第30話 人形の家
兄夫婦が家を出て行ってからまもなく、母の様子がおかしくなった。
母は元々手先が器用な人で、ハンドメイドが趣味だったが、最近は人形ばかり作っている。人差し指くらいの女の人形を、紙や布を使って丹念に丹念に作っては、裁ちばさみで切り刻む。
壊した人形は庭の隅に埋めている。何度か埋める場所を変えているので、私の家の庭は、人形の死体だらけになりつつある。
今日も腰をかがめて庭の隅を掘り返している姿を、私は仕事をしながら二階の窓から眺めている。
元々エキセントリックな人だと思っていたが、ここまでになったのはやはり、兄がお嫁さんを連れて家を出て行ったからだろう。
せっかく建てた二世帯住宅だけれど、さすがにあの様子では兄嫁が本当に死んでしまう。結婚して数年、なかなか子供ができなかったことも、家庭内でのストレスが原因ではないかと私は思っている。
今、兄夫婦が住んでいたスペースには誰もいない。私は両親の側に住んでいるからだ。しかしここも「早く出て行った方がいい」と兄に忠告されている。
「彩音も今回でわかっただろ。うちの親はおかしいんだ」
そう言って家を出て行って以来、兄からはたまに、私だけに電話がかかってくるだけだ。
両親には悪いが、私も兄と同じことを考えている。
母が望むように、いつかこの家に両親と私と、私の夫と一緒に住むなんて、まっぴらごめんだ。
これまで一人暮らしを妨げていた金銭的な理由も、私の仕事が軌道に乗ったことで、ほとんど解決されている。
窓の外で、母が土を踏み固めているのが見える。近所では評判の「上品できれいな奥さん」だけど、その背中は上品でもきれいでもない。
うまい表現が思いつかないが、この時私は母の姿を見て、「寒々しい」と思った。
この家は、細長い二階建てがふたつくっついたような作りになっている。
玄関もキッチンも風呂も別の二世帯住宅で、音もあまり聞こえない。どちらかを賃貸物件として貸し出すことだって、その気になればできるだろう。
今、兄たちが住んでいた方のスペースは、もぬけの殻になっている。備え付けの家具がいくつか残っている以外は、もう何もない。
たまに私が入って、空気の入れ替えをしているが、こちらと同じ作りになっているとは信じられないほど、広々と感じられる。
私も準備ができ次第、この家を出て行くつもりでいる。その後、こちら側の手入れは誰がするのだろう。
母はかたくなに、こちらへ入ろうとしない。父は家庭のことには触れたくないようだ。そういえば母と兄夫婦が揉めている時も、父は口を出そうとはしなかった。
窓を開け、冷たい風が通っていくと、少しだけ無人の家が息を吹き返したような気がする。二階の寝室だった部屋の窓からぼんやりと外を眺めていると、向こうのスペースの玄関を開けて、母が庭に出てくるのが見えた。
手に何か持っている。たぶんまた人形だろう。いったい何のつもりで、母は人形を埋め続けているのだろうか。
その時ふと、背後で床の沈む気配と、みしりという微かな音がした。
「祥子さん?」
とっさに兄嫁の名前が口から出たのは、なぜだったのだろう。
振り返った先には、誰の姿もなかった。晩秋の明るい陽射しの中で、細かな埃がきらきらと舞っている。
戸締りを終えると、私は急いで兄夫婦のスペースを出た。
何とも言えず、厭な感じがした。
引っ越し先のアパートが見つかり、私は少しずつ、私物をまとめ始めた。
この上私が出て行くとわかったら、何を言われるかわかったものではない。両親に「出て行く」と告げて家を出たらもう、ここには帰ってこなくて済むようにしておきたかった。
幸い、大切なものはそれほど多くない。少しずつ宅配便で送ってしまえばいい。大きなものは置いていこう。そもそも母に押し付けられたピンクの可愛らしいベッドも、お姫様趣味のチェストも、まったく好きではない。
アパートの保証人には、兄がなってくれた。私のクライアントの会社がほど近いコーヒーショップで待ち合わせ、書類に署名と捺印をもらった。
1年前は同じ家で暮らしていた肉親だというのに、ひさしぶりに会うと、何を話せばいいのかわからない。
「祥子さん、元気?」
「元気だよ」
短く返事をすると、兄は口をつぐんだ。少し間が開いて、
「……もう5ヵ月になるけど、子供ができた」
と、ぽつりと言った。
書類に添えた自分の手が、ぴくりと動いた。
驚いた。子供ができたことではなく、それを私に教えてくれたことに。
驚きながらとっさに口から出てきた言葉は、「だろうと思った」だった。
「なんだって?」
「いや、あんなストレス溜まる家じゃ、妊娠なんかできないだろうと思ってたから」
そう言うと、兄は苦笑した。おそらく兄もそう思っていたのだろう。
あの家を出た途端に子供ができた。いいことだ。
「よかったじゃん、お兄ちゃん。おめでとう」
「ありがとう。母さんと父さんには内緒な」
「わかってる。ていうかさ、私には言っちゃっていいの?」
「祥子が、お前には教えていいって。あいつ、お前には感謝してるらしいから」
さっきよりも驚いた。兄嫁の、人の好さそうな丸顔が脳裏をよぎった。
「何でよ。私なんか何の役にも立たなかったじゃない」
「母さんとの間に入ってくれただけで嬉しかったって。そのうち遊びに来いってよ。あの家出たらさ」
下手な口出ししかできなかった私のことを、兄嫁はきっと好きではないだろうと、今までずっと思っていた。私の前ではいつも笑っているのも、気を遣われているのだろうと感じていた。
嬉しくないわけではないのに、兄に何と言ったらいいのかわからない。結局手元の書類を揃えながら、「ありがとう」と言うほかに、言葉が見つからなかった。
「また連絡する」
「私も引っ越したら教えるね」
「がんばれよ」
ひさしぶりの再会は、ほんの20分ほどで終わった。兄は先に席を立ち、店を出て行った。
私はゆっくりとコーヒーを飲み、店を出たその足で不動産屋へ向かって、必要な書類を提出した。帰り道で必要なお金も振り込んだ。
ついにあの家を出るんだ。顔に出さないようにするのが難しいほど、高揚した気分で私は家に帰った。
その日の夜、スケジュール表の進捗具合とにらめっこをしていると、ノックもせずに母が部屋に入ってきた。
「彩音、ちょっといい?」
もし駄目と答えても、「ちょっとだけだから」と出て行かないに決まっている。「いいよ」と言うと、母はベッドに腰かけた。
もしかして、母は何か感づいているのではないか。胃がぎゅっと縮まるような気分になった。
「彩音、お兄ちゃんから電話とか、ない?」
下から救い上げるような目で、母は私を見た。
「ないよ」
用意しておいた通りの答えだったので、すらすらと口から嘘が出た。
「連絡、全然ないの?」
「ない。私もしてないし」
「何でしないのよ」
「お兄ちゃんだって大人じゃん。ほっとけば?」
そう言われると母は溜息混じりに、「冷たいわね。昔っから」と言った。
「何? 用ってそれだけ? 私、仕事してるんだけど」
「仕事って、うちでパソコンしてるだけじゃない。お兄ちゃんみたいに会社に行けばいいのに」
「私、家でできる仕事だから。ここが職場なの」
何度そう言っても、母は私のことをニートか何かだと思っているらしい。そういえば、父は私を何だと思っているのだろう。話さないからわからない。
「お兄ちゃん、結婚して変わっちゃったわねぇ。前は優しかったのに」
私の言葉など聞いていないようなそぶりで、母は哀れっぽく話し出す。
確かに兄は変わったのかもしれない。母より大事な人ができたという点で。それはちっともおかしなことではないだろう。
「あんな子と結婚しなくてもよかったのに」
「はいはい。母さんの思ってたようなお嫁さんじゃなくて残念だったね」
「だってあんな、みっともない子だなんて。親もいないし、まともな学歴だってないでしょう」
母は兄嫁の身長が低いことや、両親が亡くなっていること、大卒ではないことなどが気にくわなかったらしい。だけどそれが何だろう。身長が平均より低いことなんて本人にはどうにもできないことだし、早くに両親を亡くして高校卒業と同時に働き始めたことを、私は恥ずかしいこととは思わない。どうしてこんな風に後ろ指さされなければならないのだろう。
私は暗い気持ちになる。
要するに母は、誰が兄のお嫁さんでも気に食わないのだ。
「モデルみたいな美人で高学歴で、ご両親が揃っててお金持ちのお嫁さんが来なくて残念だったね。ほら、出てってよ。仕事だって言ったでしょ」
強い口調で言うと、母はしぶしぶ腰を上げた。ドアを閉める間際、
「彩音もこんな子じゃなかったのに」
と声が聞こえた。
私は聞こえないふりをした。
じゃあどんな子だったらよかったのよ、と怒鳴りたかったけれど、じっとこらえていた。
私はこの家を出て行くのだ。
そしてもう帰ってなんか来ないのだから、母の理想の娘になんかならなくていいし、わざわざ口答えしてやる必要もない。
仕事の合間を縫って、部屋にある荷物は順調に減って行った。
その間にも母は人形を作り、ずたずたにして埋め続けた。それまで埋めていた場所がいっぱいになってしまったのか、庭の別のところに穴を掘っているのを見た。
父は相変わらず、家にあまり帰ってこない。帰ってきてもほとんど会話がない。
やがて私の荷物は、わずかな衣服とノートパソコンだけになった。
いよいよ家を出るという日、私は朝早く起きて、兄たちが住んでいたスペースに風を通しに行った。
よく晴れた、すがすがしい朝だった。冷たい朝の空気が気持ちよかった。
一階の玄関を開けると、やや上下に細長い家を歩きながらドアを開け、窓を開けていく。この作業も、きっと今日が最後になるだろう。
最後に二階の寝室に風を通す。もうこの部屋にも、備え付けのクローゼットしか残されていない。
ふと、ここで以前、足音らしきものがしたことを思い出した。急に背筋がぞっとした。
気のせいに決まっている。そう思っても、どうにも気持ちが落ち着かなかった。寝室の窓を閉めると、家中の戸締りをして回った。
何も起きなかった。寝室にもリビングにもキッチンにも、どこにも人の姿はない。
ただの空き家だ。
胸をなで下ろして、玄関を出ようとしたとき、二階で何かが床に落ちるような、どすんという重い音が聞こえた。
父と母が住んでいる方のスペースからではない。もっと明瞭な音だった。
二階に何か、高いところに置きっぱなしになっているようなものがあっただろうか? しかし物音が聞こえた以上、確認しにいかなければ落ち着かない。あの音は、気のせいで済むようなものではなかった。
きっと何でもないようなことだ。私は一旦履いた靴をもう一度脱いだ。
靴下履きで床を歩き、階段を上る。短い廊下に、ウォークインクローゼットと寝室、それぞれにつながるドアが並んでいる。
寝室のドアが開いていた。
いつもの習慣通りなら、そこは閉めたはずだ。
恐る恐る中を覗き込んだ。何もない。カーテンを閉めた大きな窓と、それに面した壁に備え付けられたクローゼット。カントリー調の、母が好きそうな内装。
部屋に一歩入って、中を見渡した。何かが床に落ちた様子はない。
何もないのは当たり前だ。さっきの音にはきっと、何か他に理由があるのだろう。木材がきしんだとか、排水管が鳴ったとか、とにかく何かの理由が。
今度こそ表に出よう。
そう思って振り返ろうとした直前、私の背後、二階の廊下を、たったったっと足早に歩く音がした。
私の髪が、誰かが歩いた後の風にあおられて靡いた。
「誰?」
反射的に振り向く。誰もいなかった。
誰かが歩いていった先には、壁があるだけだ。
家の戸締りは済んだ。誰もいるはずがない。
全身に鳥肌が立っていた。とにかく寝室のドアを閉めようと、私はドアノブを掴んだ。
その時、寝室の中が目に入った。
備え付けのクローゼットの上に、黒髪を長々と前に垂らした何かがうずくまっている。
それと向かい合ったまま、私は身動きできなくなった。
逃げ出したいのに、足が動かない。
こめかみを、汗が一筋流れ落ちていく。
その時、クローゼットの上にいた何かが、ずるりと滑るように下へ落ちた。
どすんと音がした。
「いやぁ!」
自分のものとは思えないような声が出た。途端に体が動くようになった。
叫びながら階下へ駆け下り、玄関を出た。
外から施錠する手が震えて、仕方なかった。
荷物を入れたバッグと、パソコンの入ったケースを肩にかけて、私は家を出た。
これからも母は、人形を殺して庭に埋めるだろう。
その姿はきっと、あの寝室の窓から見ることができるだろう。
そのことがあの家に、何かを生んでしまったような気がしてならない。
最後に振り返ると、誰もいないはずの寝室のカーテンが、少しだけ動いたような気がした。
もうこの家には帰らない。
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