第35話 姿見のある部屋

 都内に引っ越した時、俺にはとにかく金がなかったので、異様に家賃が安いワンルームを借りた。なんと、敷金・礼金もいらないという。


 日当たりはイマイチだが、築浅で内装も小綺麗だ。なのに何となく全体が薄暗いというのが、その部屋の第一印象だった。不自然な家賃の安さと相まって、単に日当たりが悪いという以上の何かがあるように思われて仕方がなかった。




 この部屋の壁には姿見がかけてあった。黒っぽい縁のついた、これといって特徴のないものだ。


 管理会社によれば、部屋に元々ついているものだという。何にせよ俺にとっては、あまり用のあるものではなかった。


 特に気にもとめず、俺はその部屋で暮らし始めた。




 引っ越してからしばらく経ったある夜、もらいものの古いベッドで眠っていると嫌な夢を見た。


 何年か前に自殺した従兄が、俺の顔をひたすらじろじろ見ているというものだった。お互いの顔がくっつきそうなほど近づいて、気味の悪い無表情でただこちらを見つめていた。


「何の用だよ! あっち行けよ!」


 夢の中で怒鳴った自分の声が本当に聞こえて、俺は目を覚ました。時計を見るとまだ真夜中だ。常夜灯のオレンジの明かりだけが部屋を照らしていた。


 その頃俺は常々、壁の方を向いて寝るようにしていた。なぜなら反対側には、備え付けの姿見があるからだ。鏡に寝顔を映しながら眠るのが何となく気持ち悪くて、壁を見ながら寝る癖がついたのだった。


 だがその夜に限って、寝返りをうった後に目覚めたらしい。目が覚めると俺は姿見の方を向いていて、寝ている自分の姿がそこに映し出されていた。


 俺は半分覚醒した頭で、ぼんやりと鏡を見つめた。その何秒かのち、全身に鳥肌が立った。


 鏡の中の俺は、壁の方を向いたまま横になっていた。


 俺は飛び起きると、財布を入れっぱなしにしていた鞄をひっつかんで、外に飛び出した。


 もしも鏡の中の自分が寝返りを打って、こっちを見たら。


 そう思うと恐ろしくて、いてもたってもいられなくなったのだ。




 しばらく夜の街をふらふらしたが、何せ使える金はない。あてもなく歩き回り、ようやく空が明るくなってから、俺はしぶしぶ部屋に戻った。


 部屋の中は、出て行った時と変わっていないように見えた。人の気配もしなかった。


 鏡は日光を反射して輝いている。


 急に夜のことを思い出してぞっとした。俺は踵を返すと、コンビニでガムテープを買い、段ボール箱をもらってきた。


 そして潰した段ボール箱を姿見の上にあてがい、ガムテープで壁に貼り付けて、姿見を封印してしまった。


 いかにも急場しのぎだが、ひとまず安心することはできた。




 こうして姿見は隠れたが、未だに部屋は何となく暗く、陰気なままだった。


 嫌な夢も見続けた。しばらくは同じ夢だったが、いつの間にか従兄の顔が知らない男の顔に変わっていた。男は口もきかず、ただじろじろと至近距離で俺の顔を舐め回すように眺めた。


 そして、相変わらず金はなかった。引っ越す余裕もなかった。


 そんなある日、俺は理不尽な理由でアルバイトをクビになった。


 頭にくるような眩しい夕日が街中を照らす中、仕方なく部屋に戻ると、その日に限って壁に貼り付けた段ボールが、目立つところにある瘡蓋のように気になって仕方なかった。


 手をかけて、ばりばりとそれを剥がすと、数ヵ月ぶりに姿見が現れた。


 鏡には痩せて顔色の悪い、肌のがさがさした男が映っていた。


 はて俺はこんな顔だったかな、と思ってじっとその顔を見ると、鏡の中のそいつも黙ってただ、じろじろと俺を見返して来た。その時急に、いつも見る不快な夢のことを思い出した。


 ムカムカして、俺は発作的に傍にあったダンベルで、鏡の中の男に殴り掛かった。鏡はあっけなく割れた。


 急に晴れ晴れしい気分になった俺は割れ落ちた鏡を集め、次の不燃ゴミに出してしまった。




 くだんの夢は、とりあえず見なくなった。

 その代わりに、頭の割れた男が血を流しながら、わけのわからない言葉で俺を罵倒し続ける夢を見るようになった。


 俺はそれでもその部屋に住み続けた。何しろ金がなかったのだ。


 新しいアルバイトを探し、合間に勉強をしながら、割れた鏡のある部屋で過ごした。


 ようやくその部屋から引っ越すことができたのは、それから3年以上も後のことだった。


 もちろん姿見は捨てたままだったが、退去するとき、部屋の復旧にかかる費用はなぜかほとんど請求されなかった。

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