第34話 姉の足音

「……来たねぇ」


 茶菓子を持ってリビングに入ってきた母が不安げに呟いて、父と顔を見合わせた。


 3月のまだ肌寒い夜、家の雨戸を全部閉めきった後に、庭の玉砂利を踏む、じゃっ、じゃっという音が聞こえてきた。足音は二階建ての家の周りをぐるぐると回っている。


 今日は私だけでなく、兄も家族を連れて帰省している。兄嫁は4歳になる姪を連れて、隣町の彼女の実家に顔を出していた。


「お義姉さんに、今日はそっちに泊まるように言わなくちゃ」


 兄に声をかけると、「そうだな」とうなずいてスマートフォンを取り出した。帰宅した兄嫁と姪が、庭にいるものと鉢合わせしてしまってはたまらない。


 じゃっ。じゃっ。足音は鈍重なペースで続いている。前回はお盆の晩にやってきて、朝日が昇る頃まで続いていた。3月には命日があるので、こうしておよそ1週間に1度のペースで庭を練り歩く。その間、家族は家の中にこもって、なるべく何事もないかのような顔をして過ごすのだった。


 なぜこんな日に帰ってきてしまったのか。私は後悔した。アパートの連帯保証人の書類に父のサインが必要だったのだ。その書類は夕方に書いてもらっているのだから、さっさと東京に帰ればよかった。


 庭を歩いているのは、私の死んだ姉らしい。


 その緩慢な足音を聞きながら、家族は声を潜めて話し合っている。




 私自身に姉の記憶はほとんどない。


 私が幼稚園に入園した頃、毎日のように金切り声をあげて姉を折檻していた母が、急に穏やかになったのをうっすら覚えているが、姉自身のことは記憶にない。だから姉のことは、母の妹である叔母に聞いたり、近所の噂を耳に挟んだりして知ったことしかわからない。


 姉は私や兄とは畑違いの子供だったという。結婚して数年、子供が出来ずに悩んでいた母を置いて、父は単身赴任先で不倫をし、その結果できた子供を家に連れ帰ってきた。それが姉だった。姉の産みの母は、どうなったかわからない。


 母は身寄りのない姉を受け入れたものの、何かのきっかけでスイッチが入ると、甲高い声を上げて姉を叩いたり、ものを投げつけたりしたという。そんな生活だったのに、なぜか姉が2歳の時に兄が、5歳の時に私が産まれた。それまで一向に恵まれなかった子宝に、どうしてこんなタイミングで恵まれたのか謎だ。


 姉は8歳になる年の3月、何がきっかけだったのか、夜更けに家の外に放り出されて死んだ。この地方と時期にしては珍しく、その夜、外は凍えるほど寒かった。


 姉を家から出して1時間ほどしてから外を見ると、姉の姿はなかった。詳しくは知らないが、家族はそのまま寝てしまったのだろう。努めて探そうとはしなかっただろう。


 明くる朝、彼女は近所の田んぼの中で倒れているのを発見された。とっくに息はなかった。


 姉がどうして何の風避けもない田んぼに入っていったのか、それは誰にもわからない。最早暖をとろうなどと考える気力もなく、ただふらふらと歩いていたのかもしれない。


 実家のある田舎では皆が知り合いで、姉が虐待の末亡くなったことも、近所の誰もが知っていたはずだが、私の家族は何のお咎めもなく、何事もなかったかのように今日まで過ごしている。


 兄は姪が産まれてからというもの、妻子を連れて度々この家に帰省するようになり、近所では「親孝行な長男」と言われている。兄嫁は姉のことについて、「不幸にも亡くなった子供がいる」ということしか知らず、両親や兄のことは、ただただ善良で優しい人たちだと思っているらしい。


 私は大学入学と共に上京して以来、実家とは距離を置いている。


 姉の死も、彼女への残酷な仕打ちも、そもそもの原因である父の不倫すらなかったことのようにして、仲良くほのぼのと振る舞っている家族に、私はぬぐいようのない違和感と恐れを抱いている。


 汚いものでも見るような目付きで、「あんたにこんなことを言いたくないけど、あんたの母さんたちはおかしくなったまんまよ」と言った叔母の方が、人間らしい顔をしていたと思っている。


 事情を知って黙っている近所の人々からしてみれば、私も皆と同じ「おかしくなったまんま」に見えるのだろうか。そう考えると、こうして家族と一緒にリビングに座っていることが、ひどく肩身の狭いことのように思えてくる。


 とは言っても、足音が止む様子のない今、自室でひとり過ごす勇気はない。じゃっ、じゃっ、という音は、少しだけ大きくなってきたような気がする。姉は私のことをどう思っていたのだろう。私を憎んでいただろうか。


「既読にならないなぁ」


 兄がスマートフォンの画面を見ながら言った。兄嫁に連絡をとろうとしているのだろう。


「ちょっと電話してくる」


 そう言ってソファから立ち上がると、部屋を出ていこうとする。その時、家の外からけたたましい女性の悲鳴が聞こえてきた。


 私も思わず立ち上がって、家族の顔を見渡した。誰もが血の気が引いた青白い顔をしていた。足音はぴたりと止み、何の音も聞こえない。


「……お義姉さん?」


 思わず声に出た。兄が弾かれたように、玄関の方へ走り出して行く。


「ばかっ! 開けちゃ駄目!」


 一瞬遅れて、母の声が追いかける。玄関から兄のわめき声がした。何を言ったのか聞き取れない。


 ああ、姉が家に入ってくる。


 そう思った瞬間、私は勝手口へと走り出していた。まだリビングで座ったままの父と母の姿が、目の端に残った。


 勝手口を開けると、私はそのままひとり、外へと逃げ出した。静まり返った夜道を、少しでも明るい方へと走った。




 どれくらい走っただろうか、私は人気のある繁華街にたどり着いた。


 息を切らして立ち止まる私を、道行く人が不思議そうに見ている。その時初めて、靴も履かずに飛び出したことを思い出した。


 どうしよう。家に戻ろうか……悩んでいたとき、お尻に振動を感じた。自分のスマートフォンを、デニムのポケットに入れたままにしていたのだ。


 電話だった。義姉の番号からだ。恐る恐る通話ボタンを押した。


『もしもし? 翔子ちゃん?』


 いつも通りの朗らかな声だった。


「……はい」


『よかったぁ、通じて。あのね、遅くなっちゃったから、悪いけど玲奈と一緒に、うちの実家に泊まって行きたいの。さっきから亮さんやそっちの固定電話にかけてるんだけど、何でか全然通じないのね。翔子ちゃん、今家? みんないる?』


 義姉の声を聞きながら、私は体の力が抜けていくのに耐えきれず、その場に座り込んだ。身体中が冷たかった。




 どこかでサイレンが鳴っている。

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