第40話 約束
あたしが高校の技術室の電動糸ノコを使って、自分の左手の小指を切断したわけは、たぶん話しても誰も信じないに違いない。
あたしの友達の亜美は変なものを欲しがる子で、ある日突然こんなことを言うようになった。
「ひとみの左手の小指、きれーい。ちょうだい?」
って。
断ると「ちぇー」っと言ってその日はそれでおしまい。でも次の日に会うとまた「ひとみの左手の小指、ちょうだい?」と来る。無限ループだ。
そういえば中学のときにも、同じようなことがあった。あたしの部屋に遊びに来たとき、箪笥の上で埃をかぶっていた人形が、何かの弾みで落ちてきた。それを見た亜美が「これかわいい! ちょうだい?」と言ったのだ。
念のため言っておくけど、亜美は他人のものを何でも欲しがるような子じゃないし、そうだったらあたしはとっくに友達をやめていただろう。おまけにその人形は、あたしが小さいときに誰かにもらった、古くて安っぽい布の人形で、どうしてこんなものが欲しいんだろうと不思議に思うようなものだった。
「ほんとにこんなものがほしいの?」
「欲しい! 絶対大事にするから!」
眼をキラキラさせてそう言うものだから、あたしはあげた。
その後亜美はその人形を持ち帰って、きれいに洗い、自分の部屋の枕元に飾った。うわ、マジで大事にしてるって、あたしはちょっと引いてしまった。
あの時と同じだな、と思った。もしもあたしが左手の小指をあげたら、亜美はそれもきっと大事に保管するだろう。亜美は嘘の吐けない子だ。
だからといって、左手の小指なんか、そうそうあげるわけにはいかない。
でも毎日のように「ちょうだい?」と言われ続けて、あたしはなんだか気持ちがグラグラしてきた。このままでは本当にあげてしまいそう……そんな気がしてきた。でもマズい。ボロの人形と違って、左手の小指は現役で使っているものだ。あげるときに痛いだろうし。
で、あたしはためしにこう言ってみた。
「じゃあ、亜美の左手首くれる? そしたら交換したげる」
左手の小指と左の手首では、全然等価交換じゃないし、もちろん本当に欲しかったわけでもない。ただ、亜美が諦めてくれたらよかったんだ。
「ええー? 手首から先ぜんぶ?」
「そう、全部」
「えー、困るなぁ」
亜美はブツブツ言いながら去っていった。そして翌日からはもう、「ちょーだい」を聞くことはなかった。
亜美が死んだから。
技術室の電動糸ノコで左手首を切断して、出血が多すぎて死んだのだ。うっかり者のあの子のことだから、きっと何の準備もせずに切ったのだろう。そりゃ死ぬわ。
皆は、亜美が自殺したと思ったみたいだけど、あたしはそれが違うことを知っている。あの子は自殺しようとしたんじゃなくて、ただあたしに、ほんとに左手首をくれようとしただけなんだ。
そして死んだ。
あたしはそれから何だか毎日ボンヤリして、ボンヤリしたまま亜美のお葬式に行って、ボンヤリしたままお焼香をして、家に帰ってきた。
ボンヤリのまま何日か過ぎた。あたしは毎日、家で中学校の卒業アルバムをめくって、亜美とあたしが写っている写真を探した。寄せ書きには「高校でも仲良くしてね。ずっと友達でいようね」と書いてあった。
ずっと友達。普通、こんなにまごころのこもっていない言葉はない。卒業式のときに「ずっと友達でいようね!」と言っていた子のほとんどは、違う高校に通い始めるとどんどん連絡をしなくなって、今ではどうしているのかもわからないし、あたしもあえて知ろうとは思わない。でも亜美はああいう子だから、きっとあたしとはずっと友達でいるつもりだったんだろう。
嘘の吐けない子だから。
ボンヤリ寄せ書きを見ていると、あたしのスマホが鳴った。電話だ。珍しい。画面を見て、あたしはスマホを落としそうになった。亜美の名前が表示されている。いや、もしかしたら亜美の家族とかかも。あの子のスマホから、何か用事があって電話をしているのかもしれない。
誰であれ、出るしかない。
あたしは「応答」をタップして、耳に当てた。
『……もしもし? ひとみ?』
泣き出しそうな声だった。
「亜美?」
『うん……』
幽霊かな、と思った。それでもよかった。亜美ならあたしに、恨み言をいう権利がある。あんたのせいで死んだんだって言われても仕方がない。
でも違った。電話の向こうで亜美はぐすっと鼻をすすった。
『ごめん、ひとみ……あたしの左手首、燃やされちゃった……』
全身から力が抜けた。そういえば、亜美って子はこういう子だった。
「火葬されちゃったってこと?」
『うん……』
「バカ。急いで切るからだよ」
『うん……ごめん……』
本当にバカだ。あたしは亜美の左手首なんか、ちっとも欲しくなかったのに。亜美だったらあたしの小指も大事にするだろうって、わかってたのに。
あたしはバカだ。
「いいよ。亜美、すごくがんばったから」
あたしは青空みたいに穏やかな気持ちになって言った。「あたしの左手の小指、あげる」
『ほんと?』
電話の向こうの声が、突然明るくなった。
『ひとみ、ありがとう! 大事にするね!』
そう言って電話は切れた。あたしは時計を見た。まだ高校の下校時刻には間に合いそうだ。あたしは急いで支度をして、家を出た。
輪ゴムをぐるぐる巻いて小指を切ったけど、思った以上に血が出て、あたしは技術室で失神してしまった。目が覚めたら病院にいて、親とお医者さんと学校の先生に嫌というほど叱られた。
こんなことをした理由も聞かれたけれど、あたしは答えなかった。きっと誰も信じてくれないだろうと思って。
あたしが左手の小指を切った理由も、その辺に転がってるはずの小指が、どうしても見つからないわけも、だから誰にも教えていない。
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