第38話 だれですか

 このマンションに住むの、実はあんまり気が進まなかったんです。私。


 でも旦那の転勤が急に決まって、すぐに引っ越さなきゃいけなくなって、慌てて物件探して契約してってスケジュールになっちゃったんです。私もその頃つわりで体調最悪で、色々調べてられなくって……。


 実際そのマンションって、立地は便利だし、ちょっと古いけどリノベされてて中はキレイだし、いい条件のところではあったんですけど……何が気に入らなかったのかっていうと、非常階段のことなんです。


 マンションの西側に、螺旋階段がついてるんですね。一番下にはドアがついてて、内側から鍵がかかってるんです。でも各階の廊下との境目はドアがついてないんですね。


 うちは8階で、一番上なんですけど……玄関がその非常階段の真ん前なんです。もし誰かが非常階段を上ってきたら、すぐ目の前がうちなんです。


 それってなんか嫌だなぁと思って。なんとなくですけど、怖い人が上って来たら嫌じゃないですか。


 でも鍵がついてるし、いいかなって。誰も入ってこないよねって思って、契約しちゃったんです。結局。


 あの頃はすごく後悔しました。だって上ってくるんだもの。ほんとに。




 旦那は出張が多くて、私がうちでひとりになることが結構あるんです。


 その日は5月の終わり頃だったかな。夜中、私が寝てたら、インターホンが鳴ったんです。


 目を覚まして、枕元のスマホ見たら午前2時ちょうどなんですよ。こんな時間に誰だろうって、ぎょっとして固まっちゃって……私、しばらく動けませんでした。


 でも少しして、勇気を出してモニターを見に行ったけど、もう誰も映ってなかったんです。廊下の手すりとかが映ってるだけで。だから、誰かが間違えてうちのインターホンを押したんだろうなって、その時は思いました。真夜中に迷惑な人だなって。


 でもそれから1週間くらい経って、またひとりになる夜があったんです。


 そのとき、私なんだか寝付けなくて……気分転換しようと思って起き上がって、テレビを観てたんです。たまたまそのとき、昔ちょっと観たいなって思った映画をやってて。それ観てるうちに、気が付いたら夜中の2時くらいになってたんです。


 そしたらテレビの音に紛れてですけど、カン、カンって音がするのに気づいたんですね。金属を叩くような音。


 外からするのかな、何の音だろうって聞いてたら、それがだんだん大きくなるんです。で、ふと音が止んで……私、そのとき何でか、真っ赤なパンプスを履いた女の人が、表の非常階段を上ってきてるって映像が、頭にぱっと浮かんだんです。パンプスの底が、金属の階段をカンカンって鳴らしてたんだ、みたいな……。


 あっ! 誰か上って来たんだ! って思ったとたんに、インターホンが鳴ったんです。

 私、とっさにリビングの入り口に付けてあるモニターを見たんです。でも真っ黒で、何も見えなくて……なんだか動くのも怖くって、その場でじっとしてたんです。モニターも見ないようにして、こうやって膝の間に顔を隠して。そうしてないと、表にいる誰かに、私のことを気づかれちゃう気がしたんです。それってすごく怖いことの始まりのような気がして。


 でもそれっきり何の音もしなくて、顔を上げると、インターホンのモニター画面が自動で暗くなるところでした。ぱっと見ただけだけど、廊下の手すりが映ってるだけだと思いました。思わずはあーって息が出ました。


 それで、気を取り直してしばらくテレビを観てたんですけど、急にはっと気づいたんですよね。何って、インターホンが鳴ったら、モニターは自動的に画面がオンになるんです。


 インターホンが鳴ったのに画面が真っ暗ってことは、画面が消えてたんじゃなくて、カメラのすぐ真ん前に誰かが立ってたんじゃないかって。


 もう、全身ざわざわって鳥肌が立って……その日はテレビ点けたまま、リビングで朝が来るのを待ちました。




 でも不思議なんですけど……そのときは物凄く怖かったんですけど、朝になるとそれほどでもなくなっちゃうんですよね。なんか、全部夢だったみたいな気がしちゃって。


 それで、深夜のことはなんだったんだろうって、私、確認してみたくなったんです。


 うちのインターホン、録画機能がついてるんです。だから昨晩の画像を確認したら、何か映ってるかな、なんて……。迷ったしドキドキしたけど、このままモヤモヤしてるよりはいいよねって思って、思い切って再生してみたんです。


 そしたら画面がやっぱり真っ暗で……ああ、やっぱり誰かが前にいたんだ。気持ち悪いな、怪しい人かも、なんて考えながら見てたら、急に画面に白っぽいものが出てきたんです。


 妊娠中だからそう思ったのかもしれないですけど、エコー検査の画像みたいでした。お腹の中の赤ちゃんを見るときみたいな画面だなって……。何だろこれって思ったら、それがモゴモゴって動いて、あっ、これ顔だってわかったんです。


「いやっ!」って叫んで、思わずモニターから離れたら、白い顔がズズズッと小さくなって、真っ黒な女のシルエットになったんです。全身真っ黒の影みたいな女の人が、部屋の前の廊下に立ってる画像になって、そしたらその女がぷいっと右を向いて、たぶん歩いて画面の外側に消えました。


 もう気持ちが悪くて……ほんとに、うっかりドアを開けてしまわなくてよかったって思いました。


 その画像はすぐ、溜まってた他の画像データごと消しちゃったんです。怖くって、すごく。




 でもそれから、1週間おきくらいで来るようになったんです。それ。


 非常階段をカンカンって上ってきて、ピンポーンって。いつも夜中の2時くらいに。それが決まって、私がひとりでいるときなんですよね。


 私、もう怖くって旦那にも相談したんです。こういうことがあるから引っ越したいって。でも何バカなこと言ってるんだって言われちゃいました。信じてくれないんですよ。


 不思議なんですけど、あれ以来モニターに録画されなくなっちゃって……証拠がないんです。チャイムすら鳴ってないことになってるんです。あのときの録画消さなきゃよかったって、このときはすごく後悔しました。


 そのうち、なんか妊娠中のホルモンの関係らしいんですけど、無闇に悲しくなって泣いたりするようになっちゃったんです。旦那の転勤で引っ越して来たから近くに友達とかいないし、私、親ともあんまり折り合いよくないから……。旦那も相変わらず出張や飲み会が多くて、私、家にひとりでいることが多かったんです。


 毎日寂しくて、すごく暗かったんです。

 この頃かなぁ、お腹の子の性別がわかったんです。たぶん女の子だって言われて。


 私は男でも女でもよかったんですけど、この日は嬉しくなっちゃって。性別がわかったら、産まれた後の方針が立てられるじゃないですか。女の子だったらどんな名前にしようかなとか、フリフリのお洋服着せたいなぁ、なんて。


 それでその日、旦那はまた出張してたんですけど、電話で報告したんです。声が聞きたくって。


 そしたら旦那が「なんだ女か」って言ったんです。


 私、ほわほわしてた頭の中が、キーンって一瞬で冷えて……旦那はすぐに「女の子もかわいいよね」とかなんとか言ってましたけど、言っちゃったことってもう取り消せないじゃないですか。


 うわ、この人はこれが本心なんだ。こういうこと私に言っちゃえるんだ。私の娘はパパに望まれてない子なんだ……。


 もう悲しくなって電話切って、ご飯も食べれなくて泣いてたら、いつの間にか寝ちゃったんです。


 そのうちピンポーンって鳴って、目が覚めました。


 モニターを見たら、やっぱり真っ暗なんですよね。誰かいるんです。


 その時に私、初めてインターホンの通話ボタンを押して、「だれですか?」って聞いたんです。


 そしたらモニターに映った顔が、笑ったんですよ。白黒の影みたいな顔だけど、笑ったのはちゃんとわかりました。


 それがなんていうか、すごい優しい感じだったんです。あなたのこと全部わかってるよ、みたいな。


 でもその人は何にも言わないで、また右の方にすーっと行っちゃって……急いで玄関開けたんですけど、もう誰もいませんでした。




 それから3回くらい、同じことをしたっけなぁ……。


 インターホンが鳴って、私が「だれですか?」って出て、玄関開けるといないんです。3回目はインターホンに応答しないでいきなりドア開けたんですけど、やっぱり誰もいなくて。


 私、次はいつ来るのかなぁなんて、思うようになって。


 その頃、もう寒くなってきてたんですけど、玄関周りを軽く片付けてたら、シューズボックスの奥の方から箱がひとつ出てきたんです。


 で、それ開けたら、真っ赤なパンプスが入ってるんです。その時、あっ、独身のときにこんなの買ったなって、ばーって思い出したんですね。


 それで、なんていうかなぁ……あーっ、わかったぞ! って感じがしたんです。


 ちょうど旦那がいない日だったんで、ドキドキしながら夜を待って……午前2時ちょっと前に私、その赤いパンプスを手に持って外に出たんです。


 夜だし、もう結構寒かったけど、裸足で静かに非常階段を降りました。1階まで降りたらそこでパンプスを履いて、今度はカンカン足音を立てながら8階まで上ったんです。結構遠かったけど、ワクワクしてたから疲れなくって、なんか体も子供に戻ったみたいに軽くて、全然平気でした。


 で、階段を上り切ったらうちのドアがあるじゃないですか。私、インターホンを押したんです。ドアの向こうで微かにピンポーンって音がして。


 そしたら部屋の中に誰もいないはずなんですけど、スピーカーからピッて音がしたんです。それで、『だれですか?』って声が聞こえてきたんです。


 私、すっごく嬉しくなっちゃって。やっぱり! これが正解だったんだ! ってニコニコしながら右をクルッて向いて、エレベーターに乗って下に降りてきたんです。


 それで今、エントランスから先輩に電話してるんですけど。


 えっ、部屋に戻った方がいいですか? もう夜遅いから?


 でも……もうそういうの気にしなくていいんですよ。大丈夫になったんです。


 あっ、長々と電話しちゃってごめんなさい。嬉しかったから、つい。


 話聞いてくれて、ありがとうございました。


 それじゃ先輩、おやすみなさい。




 ライターの荒谷さんのところに、高校の後輩だった宮嶋さんがこんな電話をかけてきたのは、もう3ヵ月ほど前のことだそうだ。


 それ以来、宮嶋さんは行方が知れなくなっている。


 マンションのエントランスのゴミ箱に、彼女のスマートフォンと自宅の鍵が捨てられていたという。


「宮っち、母子手帳とか自分名義の通帳とか持ち出してるんだって。だから自分の意思で出てったみたいなんだけど……。とにかく無事ならそろそろ、赤ちゃんが産まれてる頃じゃないかと思うんだよね」


 その子供もどうなっているのか、まだわからない。




 荒谷さんが宮嶋さんのご家族から聞いた話によれば、宮嶋さんの部屋のインターホンには、自分自身の部屋のインターホンを鳴らす彼女の映像が、数ヵ月に渡っていくつも残されていたという。

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