第22話 それに関わるな

 僕がまだ大学生だったある冬の日、確か金曜日の午後のことだったと思う。


 その日、文学部棟2階の男子トイレの個室で用を足しつつぼーっとしていたら、突然右隣の個室の奴が騒ぎ始めた。


「わぁー! わぁー! わぁー!」


 という具合に、ひたすら意味のなさそうな叫び声をあげている。


 排泄中にどんな悲劇が起こったか知らないが、何にせよ気分のいいものではない。関わり合わないようにしようと、さっさと身支度を済ませて個室を出ると、右隣の個室の扉には「故障中」と書かれた紙が貼られていた。


 気がつけば、ついさっきまであんなにうるさかった声もやんで、トイレの中はしんと静まり返っている。窓からは午後の柔かな日差しが差し込んでいて、細かな埃がキラキラと舞っていた。叫び声どころか人っ子ひとりいない。


 僕は手を洗うのも忘れて、足早にトイレを立ち去った。なぜかそのとき、「自分がここにいたことを誰かに知られる」ということが、物凄く恐ろしいことのように思えたのだ。心臓がバクバク鳴って、こめかみにドクンドクンと血液が流れるのを感じた。悪戯がばれそうな時に似た、落ち着かない気分だった。


 廊下に出ると、ちょうど授業が終わったところらしく、近くの大教室からどっと人が溢れ出てきた。途端に世界が元通りになったような気がした。


 僕はほっと一息つくと、わざと人混みに入っていくようにして廊下を歩いた。




 週末が終わり、いつも通りに登校してみると、何だか大学中がざわついている。文学部棟の入り口が閉鎖され、授業の場所が一部変更になったり、休講になったりした旨の知らせが、何枚も貼られていた。


「おーい! クマちゃん!」


 特徴のあるキンキン声をあげて、サークル仲間の疋田が走ってきた。


「おいおい、知ってっか? 自殺だってよ!」


「うそ。文学部棟で?」


「そうそう。2階の故障中のトイレでよ、鞄かけるとこにベルト引っかけて首吊りだって!」


 疋田は興奮覚めやらぬといった表情で、鼻息を荒くしていた。僕も突然訪れた非日常の事件に驚いたが、それと同時に、先週トイレで聞いた叫び声のことを思い出していた。あの声が聞こえた個室は、まさに自殺のあった場所だったはずだ。僕はこのふたつの事柄に、どうしても関連性を感じずにはいられなかった。


「おーいクマちゃん! 何ぼーっとしてんだよ」


 疋田が僕の頬をぺちぺち叩いたので、例の叫び声のことを考えていた僕は、はっと我に返った。


「あ、いや……ていうか疋田、何でそんなに詳しいんだよ?」


「俺の従兄が教務課に勤めてるからさ。トイレ修理の業者と一緒に行ったら、鍵がかかっててドアにブラーンだとさ。第一発見者っつうやつだな。青い顔してトイレの前でしゃがんでるとこに、俺がたまたま通りかかったってわけ」


「へぇー。とんでもねーな」


 その日一日、学生たちは寄ると触ると首吊りの話で持ちきりだった。何しろ身近に自殺なんてものは、そうそう起こるものではない。僕を含めた多くの学生たちにとっては、多分にショッキングな出来事だったのだ。


 疋田はあちこちでこの事件の話をしては、得意そうな顔をしていたが、そのうち誰かに叱られたのか、すっぱりとこの話をしなくなった。




 そのうち文学部棟での授業が再開され、嫌でも僕たちは事件のあった建物に出入りしなければならなくなった。


 そうやって日常が戻ってくるにつれ、自殺の件は皆の口にのぼらなくなった。2階の男子トイレも封鎖が解かれたが、あの個室だけはいつまでも「故障中」の貼り紙がされていた。


 季節が巡って、僕は無事に進級した。取るべき授業の単位数は減ったが、図書館に籠る時間は増えた。


 春が終わり、夏の日差しがキャンパスを強く照らし始めた。


 ある日、僕が購買でカップ麺を物色していると、やはりサークル仲間である保住に話しかけられた。


「久間、最近疋田に会った?」


 そう言われて、改めて僕は久しく彼に会っていないことを意識した。疋田は僕の知らないうちにサークルを辞めたらしく、もう春頃から顔を見ていなかった。忙しさに紛れて連絡もとっていない。そもそもサークルを介さなければ、ほとんど会うこともなかった男だった。


「いや、全然。そういえばあいつ、最近見ないなぁ」


「いやー、俺もよく知らないんだけど、なんか疋田、金に困ってるらしいよ」


「そうなの? あいつ、実家が金持ちとか言ってなかったっけ?」


「俺もそう聞いてたんだけど……でもこないだ電話がかかってきてさ、金貸してくれって言うんだよ。いくらでもいいからって。断ったんだけど、サークルでその話したら、他にもそういう連絡あった奴が何人かいてさ……」


「マジか。どうしたんだ一体」


 保住は唇をひん曲げ、腕を組んで難しい顔をしていた。


「さぁ……勘当されたとか言う噂も聞いたけど、俺もよくわかんね。実際いくらか貸してやった奴もいるらしいんだけど、すぐ返す返すっつって全然返ってこねーとさ。だから疋田に借金頼まれても、貸さない方がいいなって話になって。まぁ俺、そもそも友人間で金の貸し借りとかしたくないけど」


「へぇ……」


 僕は疋田の、例のキンキン声を思い出していた。ファストファッションを利用する奴の気が知れないなどと豪語していたあいつが「クマちゃん! 金貸してよ!」なんて言うだろうか? そんな想像がつかないようなつくような、何とも言えない妙な感じがした。


「どうしちゃったんだろうな。ほんと」


「な。気になるよな」


 保住と別れた後、僕は疋田と連絡をとろうかどうか、ひとしきり迷った。だけど、もし「金貸してよ!」と言われたら嫌だな、と思うとどうにも気が進まなかった。


 気温がぐいぐい上がり、いよいよ夏休みがやってきた。授業は休みになったが、僕は度々、大学の図書館やサークル棟を訪れ、何かと忙しい日々を過ごした。


 相変わらず、疋田の姿は見なかった。




 夏休みのある日、僕はゼミの教授に雑用を頼まれて、文学部棟を訪れた。


 あいにく、その日は腹具合が悪かった。用を済ませると、僕はすぐさま近場のトイレに駆け込んだ。


 一段落つくと、僕は便器に座ったままほっとため息を吐いた。冷房などはついていないはずだが、トイレの中は涼しかった。けたたましいセミの声を除けば、人気の少ない校舎は静かだった。


「あー、間に合ったぁー」


 何の気なしに独り言を漏らした時、突然個室の壁がドンと鳴った。右隣との境目だ。


 僕はその時突然、駆け込んだこの場所が、例の2階の男子トイレだということを思い出した。


 壁はドンドンと音をたてて揺れた。それと一緒に、聞き覚えのあるキンキン声が聞こえてきた。


「あぁー! わぁー! あー! 嫌だぁー! 嫌だぁー!」


 それは疋田の声だった。


 金縛りにあったみたいに体が硬直して、僕はその場から動けずにいた。壁一枚隔てた向こうで、疋田の声が、ほとんど悲鳴みたいな声が暴れていた。


 僕の頭に突然、首を吊った疋田の姿が閃いた。


「うぐっ」


 酸っぱいものが食道を駆け上がってきた。口を押さえた拍子に体が動き、僕は個室の外に転げ出た。


 もう疋田の声も、ドンドンという音もしなくなっていた。ただセミの鳴き声だけが辺りに満ちていた。


 右隣の個室には相変わらず「故障中」の貼り紙があった。人の気配はなかった。


 僕はズボンを引き上げながら、転がるようにその場から逃げ出した。誰もいないはずの個室から音が聞こえたことへの恐怖よりも、疋田の身を案じることよりも、何よりも「関わりたくない」という思いが強かった。「何か」と結び付いてしまうことが、とてつもない不幸を呼び込むような予感に駆られて、僕は文学部棟を逃げ出した。




 夏休み明けに文学部棟に行くと、2階の男子トイレがまた封鎖されていた。


「疋田、死んだんだよ」


 保住がそう教えてくれた。サークルの代表者である彼は、疋田の両親から知らせを受けて、葬儀にも参加したという。


「何でかあの、前に首吊りがあったトイレの個室で、おんなじ風に首吊ってたんだと」


 僕の頭の中で、嫌だ嫌だと叫ぶ疋田の声が再生された。


「疋田、ほんとに自殺かなぁ」


「警察が自殺って言うなら、自殺じゃないか? 久間、何言ってんだ?」


 僕は黙って首を横に振った。自殺だとしたら、疋田はどうしてあそこを死に場所に選んだのだろう。自ら望んで死んだはずなのに、何をあんなに嫌がっていたのだろう。


 正解はわからない。その答えを、直接彼に聞くことはできない。僕はその疑問を封じ込め、なるべく疋田のことを思い出さないようにすると決めた。


 例の男子トイレは、いつまで経っても封鎖されたままだった。大学もこの場所をどうしたものか、判断をしかねているという感じだった。そのうち、僕は無事に大学を卒業した。


 今はもう、母校に足を運ぶ機会はない。だから文学部棟に行く理由はないし、例のトイレを使うこともない。


 おそらく、死ぬまでないだろう。

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