第18話 夜の音

 僕が8年前に住んでいたアパート周辺は、夜になるとたまに得体の知れない音がするところだった。


 それは何というか、中身の詰まったドラム缶を転がすような、金属っぽい響きを持ったゴロゴロという音だった。




 その夜のことは不思議とよく覚えている。それは二月で、よく晴れた暖かい日だった。夜になるにつれて風が強くなり、ビュウビュウガタガタという音を聞きながら、僕は仕事をしていた。


 ようやく一区切りついてほっとしていると、風の音に混じってあのゴロゴロという音が聞こえてきていた。時計を見ると、もう深夜の2時になっている。


 その時、バタンバタンと部屋の窓が叩かれた。


 僕はぎょっとして、思わず立ち上がった。窓の外は狭いベランダだが、部屋は2階にある。足場があるからといって、おいそれと人間の侵入を許すような高さではあるまい。


 しかし、僕はすぐにその音の正体を思い出した。今日の昼間、履いていたジーパンにラーメンのスープをこぼしてしまったので、洗って干しておいたのだ。他の洗濯物を取り込む際もまだ乾いていなかったので、物干し竿に吊るしっぱなしにして、そのまま忘れていたのだった。どうやらそいつが、風に吹かれて揺れているらしい。


 また窓がバタンバタンと叩かれた。あんなに重いジーパンが動くなんて、まったくひどい風だ。


 とにかく、ジーパンを取り込まないことにはうるさくて眠れない。僕はカーテンを開けた。


 ゴロゴロという音が、少し近くなった気がした。僕は何の気なしに、目の前の道路を見下ろした。


 簑のようなものを着た一団が、道路を練り歩いていた。


 先のとんがった、異様に頭が長く見える奇妙なものを頭からすっぽりかぶり、古い街灯に照らされながら、それらは南へゆっくりと進んでいく。どうもゴロゴロという音は、その集団から響いてくるようだった。


 異様な光景に見入っていると、その中の一人がこちらを向いた。


 簑のために影になった顔はやけに細長く、乱杭歯の並んだ大きな口が、夜目にもなぜかくっきりと見えた。


 その醜い上下の歯を擦り合わせたとき、僕の頭の中でゴロゴロという音がした。


 僕は急いでカーテンを閉めた。ベランダに出る勇気はなかった。


 慌ててベッドに潜り込むと、風の音と、窓ガラスをジーパンが叩く音とを聞きながら、朝まで小さくなっていた。




 ところでそのアパートでは、未だに家賃を大家に手渡ししていた。毎月、近くの一軒家に住む大家のおばさんに会う機会があるのだ。


 支払いの際、僕は彼女に「夜中に聞こえるゴロゴロって音は、一体何の音でしょうね?」と尋ねてみた。


「あんた、あれが聞こえるんかい。あたしは聞こえないけどねぇ、あたしの母さんは聞こえたっていうけど、今はもう」


 初老の大家は、それだけ言って、ピシャリと玄関を閉めた。と思うとまた扉を開けて、


「聞こえるなら、あんまりこの辺に住んでない方がいいかもねぇ」


 言うだけ言うと、またピシャリと閉めてしまった。


 まもなく僕はそのアパートを引き払い、別の街へと引っ越すことになった。ゴロゴロ音のせいではなく、親戚が持っていた空き家の管理を頼まれたからだった。


 時々、まだあの辺りでは、例の音が聞こえているのだろうかと考えることがある。


 その度、なぜかとても懐かしい気持ちになって、またあの街に戻りたくなる。

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