第46話 花園

 ごめんなさい、急に気分が悪くなっちゃって……もう大丈夫です。ほんと、もう全然。


 顔色、そんなに悪いですか? すみません、先輩に気を遣ってもらっちゃって。いえ、平気です。今日中に会社に戻らないと、まずい仕事があるんです。それにさっきのは体調が悪かったわけじゃなくて、ちょっと……トラウマがあるんです。


 あの、さっき花屋さんの前を通ったじゃないですか。私、ああいうのが駄目なんです。花屋っていうか、きれいな花がいっぱい、ぶわーって活けてあって、植物の匂いが満ちてるようなとこが駄目なんです。


 え、気になりますか? そうですか……そんな面白い話じゃないんですけど、でも、先輩にだったら聞いてもらおうかな。いえ、ぜひ聞いてください。


 私もトラウマから抜け出したいんです。抱え込んでたら駄目な気がしますから。




 実は私の従兄に、俳優やってる人がいるんです。


 うーん、知ってる人は知ってる、みたいな……たまにドラマとか出るみたいですけど、舞台がほとんどかな。そういう仕事だから、たとえば公演があると花束をいっぱいもらうんですね。ファンの人とかから。


 あれはええと……私が大学二年生の時でした。うちの大学って、夏休みに1ヵ月くらいの短期留学ができるプログラムがあって、私、それに参加してたんです。だからその時はオーストラリアにいたんですけど、従兄から電話があったんです。わざわざ国際電話かけてきて。


 それで、『昨日俺に花束送った?』なんて言うんです。


 従兄は前日から舞台の本番だったらしいんですけど、受付に届けられた花束の中に、私の名前で贈られたものがあったっていうんです。従兄は私がその時海外にいるって知ってたので、おかしいと思って連絡してきたんですね。


「全然心当たりないよ。大体今南半球にいるのに、わざわざ花束なんか贈らないよ~」


 なんて返事して、従兄も『そうだよなぁ。じゃあカンガルージャーキー買ってきてよ』なんて言ったりして。


 だけど急に真面目になって、


『でも気をつけろよ。俺、お前の名前なんかどこにも出したことないのに、お前の名前で花束来るなんて変だろ。こんなこと言いたくないけど、ファンの中にも怖い人いるから』


 みたいなこと言うんです。


 確かに怖いけど、気を付けろと言われても……だって、南半球ですもんね。日本なんて遠いじゃないですか。


 だからその時は「うん、わかった」って言って、その話は終わったんです。


 それから2週間くらい経って、留学の期間が終わったので帰国しました。


 成田空港から大きいスーツケース引っ張って、成田エクスプレスに乗って、電車乗り換えて、最寄り駅に着いたらもうヘトヘトでした。おまけに暑くて……確か、8月の初旬になっていたと思います。


 汗だくになりながら、でもひさしぶりに日本に帰ってきたのが嬉しくて、家に荷物置いたらコンビニのおむすび買いに行こう、なんて考えたりして、ようやく自分のアパートに戻ってきました。


 鍵を取り出して、差して、回して……でも回らないんです。あれ? と思って逆方向に回したら、カチャッと音がしました。


 鍵が閉まったんです。つまり、私が鍵を差し込んだ時は、開いてたってことなんです。


 途端に変な汗がぶわーって出ました……。でもまさか、鍵を開けっ放しで出掛けたりはしてないはずなんです。


 だって1ヵ月も留守にするんだから、普段より慎重に戸締まりを確認した覚えがあるんです。一人暮らしなので、留守の間は誰もこの鍵を開けたりしてないはずだし……。


 とにかく部屋の中を確認しないとと思って、もう一度鍵を回してドアを開けました。


 そしたらすごい、青臭いにおいがむわっと漂ってきたんです。まるで、植物をたくさん育ててる温室に入ったみたいな感じがして……。


 もちろん、中に植物なんてないはずなんですよ。私、植物とかすぐ枯らしてしまう方なので、元々置かないんです。それに夏の間1ヵ月もいなかったんだから、あったとしても普通枯れてますよね。


 でもすごい緑のにおいが、湿っぽい空気と一緒に部屋の中から出てきたんです。それと、緑のにおいとは別に物凄い異臭がして。もう涙が出るくらいの。


 目を疑いました。


 部屋の中が、花でいっぱいなんです。


 床中にプランターが並べられてて、ギリギリ通れるかくらいの隙間が、獣道みたいに部屋の奥に続いてて……もう赤とかピンクとかオレンジとか、色んな花が狂い咲きに咲いてるんです。天井からも鉢が吊られて、何だかわからないけど、真っ白な花が溢れるように垂れてたのをなぜか今でもはっきり覚えてます。


 私もう声も出なくて、呆然と立ち竦んでたら、部屋の奥で物音がして、ガリガリに痩せた女の人がふらふらしながら出てきたんです。


 全然知らない人でした。


 そのときやっと体が動いて、私は悲鳴を上げながら、夢中で近くの交番まで走ったんです。




 警察の人が来て、その女の人を捕まえてくれて、その人が従兄に花を贈った張本人だってことがわかりました。


 私のことはどうも、従兄の家に届いた手紙を抜いて知ったみたいでした。とにかく従兄と親しい女の家から花を贈りたかったんですって。全然理解できないんですけど……。


 でも最悪だったのが、その花……自分の排泄物を与えて育ててたって聞いて。私、吐きそうになりました。


 それでもう気持ち悪くなっちゃって、その後一歩も自分の部屋に入れなくなっちゃったんです。結局そのまま引っ越ししました。


 それから駄目なんです。お花屋さんは。今日みたいな暑い日は特に。

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