第45話 夏の思い出

 少年時代の夏の思い出といえば、父の故郷を思い出す。


 父方の伯父の家は、いわば「本家」にあたり、盆や正月には必ず顔を出したものだが、特に夏休みには一週間近くお世話になるのが常だった。


 本家は大きな一軒家で、祖父母と伯父一家が暮らしていた。伯父夫婦が結婚した際に家を建て直したため、当時はまだ新しくて明るい、近代的な住宅だった。


 僕の幼い頃は団地住まいだったため、広い一戸建ての本家は目新しく、伯父の家に行くのは夏休みの楽しみのひとつだったと思う。




 伯父の家には客間があり、ごく小さな頃は、そこで両親と姉と、4人で布団を敷いて寝ていた。


 ところが大きくなるにつれ、家族ではなく、年の近い従兄妹たちとその客間で寝るようになった。寝るというより、夜更かしをするために集まっていたという方が正しいだろう。


 さらに大きくなると、さすがに男女一緒に寝るのはどうだろう、という話になった。客間の隣には、襖を1枚隔てて床の間のある広い和室があり、そこで姉と従妹が寝ることになった。


 例によって客間で散々遊んだ後、姉と従妹が隣の部屋に引き上げ、寝床を整えて消灯した。やけに部屋が静かに思われて、なかなか寝付くことができなかった。


 それでもいつしかうとうとして、何か不安な夢を見たあと目が覚めた。


 まだ部屋の中は真っ暗で、天井の豆電球がオレンジ色に光っている。妙に頭が冴えて眠れない中、従兄の寝息がすぐ隣から聞こえていた。


 ふと、隣の部屋が明るくなった。欄間越しに光が漏れてくる。誰かトイレにでも行くのかと思っていると、そろそろと襖が開いて、姉と従妹が顔を出した。


「洋介、起きてる?」


 姉の声に「何だよ」と返すと、2人はこちらの部屋に入ってきて、襖を閉めた。開いたところから差し込んでいた光が途切れて、再び部屋が暗くなる。


 その頼りない照明の中で、2人が泣き出しそうな顔をしているのが見えた。


「ねぇ、声がしなかった?」


「声? なんの?」


「女の人の声。寝てたら声がして、2人とも目が覚めたの。目が覚めてもずっと声がしてて」


「聞こえないよ。どんな声?」


「なんか……うめき声みたいな感じ」


「怖い声がするの」


 涙声で、従妹が口を挟んだ。


「洋ちゃん、聞こえなかった? すぐ隣でしょ?」


「いや、全然聞こえなかったけど」


 小声で話していたのだが、さすがに隣で寝ていた従兄も、「何やってんの?」と身体を起こした。


「うるさいなぁ。何?」


「あのね、こっちの部屋で声が」


 そう言いながら姉が、和室の襖の方を振り返る。それにつられてそちらを向いた従妹が、引きつったような声をあげた。


「どうしたの?」


「上! 上!」


 その声に、全員が天井付近を見上げた。


 欄間の隙間に、こちらを見ている真っ白な顔があった。


 暗がりの中、その顔だけがくっきりと浮き上がるように見えた。


 皆が叫び声をあげた。恐怖のあまり、ばっとその場に顔を伏せると、頭の上がぱっと明るくなる気配がした。どたどたと、大人たちがやってくる足音がする。


 再び顔を上げたときには、襖は開け放たれ、もう欄間の向こうに顔はなかった。




 その年、家に帰る車の中で、父が言った。

「伯父さんの家の裏に池があるだろ。代々長男はあそこの管理をするんだが、今年は雨が少なくってなぁ……本家は昔っから、不思議なことがあったんだ」


 結局詳しいことは教えてもらえなかったが、ハンドルを握る父が、家が新しくなってもあるんだなぁと、感慨深げな様子だったことを思い出す。


 来年以降も、就職のために上京するまで毎年、伯父の家に泊まったが、あの夜のようなことはついになかった。


 ただあれ以降、誰かが和室で寝ることはない。

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