第19話 隙間

 夜、私の一人暮らしのアパートに、突然友達の美結がやってきた。聞けば、家出してきたという。


 今更どうして家出なんか、と私はただただ驚いた。大学の入学式で出会ってから2年と少し、夜に彼女に会うのはこれが初めてのことだった。


 というのも美結は五限の授業が終わると、「家のことやらなきゃ」と言って、あわただしく帰っていくのが常だった。なんと、六限、七限のある授業はとったことがないそうだ。よくそれで必要な単位がとれるものだと、このときも私は驚かされた。


 美結の両親は離婚しており、彼女は3つ上の兄と共に、母親に引き取られたという。その母親が過干渉と教育ママを併発してこじらせたような人で、兄は彼女の選んだ一流大学に三浪して、今は引きこもりになっているそうだ。


 美結自身は何とか母親の設けた水準以上の大学に合格したものの、学費の援助はなく、おまけに家では家事のほとんどを担わされている。ちなみに当然のごとく一人暮らしは許されず、片道2時間近くかけて実家から通学している。


 私のような、ごく平凡な家庭でぬくぬくと育ってきた甘えん坊には、にわかに信じがたい家庭環境だったが、美結の幼馴染の遥によれば、決して彼女が嘘をついているわけでも、おおげさに言っているわけでもないらしい。


「私もあれはやばいと思うんだけど、美結自身がいいよいいよって、全部やっちゃうんだよね。昔っから全然反抗とかしないの」


 遥の言葉を裏付けるように、美結はいつも人の好さそうな、でも幸薄そうな笑顔を浮かべている。授業のグループワークで面倒を押し付けられたりしても、嫌な顔ひとつしているのを見たことがない。


 そんな子だから、美結が家出してきたということは、私をとてもびっくりさせたのだ。


「ごめんね。迷惑かけて。やっぱりいいから……」


 そう言って早々に立ち去ろうとするのをなだめて、私は実家から送られてきたとっておきの緑茶を美結に振舞った。一人暮らしの学生には珍しいのかもしれないが、私の部屋の小さなキッチンには急須と揃いの湯呑がある。私の母の故郷はお茶処で、祖母も母も日本茶にはうるさい。


「うちの親はさー、茶葉をふりかけみたいにして食べてたよ! 私はあんまり好きじゃないからやらなかったけど、こっちに出てきてからその話したら、皆に驚かれちゃってさー」


 私はわざと明るい声を出して、どうでもいい話を延々とした。そうしていないと、美結がふらっと家を出て行って、そのまま二度と会えないところへ行ってしまうような気がしたからだ。そんなことになったら、私は一生後悔するだろうと思った。


 美結は相変わらず微笑みながら、私の話に短い相槌を打っていた。楽しんでくれているのかどうかはよくわからないが、少なくとも家出を決行するほどの何かが起こった時より悪い気分ではないだろう。


 そしてそうやっていればいるほど、私は彼女に「どうして家出したの?」などと尋ねることができなくなっていった。どうでもいい話を続けるうちに夜が更け、とうとう日付が変わってしまった。


「そろそろ寝ようか」


 どちらからともなくそういう話になり、代わりばんこにお風呂に入った私たちは、ひとつの部屋で眠ることにした。


 その時になって、美結の目は妙にキラキラと輝きだした。


「私、友達の部屋にお泊りしたの初めて」


「そうなんだ」


「うん。ほんとに生まれて初めて。なんかワクワクする。眠れないかも」


「そう? じゃ、一緒に夜更かししちゃう?」


「いいよ。かなみは明日一限からでしょ? 起きられないよ」


 よりによって明日(厳密にはもう今日のことだけど)の一限の授業は、単位をもらうのが難しい上、絶対に落とせない授業だった。私は彼女の言葉に甘えて、大人しく眠ることにした。


 私はベッドに、美結は座椅子を平らにして、その上に来客用の寝袋を置いて寝ることになった。彼女が立ち上がって明かりを消し、常夜灯だけが部屋の中を照らしている。窓の外から車の走る音が小さく聞こえた。


「夜になると、誰かが私の部屋を覗くのね」


 寝袋に潜り込んだ美結が、突然そう呟いた。


「誰かが?」


「うん。私の部屋、ドアが引き戸なんだけどね。時々夜中にふっと目が覚めることがあって、そんなときにドアの方を見ると、ドアが細く開いてて目が4つ覗いてるの。それがどうしても我慢できなくなっちゃって家出してきたの」


 突然の告白だった。私は彼女の言う目の並んだ光景を思い浮かべて、その気味の悪さに身震いをした。


「4つって……美結のお母さんとお兄さん?」


「ううん。ママと、死んだおばあちゃんだと思う。うち、おばあちゃんも大概だったからね」


 彼女の口調は平坦なものだったが、私には受け入れにくかった。


「それってさぁ、そのー、幽霊ってこと?」


「わかんない。ああいうのが幽霊って言うのかな。でも普通の人間じゃないよ」


 横を向くと、仰向けになって天井を見上げた美結が、大きな目をぱちぱちさせているのが見えた。


「その目、縦に4つ並んでるんだもん。人間の目って、大抵2つが横に並んで1セットでしょ」


 背中を冷たいもので撫で上げられたような気持ちになった。


「……変なこと言ってごめん。寝よっか」


 美結はそう言って、寝袋の中で寝がえりを打った。私の寝ている場所からは、彼女の後姿しか見られなくなった。


「ありがとね、かなみ」


 泡がはじけるように小さく呟いた声が、私の耳に残った。




 私がふと目を覚ますと、まだ部屋の中は真っ暗だった。


 常夜灯の下、美結が上半身を起こして向こうを見ていた。彼女は振り返りもせずに「ごめん、起こしちゃった?」と言った。


「ううん、なんか目が覚めて……」


「この部屋にも来たみたい」


 やけにその声が部屋に響いた。美結は壁際に置かれた本棚とカラーボックスの間を見つめていた。本当にわずかな、埃と暗がりの他には何もないはずの場所だった。


 その隙間に小さく光るものが4つ、縦に並んでいるのが見えた。


 明らかに人間の目だった。常夜灯の明かりを反射してか、わずかにぬらぬらとした光を放っていた。


 私は少しの間、釘付けになったようにそれを眺めていた。


「くそばばぁ……さっさと死ねばいいのに……」


 誰かが呟いた。美結の声だった。聞いたことのない声色だった。


 私は布団をひっかぶると、頭まで中に隠れたまま、朝までじっとしていた。


 何も見たくなかったし、聞きたくもなかった。


 いつの間にか眠っていたらしく、次に目を開けたときにはすっかり夜が明けていた。


 美結は寝袋をたたんでいるところだった。私を見ると、「変なとこ見せてごめんね」とでも言うように、照れくさそうに笑った。




 美結の願いは、それから1年ほど経って実現した。


 彼女の母親が突然亡くなった。元々患っていた糖尿病のために失明し、それを苦にしての自殺だという。


 美結の兄は人が変わったように行動的になり、他県に出て就職したらしい。


「お兄ちゃん、案外元気にしてるみたい」


 そう言って笑う美結の顔からは、幸薄そうな感じがどんどんなくなっている。だんだん溌溂と、明るく、きれいになっていく。


 母親が自殺した現場である実家に、彼女は未だに住んでいる。


 明るい声で言うには、もう何も気にならないから、らしい。

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