第36話 看板
その頃私は、大学の女子寮に住んでいた。
構内の隅っこにひっそりと佇んでいた女子寮は、華やかさの欠片もないような古い建物で、廊下の床が盛大にきしむため、夜中に帰ってくるのがはばかられるようなところだった。
ある冬のこと。その寮の共同浴場が壊れ、一週間ほど入浴どころか立ち入り禁止ということになった。
やむを得ず私たち寮生は、大学を出て歩いて8分ほどのところにある銭湯に通うはめになった。
その時のことは、よく覚えている。
大学の裏門を出て銭湯に行くまでの道のりは、暗くて寂しいものだった。
私は隣の部屋に住んでいたスミさんという同級生の女の子と、誘い合わせて一緒に行くことにしていた。あんなところをひとりぼっちで夜歩くのは、嫌なものだった。
大学の近くに、廃墟になった団地があって、銭湯に行くにはその脇を通るのが一番近い。冬場に、しかも湯上がりに遠回りをしたくはないので、仕方なくその廃墟の横を通るのだが、誰もいない大きな建物というのは、何だか気味が悪い。
その辺りに差し掛かると、私たちはわざとバカバカしい話をしたものだった。
「いっつも思うんだけどさ、この看板、めっちゃ楽しそうだよね」
いつだったか、そんな話題になったのを覚えている。
団地の横には水路があって、周りを金網で囲まれている。その脇に「きけん!はいるな!」と書かれた看板が、街灯に照らされて立っていた。
黒々と書かれた注意書に、水に浸かって両手を挙げている男の子の絵が添えられている。その文字と絵がいかにも素人臭いのだ。
特に私たちのツッコミを受けていたのが、男の子の絵だった。水に浸かって大変なはずなのに、なぜか男の子はにこにこ笑ってしまっている。
「両手を挙げてるし、なんか、わーい! って感じだよね」
「入るなって言いながら、すごい楽しそうなんですけど」
団地の廃墟に差し掛かると、無理にでも明るい話をしたい。でもそんなときに限って、話が途切れてしまったり、話す種がなくなってしまったりするものだ。
そんなとき、自然と話題を提供してくれたのが、その看板の男の子だった。
明日からようやく寮のお風呂が使える、という夜のことだった。
極寒の銭湯通いが終わることを喜びながら、私とスミさんは寮に向かって歩いていた。
「もう銭湯も行かなくなるねぇ。なんかちょっと寂しいかも」
「いやいや、寂しくないし! ていうか、寂しかったらまた来ればいいじゃん」
「ないない! 寒いもん!」
笑いながら、団地の廃墟に差し掛かった。
視界の右端に、黒々とした建物と水路が映る。
「私、明日寮のお風呂出たら、アイス食べるんだ」
「寒くてそれ、できなかったもんね。いいな、私もやるー」
久しぶりに食べる湯上がりのアイスは何がいいか話していると、急にスミさんが口をつぐんで、私のダウンの袖を軽く引っ張った。
「ねぇ」
「うん……」
私も気付いていた。
用水路の中に誰かいる。
点々と立つ街灯の一つに照らされて、真っ黒な人影が、上半身を水から出していた。
こちらに気付いたのか、人影は両手を高く差し上げて、ひらひらと振った。
背中をふいに、冷たい手で撫でられたような気持ちがした。
誰かが助けを求めている、などとは思えなかった。
冬の夜に、子供の背丈ほどもある金網を越えて、どうして水路などに入るだろう。
どうして、あんなに楽しそうに両手を振るだろう。
街灯がぼんやりと照らしているだけとはいえ、どうしてあの人は「真っ黒」にしか見えないのだろう。
まるで、黒い画用紙を切って作った人影みたいだ。
足を止めたまま、動けなくなった。
どうやって歩き始めたらいいのか、わからない。
その時、私のお風呂ポーチの中で、携帯電話がブーッと音をたてた。
「ひゃっ!」という奇妙な声が、私の喉から飛び出した。
それで我に返ったのか、スミさんが私の腕を掴むと、勢いよく駆け出した。
団地が見えなくなるまで、ふたりで夢中で走った。
息を切らして、小さなコンビニと交番が並ぶ道に走り込んだ。
「もしもし? どうかしたの?」
私たちの様子がおかしかったのか、交番にいたお巡りさんが声をかけてきた。スミさんが、団地の横の水路に人が落ちているように見えた、とお巡りさんに話した。
それを見ていると、ああ、やっぱりあれはただの人だったのかも、という気持ちが、少しずつ湧いてきた。
しかし、お巡りさんはまったく慌てず、「僕が見てくるから、君たちは帰りなさい」と、穏やかな声で言った。妙に慣れたような口調だった。
その夜は、私の部屋でスミさんと一緒に寝た。
明るくなってから、ようやく
「ウッチーも見た?」
「うん。スミさんも見たよね」
という話をした。
それから卒業まで、夜にその団地の横を通ることはなかった。
水路にいたのは何なのか、わからずじまいになった。
ただ、その後はあの看板を見ても、満面の笑みを浮かべて両手を挙げる男の子の絵を、笑うことができなくなった。
あの人影はほんとに楽しそうに見えたと、看板から目をそらしても、思い出してしまうのだ。
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