第31話 帰らない話

 家に帰りたくない。というときが誰しもあるだろう。そういう話を色んなひとに聞くのが、僕のちょっとした趣味だ。


 学生時代の旧友とか、よく行くバーの常連客とか、甥っ子の友達とか、とにかく「あ、今聞けそうだな」と思ったときには聞くことにしている。


「家に帰りたくないときってどんな時?」


 そう聞かれて戸惑うひとは多いし、変な目で見られることもあるけれど、それでもしつこく続けたものだから、今では大学ノート一冊分くらいの「家に帰りたくないとき」の話が貯まっている。


 帰りたくない理由は人それぞれだ。まだ外で遊んでいたいから、家族間に揉め事を抱えているから、恋人と一緒にいたいから……などなど、とにかく色々あって、どれもそれぞれに感じ入るものがある。


 僕の場合は小学生の頃、下校するのに散々道草をくっていたものだから、「帰りたくない」という気持ちは、楽しく懐かしい少年時代につながっている。だから「帰りたくない」話を聞くと大抵は和むし、癒されるのだ。


 だけどたまに、癒しの欠片も得られない話を聞くことがある。茂春伯父さんに聞いた話はその筆頭だった。




 茂春伯父さんには瞳子さんという一人娘がいた。僕の従姉にあたるひとだ。


 瞳子さんが23歳のとき、彼女は伯父さんの前に、ひとりの男性を連れてきた。このひとと付き合っていて、結婚したいということだった。


 男性は真面目そうだったが、ぺらぺらのスーツを着ていて、痩せっぽっちのみすぼらしい見た目をしていた。加えて高卒で、実家は母子家庭だという。


 エリート志向の強い伯父さんは、その男性が気に入らず、大変な剣幕で結婚を反対した。男性を家から叩きだし、妻(つまり僕の伯母さんだ)のとりなしも聞かず、瞳子さんを叱りつけて別れろと詰め寄った。


 瞳子さんは大人しいひとで、父親の叱責に対し、黙って泣くばかりだった。


 男性はその後も何度か家にやってきたが、伯父さんはその度に追い返した。女子大を出て、いいところに就職したばかりの娘に、こんな取るに足らない男が近寄ってきたかと思うと、腹立たしくてたまらなかった。


 そのうち、頭を下げている相手に暴言を吐き、虐げることが面白くなってきた。そんなことをしているうちに、肝心の瞳子さんとその男性との間にもすれ違いが出来てきたらしい。


 いつしか男性は姿を現さなくなった。そして伯父さんは瞳子さん自身から、恋人との破局を知らされた。




 それから8年が経った。


 瞳子さんは31歳になったが、いまだに独身のままだった。


 今時31歳で独身なんて珍しくもなんともないが、茂春伯父さんにとっては大問題のように思えた。瞳子さんが25歳になったあたりから、伯父さんはそのお眼鏡にかなった人物と娘とのお見合いを、何件か組んでみたりもした。しかし、結果ははかばかしくなかった。


 2年前に伯母さんが病気で亡くなっており、その娘の花嫁姿を見せることができなかったということも、深く悔やまれた。特に母親を亡くしてからというもの、瞳子さんは何だか気落ちしたようになってしまい、仕事に行く以外は家に閉じこもっていた。そのことも気掛かりだった。


 とにかく瞳子さんに「まともな家庭」を持たせてやれば、何もかも上手くいく。そういう風に伯父さんは思っていたのだ。


「お前も歳だし、誰かいい人はいないのか」


 伯父さんが自宅の居間で炬燵に足を突っ込んで、すでに何度も聞いたことをまた尋ねたとき、瞳子さんは突然泣き出した。子供のようにしゃくりあげながら、彼女は、8年前に結婚を反対されて別れた男性のことをまだ忘れられないのだと言った。


「お父さんがあんなに反対しなきゃ、今頃あの人と結婚してたはずだったのに。勝手なことばかり言わないでよ!」


 瞳子さんは泣きじゃくりながら自分の部屋に閉じこもった。


 今更ではあるけれども、伯父さんはこのとき初めて後悔した。ふたりの結婚を頭ごなしに否定したことを思い出し、悪いことをしたと思った。


 せめて今からでも、ふたりの仲を取り持つことはできないだろうか。月日が過ぎていても、娘がこれほど強く想っているように、相手も娘を忘れることができずにいるかもしれない。


 しかし、相手の連絡先がわからない。そこで当時の年賀状を漁ってみると、あの男性から送られてきたものがまだ混じっていた。これを受け取った時、気まぐれに捨てなかったことを、伯父さんは心から喜んだ。


 年賀状の住所は、隣町のものだった。ある日、伯父さんはひとりで、タクシーを使ってそこを訪ねてみた。


 そこにはなかなか立派な一軒家が建っていた。築年数は古そうだが、きちんと手入れされている。庭にはこじんまりとした家庭菜園と、ちょっとしたテーブルセットが置かれていた。


 玄関のドアが開いて、男性が出てきた。その顔を見て、瞳子さんの恋人だった人に間違いない、と茂春伯父さんは確信した。


 伯父さんは慌てて物陰に隠れて様子を見た。いざ本人を目の前にしてみると、のこのこと目の前に出ていくことがはばかられたのだ。


 すると、続いて家の中から3、4歳くらいの男の子が飛び出してきて、男性にまとわりついた。その後に初老の女性が続き、最後にゆっくりと、お腹の大きな女性が出てきた。


「じゃあ、いってらっしゃい」


 初老の女性が言った。「けいちゃん、ママを手伝ってあげるのよ」


「うん! ぼく、お兄ちゃんだもん! ねー、パパ!」


 男の子はそう言って、ちびちゃんちびちゃんと言いながら女性のお腹を撫でた。身重の女性は嬉しそうに「そうね」と応えている。


 男性はそのふたりを、限りなく優しい顔つきで見守っていた。


 3人は車に乗り込み、どこかに出かけていった。初老の女性は幸せそうな顔でそれを見送り、家の中に姿を消した。


 伯父さんはその家に背中を向け、タクシーに乗ってきた道を、ノロノロと歩き始めた。


 腹の中で、どす黒い吐き気の塊のようなものが、グルグルと回っているような気がした。


 瞳子はこのことを知っているのだろうか、と考えた。


 知っているようにも、知らないようにも思えた。もし知らないのだとすれば、彼女はあの男性と、いつの日か親の許しを得て結婚することを、まだ夢見ているのかもしれない。もしもそうなら、一体何と言えばいいだろう。


 家に帰りたくなかった。どんな顔をして瞳子さんに会えばいいのかわからなかった。


 人気のない河川敷を、伯父さんはわざとゆっくり歩いて行った。


 そのうちに日が暮れてきた。あの男性は今頃、身重の妻と活発そうな息子を連れて、彼の自宅へと帰っているところだろうか。あの老女と一緒に住んでいるのか、それとも別の土地に居を構えているのか。


 それにひきかえ、自分の娘は今、どうしているだろう。


 ひとりぼっちで、暗い部屋で泣いているのか。


 仮にそうだとしても、どうそれに向き合えばいいのかがわからない。何をしてやれるのかもわからない。


 暗澹たる気持ちで河川敷を歩いていると、ふと、前方からひとりの女性が近づいてきていることに気づいた。


 瞳子さんだった。


 白地に黄色い花柄のワンピースを着て、長い髪を川から吹いてくる風に乱されながら、こちらに近づいてくる。紛れもなく本人だった。


「とうこー……?」


 茂春伯父さんは右手をあげて娘に呼びかけたが、おかしなことに気づいて口を閉じた。


 記憶が正しければ、確かあのワンピースは、就職祝いに買ってあげたちょっといい値段のもので、とっておきの一枚だったはずだ。


 それなのに、彼女はそれに合う靴を履いていない。裸足だ。小石の散らばった道の上を、虚ろな目をして歩いてくる。


 伯父さんは嫌な感覚に囚われて、その場に釘付けになってしまった。瞳子さんは足を痛がるそぶりも見せず、どんどん近づいてくる。やがて目の前まで来ると、


「知らないほうがよかった」


 そう言って、突然ふっと消えてしまった。


 伯父さんは叫んだ。急に恐怖が押し寄せてきて、体中に脂汗をかいていた。やみくもに走って大きな通りに出ると、タクシーを拾って家に帰った。


 自宅に瞳子さんはいなかった。


 外出したのだろうと思ったが、いつまで経っても彼女は帰ってこなかった。部屋の中を調べると、貴重品は残っていたが、あの黄色い花のワンピースがなくなっていた。


 それからもう丸3年が過ぎたが、瞳子さんは姿を消したままだ。


「全然見つからなくてさ。瞳子も、家に帰りたくないって思ってんのかね」


 というのが、茂春伯父さんの話だった。




「バカよバカ。昔から独りよがりなひとだったけど、このことばかりは許せないわ」


 茂春伯父さんの妹である僕の母は、伯父さんの名前を聞くたびにそう言って怒り出す。


「瞳子ちゃんがああなったのは兄さんのせいなのに、瞳子ちゃんが死んじゃったこと、ぜーんぜん目に入って来ないのよ」


 あの日、伯父さんが元彼に会いに行ったことを、瞳子さんは知っていた。


 彼がすでに幸せな家庭を築いていて、自分の元に戻ってくる見込みはないことも、とっくに知っていた。


 その上で、とっておきのワンピースを着て、自分の部屋の電灯に紐を引っ掛けて首を吊ったのだ。


『父は私に悪かったと思うでしょう。そして私に同情するでしょう。それが嫌です。死ぬほど気持ち悪くて、死ぬほど嫌です』


 走り書きの遺書にはそう書かれていた。


「ちゃんと遺体と対面したのに、お葬式にも出たのに、兄さんはぜーんぶ覚えてないんですって。いくらバカでもあんまりよ。瞳子ちゃんがかわいそう」


 あたしの手間も増えるし、と母はおかんむりである。他に近い親戚がいないので、瞳子さんの法事もお墓参りも、母が全部やっているのだ。


 無論、僕も手伝わされる。ついでに伯父さんの悪口も聞かされるので、もう癒しどころの騒ぎではない。


 はっきり言って、迷惑を被っている。




 定年退職した茂春伯父さんは、今では一日中家にいて、瞳子さんが帰ってくるのを待っている。


 その日はもちろん、未だ来ていない。

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