第33話 透明人間

 その時僕は、ファミレスの窓から歩行者用の信号を眺めていた。


 車の交通量が多いためか、この信号は妙に赤が長くて青が短い。白線が半分消えかけた横断歩道を渡って、待ち人は間もなくやってくるはずだ。


 手元の文庫本に半分、信号の向こう側にもう半分の意識を飛ばしていると、突然声をかけられたので驚いた。


「すみません、お砂糖貸してもらえませんか?」


 30代半ばくらいの、こげ茶色のスーツを着た真面目そうな男性が、コーヒーカップ片手に立っていた。


「私の席、お砂糖が空になっちゃってまして……」


 そういう場合、普通は従業員を呼んで、砂糖を持ってきてもらうものではないだろうか。不審に思わないでもなかったが、不意をつかれたことと、男性の困ったような笑顔がいかにも「いいひと」な感じだったので、


「どうぞ」


 と答えて、砂糖の入った小さな陶器の入れ物を差し出した。


「どうも、すみませんね」


 彼はそう言うと、自分の席には戻らず、まるで最初からこちらの連れだったかのように、向かいのソファーに腰かけた。


「私、ブラックコーヒーが飲めないんでして。いい年をして、子供みたいな味覚なんで」


 そう言いながらやたらと砂糖をカップに入れる。途中から数えてみると、6杯入れたところでようやくコーヒーをかき回し始めた。


「その、信号のとこをちょっと行くと、バス停があるでしょう」


 男性が突然そう言って、窓の外を指差した。確かにバス停はある。確か、駅と総合病院を結ぶバスが通るはずだ。


「ありますね」


「ずっとそこで待ってたんですよ。バスが来るでしょ? それで、こう、手を挙げるんですよ。でもね、通りすぎちゃうんです。バスが。何本も何本もそんな感じでしてね。乗せてくれないんですよ」


 穏やかな口調で語りながら、彼はコーヒーをすすった。さぞ甘いだろうと考えて、僕は少し気分が悪くなった。


「あんまり乗せてもらえないから、あきらめてこっちに来たんですよ……私、透明人間にでもなってたんですかねぇ」


「さぁ、たまたま見えないところにいたんじゃないですか」


 相手のコーヒーを見ないよう、半分うつむいたままそう言うと、返事がない。さては怒らせたのかと思って顔を上げ、ぎょっとした。


 男の顔が蒼黒く膨らんでいた。ピンポン玉のような目玉が飛び出している。


 何秒ほど見つめていたかわからない。


「もしもし。どうしました」


 声をかけられて我に返ると、男性がこちらを見て微笑んでいる。その顔は初めて見た時と同じで、まったく何の変哲もない、どこにでもありそうな顔だ。


「いや……何でも……」


「そうですか。どこかお加減が悪いのかと思って。いやしかし、そうですか。たまたま見えないところにね。なるほど」


 何度もうなずくと、男性は立ち上がった。


「それは考えませんでした。なるほど、もう一回試してみます。どうもありがとう」


 そう言うが早いか伝票を掴んで立ち上がり、風のように歩き去った。ぼんやりしているうちに入り口のベルが鳴って、どうやら彼は出ていってしまったらしい。


 なぜか件のバス停は通り過ぎ、足早に駅の方へと歩いていくこげ茶色のスーツが、歩道の向こうへ消えていく。追いかけるべきだろうか。しかし、これ以上関わるのも何だか怖い。


 再びベルが鳴り、新しい客がやってきた。


「お待たせ! 四郎ちゃん」


 ようやくやってきた待ち合わせの相手は、余分に置かれたコーヒーカップに目を留めた。


「誰かいたの?」


「知らないおじさん。今さっき出てったけど」


「今さっき?」


 ソファに座りながら、彼女が首を傾げる。


「私、道の向こうからずっと見てたんだよ。赤信号が長いからさ」


 水色に塗られた爪で横断歩道の向こうを指す。そういえば男性に気をとられて、しばらくそちらを見るのを忘れていた。


「向こうで、ああ四郎ちゃんがいるなーと思って見てたんだけど、四郎ちゃん、ずっと一人だったよ?」




 結局、何にコーヒーをおごってもらったのか、よくわからない。

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