第37話 山際の家

 小学生の頃、たびたび父方の祖母の家に泊まりに行っていた。


 祖母の家は、僕の家から電車に乗って30分ほどの、小さな町にあった。ほとんど山の中に食いこんでいるような地域で、我が家の辺りでは聞けない鳥の声などがしたものだ。


 風の強い日には、その頃すでに亡くなっていた祖父が生前作ったという物干し台から、物干し竿や物干し台そのものが盛大にきしむ音が聞こえた。ギイギイというブランコを漕ぐような音を聞きながら、眠りについた夜が何度あっただろうか。


 その音が、風のない時にも聞こえることがあると気付いたのは、10歳の夏だったと記憶している。




 言うまでもないが、風の強い日というのは騒がしいものだ。風の吹くビュウビュウという音や、外に置いてあるバケツや何かが転がる音なんかが聞こえて、うるさいのは物干し台だけではない。


 ところが、風の吹く音もしないのに、物干し台からギイギイという音だけがする日があることに、遅ればせながら10歳の僕は気付いたのだった。


 それは必ず夜で、客間に敷かれた布団の中で、古い漫画本を読んでいる時なんかに聞こえてきた。祖母に尋ねると、「家が古いから、夜になると時々きしむのよ」という答えが返ってきた。


「それより陽ちゃん、そんな遅くに外を見たりしちゃいかんよ。泥棒さんが来るからね」


 その時祖母はそうも言った。なぜ「泥棒さんが来る」のかが謎だったが、祖母の様子が思いがけず真剣に思えて、気弱だった僕は「うん」と大人しくうなずくより他なかった。


 だけどその場で聞けなかったことで、かえってそのことは僕の心に引っかかった。


 それからしばらくして、また風もないのに、物干し台がきしむ夜がやってきた。


 タオルケットを腹にかけ、うっすらと汗をかきながら、例によってブランコのような音がするのを聞いているうちに、僕はふと外を見たくなった。今思えば、祖母の言葉の裏に、秘密の匂いを感じていたのだろう。


 客間の障子戸を開けると、窓ガラスの斜め向こうに物干し台が見える。僕は音を立てないように気づかいながら、そっと布団を抜け出すと、枕元を照らしていた電気スタンドの明かりを絞った。そうしておいてから窓辺に這い寄り、障子戸を細く開いた。


 月の明るい晩だった。闇の中に、見慣れた庭がほんのりと照らし出されて見えた。それでも目が慣れるまで、少しは時間がかかっただろうか。


 物干し竿に、何かがぶら下がっていた。首のない赤ん坊のようなものの影が、両手を伸ばして、ぶらぶらと揺れていた。


 見てはいけないものを見ている、という気がしながら、どうしても目を離すことができなかった。そのうち、物干し竿で揺れていた「なにか」がこちらを向いた。黒い影の塊にしか見えなかったはずなのに、確かに「僕を見た」とわかったのだ。


 それは物干し竿からぼとりと落ちると、手足を振り回すような滅茶苦茶な走り方で、こちらに走り寄ってきた。


 その瞬間、僕は障子戸を閉めていた。とっさに体が動いたのだった。数秒後、窓ガラスを叩くバンバンという音がし始めた。


 もう障子戸を開ける勇気はなかった。僕は寝床に戻ると、タオルケットを頭からかぶって、無理やりにでも眠ろうと目を固く閉じた。


 そのうち気が遠くなって、ふと目を覚ますと朝になっていた。もう音はしなかった。

 恐る恐る障子戸を開けると、窓ガラスの下の方に、泥だらけの小さな手形がいくつもついていた。




 そんなことがあってからも、僕は何度か祖母の家に泊まりに行った。ただし、もう夜に障子戸を開けることはしなかった。


 あの影のようなものをまともに見てしまったら、とんでもないことになるような気がしたのだ。


 僕が12歳になった春、祖母が亡くなった。父は祖母の家を更地にして、土地を売ってしまった。もうその町を訪ねることすらなくなった。


 きっと祖母は「あれ」について、何か知っていたのだろう。それを聞けなかったことが、大人になった今、時々悔やまれてならない。

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