく戻ってこられないのだろうか。
叔父さんはそれからとても親切にしてくれた。だから辛い思いはしなかった。
けれど、待てども待てども父さんと母さんは帰ってこなかった。
♢♢
あれから4年が経った。
ぼくは密航した時の姉さんと同い年になった。
あれ以来、ぼくは叔父さんの子として生きてきた。密航者の家族は逮捕され、南の町の裁判所で裁かれることを今のぼくは知っている。だから、父さんと叔父さんは、ぼくを叔父さんの子ということにしたのだ。この村の戸籍の管理は杜撰もいいところで、そのくらいバレやしない。
しかし先月、叔父さんも亡くなった。元々体が弱くて隠遁生活をしていた人だったが、流行り病に罹ってあっけなく亡くなってしまった。けどそれも、この村では珍しくもないことだった。
叔父さんの葬儀が終わって、一晩泣き明かした。
しかし、次の朝にはある決意をした。
ぼくも姉さんのように密航するのだ。
今ぼくはこの世界で天涯孤独だ。だからぼくが密航しても誰も困らないし、もうこの世界になんの希望もなかった。
元はといえば全ては姉さんのせいなのだ。ぼくは向こうの世界にいる姉さんに会って、言ってやりたいことが山ほどある。
それからぼくは準備を始めた。最低限の荷物をまとめ、情報を集めた。
密航の方法はとうに見当が付いている。姉さんは他の者が兵士に賄賂を渡している間に、橋を渡ったのだ。橋は十数メートル、見張りは一人だから、その隙を突いて駆け抜ければ不可能ではない。姉さんがいなくなったのも丁度、バーモンド一家が橋を渡った日だった。
だから、ぼくが集めたのは、次に誰かが兵士に賄賂を渡して橋を渡るのはいつなのか、という情報だ。
村の真ん中にある酒場で何日か情報を集めていると、1週間後にエスビーという男が橋を渡るという話を聞いた。
よし、では決行は1週間後だ。
ぼくはできるだけ身軽な格好で、素早く橋を渡り切れるよう準備を整えた。
家族の誰もいない生活は孤独だった。だからだろうか、ぼくは向こうの世界にいる姉さんのことを考えることが増えた。けど、不思議と姉さんを恨む気持ちはあまり湧いてこなかった。
ぼくは本当は姉さんに会って文句を言いたいのではなく、ただ姉さんに会いたいだけなのかもしれない。
そうしてすぐに1週間は過ぎ、その日はやってきた。
日が暮れると、ぼくは橋の方へ向かった。
橋の周りには兵士の詰所がある以外は何もない。とても殺風景だ。
兵士が交代で橋を見張っているが、見張りの一人以外は詰所の中から出てこない。
ぼくは息を殺して、見張りに気づかれないように詰所に近寄った。暗くなって明かりもないので、見張りには気づかれなかった。そして、詰所の陰に隠れて、橋の様子を伺いながらタイミングがくるのを待った。
夜も更けてきた頃、フードを被って顔を隠したエスビーが橋へやってくるのが見えた。兵士はエスビーから金を受け取ろうと近づいた。
ぼくは兵士が橋から少し離れ、橋に背中を向けているのを確認すると、「今だ!」と心の内で叫んで物陰から飛び出した。
ぼくの走る音に気づいて、兵士が振り向く。
しかし、そのときにはぼくは橋を渡り始めていた。兵士が咄嗟に銃を構えるがもう遅い。
ぼくは橋を駆け抜けて、足場の途絶えた虚空に最後の一歩を踏み出した。
その瞬間、視界が白く染まり、周りから音が消えた。
だが、次の瞬間にはパッと光が目に差し込んできて思わず目を閉じた。
「止まれ、密航者!」
目を開けると、前方には二人の男がこちらに銃を構えていた。
「手の平を頭の後ろにつけろ」
ぼくは言われるがまま指示に従った。
周りを見やると空は明るく、晴れ晴れとした天にのぼる太陽が眩しかった。
「なぜ銃を向けるんですか!? こちらは平和な世界ではないんですか?」
ぼくは思わず口を開いた。
男の片方が答える。
「ああ、昨日まではな。しかし、今日から政権が変わったんだ。これまではお前ら亡命者を受け入れてきたが、これからは違う」
男は続けた。
「そもそも俺たちがお前ら別の世界の奴らの面倒を見る義理はないんだ。これまでの亡命者たちも、元の世界へ送り返されるだろうよ」
密航者たちは当然、元の世界で死刑になるだろう。密航者の家族というだけであの扱いなのだから。
「ほら立て!」
希望を失くし、力なくへたり込むぼくの腕を男たち二人が掴んだ。
「お願いです、見逃してください! あちらに戻ったら殺されるんです!」
「知らん。それはお前らの世界の話だ。お前らの生まれた世界を恨むんだな」
男たちは無理やりぼくをワームホールへと押しやった。
視界が白く染まり、周りから音が消えた……。
亡命者たち チタン @buntaito
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