第32話 爪痕
突然、下腹に違和感を感じるようになった。
お腹の中で、時々何かがぐにぐに動くのを感じる。食べたものを消化する時に胃腸が動くのとは違うと感じた。何かそこに異物が入っているような気がした。
体調は決して悪くない。食欲もあるし、夜もちゃんと眠れる。特別ストレスが溜まっているわけでもない。
「ふーん。なんか、胎動みたいね」
何気なく友達にその話をすると、そんなことを言われた。彼女は去年、初めての子供を出産したばかりだった。
「そんなぁ。今月だってちゃんと生理があったのに。第一心当たりがないよ」
「わかってるって。ただちょっと似てるなってだけだってば」
とってつけたような明るい声で、彼女は笑った。
「もう、そんな怖い顔しないでよー。心当たりアリかと思っちゃうじゃない」
そう言われて、そんな顔をしていたのか、と逆にぎょっとさせられた。
調べてみると、胎動を感じるのは早くて妊娠5か月頃からだとか。月頭に生理があったのに、赤ちゃんがいるわけがない。まして、5か月の胎児なんて。
それでも、友達の言葉が何となくひっかかって、毎晩入浴前に服を脱いでから、洗面台の鏡で体型をチェックするようになった。
下腹が出てきているように見えるのは、太ったからか、それとも気のせいだろうと決めつけた。
月が明けた。毎月規則正しく月の初めに来ていた月経が、なかなか来ない。
やっぱりちょっと体調が悪いのかもしれない。そう思い始めていた頃だった。
夜中、下腹の痛みで目が覚めた。今までに経験したことのないような強い痛みが押し寄せてくる。脂汗を流しながら、とにかくトイレに行こうと考えた。痛みのあまり何度か断念しながらも、這うようにしてトイレにたどり着いた。
便器に座って、何か悪いものを食べたっけ、と考えた。こんなにお腹が痛くなったことなんてない。もしかしたらお腹がぐにぐに動いていたのは、悪い病気だったのかも、と考え出すと、悲しくなって涙が出てきた。
両手で顔を覆って力んだが、何も排泄できない。痛みのため、その姿勢から動くこともできなくなった。
どのくらいそうしていただろう。
ふと痛みが遠のいた。同時に、両膝に何か、冷たいものが当たるのを感じた。
目を開けて、顔を上げた。
両膝の間に、見たこともない女の顔があった。
やけに目が大きい、痩せこけた女性だった。
爪の伸びた指が、両方の膝に置かれていた。その指にぐっと力が込められるのを感じた。
あっという間に意識が遠のいた。
気が付くと朝になっていた。トイレの床で、パジャマとパンツを膝下まで降ろしたまま倒れていた。
嫌な夢を見た、と思ったが、それ以来、下腹に違和感を感じることがなくなった。
急に不安になった。適当な理由を作って産婦人科を受診してみたが、何の問題もないと言われた。
しばらくは自宅のトイレに入るだけで恐ろしかったが、あれからあの女を見ることもない。
何がきっかけだったのか、何が起こっていたのかまったくわからない。わからないが、何もおかしなことはなくなった。
ただあの夜、私の体内から、そこにいた何かが出て行ったような気がしてならない。
あれから両膝の上には、爪痕のような蚯蚓腫れが5本ずつ残って、数日の間消えなかった。
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