第16話 芽生え
姉の双葉が結婚した時、僕は喜ぶと同時に、なぜか一抹の不安を抱いたものだった。
普段から単に「姉」で通してはいるが、実は彼女は異母姉で、僕とはあまり似ていない。
姉は目と眉の間が離れ気味で、少し尖り気味のおちょぼ口をしている。顔が小さくて色白で、見るからに神経質そうで、どこか小鳥に似ている。そんな彼女は、彼女の実の母親によく似ているのだそうだ。
姉の実の母は、姉が4歳の時に亡くなった。その死について、僕はあまり多くを聞かされていない。昔父方の祖母が、「双葉ちゃんのお母さんは、神経衰弱だったのよ」と言っていた。それ以外の情報は与えられなかった。たぶん、あまり子供に教えてやりたいような亡くなり方ではなかったのだろうと思う。
姉が8歳の時、父が再婚して新しい母親ができた。姉曰く「明るすぎて見ていられない、お日様みたいな人」だ。その女性が僕の母でもあるわけだが、確かに彼女は元気で健康的で、たまに友達と野球観戦に行ったり、近所の児童館でボランティアをしたり、僕の彼女といつのまにか連絡先を交換したりしている。姉は母のことは好きだそうだけど、同時にタイプが違いすぎて、近寄りがたくも感じているようだった。
姉は年の離れた弟である僕を、よく可愛がってくれた。その可愛がり方は若干方向音痴で、たとえば僕が、家から離れた高校に通うために一人暮らしを始めたときは、「寂しいと思うから」と言って大きなテディベアをくれた。正直邪魔でしかないとは思ったものの、あの小鳥みたいなキョトンとした顔に出くわすと、僕は「ありがとう」としか言えなくなってしまうのだった。
僕が知る限り、姉には27歳になるまで、恋人と呼ぶような人がいなかった。他人とそういう関係になるには、姉は少し臆病すぎるのではないかと僕は思った。
「私、一生結婚できなくたっていいわ。ナオちゃんがお嫁さんをもらって、甥っ子か姪っ子ができたら、その子を目一杯可愛がるの」
僕が実家に帰るたびに、姉はそんなことを言って、こちらを例の小鳥みたいな顔で見つめるのだった。
姉は女子大の文学部を卒業した後、主に児童書を作る出版社に就職し、編集者になった。
本の好きな姉には向いている仕事ではないかと思ったが、どうも僕が思っていた以上に苦労が多かったらしく、入社3年目の春にふいっと退職してしまった。それからは家に籠って、趣味で作っているレース編みの小物をネットで細々と販売しながら、使うあてのない資格試験の勉強に精を出していた。
僕はその頃、自分の青春を謳歌するのに忙しく、姉の将来の心配は姉自身がすればいいと思っていた。会社を辞めた姉は、将来の見通しはともかく、仕事のストレスからは解放されたようで、母は「前より顔色がよくなって、楽しそうにしてるわよ」とのんびり話していた。
そんな姉にお見合いの話が来た。彼女が27歳になったばかりの、初夏のことだった。
相手は8歳上の、ある商社に勤める真面目そうな人だった。どういうはずみか、この人と姉とは物凄く馬が合ったらしく、ふたりの付き合いはすんなりと始まって、滞りなく続いていった。
「ナオちゃん、私結婚することになったの。でもナオちゃんの子供のことは、まだ楽しみにしてるからね」
初めて姉の口から婚約のことを聞いたとき、僕はちょっぴり神様のことを考えたものだ。この気難しい人とうまくやっていけそうな男性が、うまい具合に「お見合い」という形で現れてくれたということに、偶然を超えた運命の赤い糸とでもいうようなものを感じずにはいられなかった。
こうして姉は結婚した。親族とごく親しい友人だけを招いた、こじんまりとした結婚式を挙げた。
姉は真っ白なウエディングドレスを着、僕にタキシードを着てほしいと言ってごねた。新郎でもないのに勘弁してくれと言って、僕は高校の制服を着ることに決まった。
式はごくごく普通に、とても和やかに行われた。よく晴れた秋の日だった。もしかするとこの日が本当に、姉の一生のうちで一番幸せな一日だったのかもしれない。
姉が結婚して2年ばかりが、何事もなく過ぎた。
あるとき、義兄が海外出張に出ることになった。
期間は3週間。ついて行くほど長くはないが、かといって短くもない。姉は泣く泣く(本当に泣いていたそうだ)義兄を見送った。
それから2週間が過ぎたある日、僕のアパートに姉がふらりとやってきた。時刻は夜の8時過ぎ、大学に入ってから知り合った彼女を連れていた僕は、ドアの前に座っている姉を見て、飛び上がるほど驚いた。
「姉さん、何やってんの?」
「遼平さんから電話が来ないの」
そう言って姉は顔を上げた。涙で化粧が落ち、目の下にはクマができていた。言葉は不穏な予感で満ちていた。姉は暗い目で僕と、後ろに立っていた彼女とを一瞥すると、右手の甲で目元をごしごし拭いた。
彼女が僕に小声で、「今日は私、帰ろうか?」と言った。僕は両手を合わせて、その気遣いに感謝した。彼女は姉に短く挨拶すると、駅の方へそそくさと歩いて行った。
「とにかく、中に入りなよ」
「うん……」
姉は六畳間の中央に置かれたテーブルの前に座って、相変わらず小鳥に似た顔を曇らせていたが、ぽつりと「部屋、結構きれいにしてるのね」と言った。
「え? ああ、そう?」
「家にいたころのナオちゃんの部屋、もっと散らかってたでしょ。さっきの女の子、彼女?」
隠すこともないと思って、僕はうなずいた。
「悪かったわね、帰しちゃって。後で謝っておいてね」
「うん。でも大丈夫だよ」
「それでも謝っといて。美人で優しそうな子じゃない。ナオちゃんとお似合いよ」
「そうかな」
僕は部屋の入り口に立ったまま、姉にさっきの話をどう切り出そうか迷っていた。本当に義兄からの連絡が途絶えたのだろうか? だけど、もしも本当に義兄の身に何かあったのだとしたら、会社から姉に連絡が入るのではないだろうか。
「あの……姉さん、義兄さんのことだけど」
思い切って切り出すと、姉はまた目元をごしごしこすり始めた。小さな冷蔵庫の上で、湯沸かし器がパチンと音を立てた。湯気が立ち上っている。僕は慌ててインスタントコーヒーを淹れに向かった。
マグカップを両手に持って戻ってくると、姉はちょうど目元をこするのを止めたところだった。
「遼平さん、私に毎日電話をくれたの。そういう約束だったの。でも昨日、その電話が全然なくって……こっちからかけても出ないの」
僕はうんうんとうなずきながら、少し安堵していた。どうやら連絡がとれなくなってから、まだたった一日しか経っていないらしい。
「昨日の今日の話でしょ。だったら、たまたま電話しそびれただけじゃない? 忙しかったりしてさ」
「だって遼平さん、すごくマメだもの。忘れるような人じゃないわ」
「でもさ、スマホが壊れたとか」
そこまで言ってから、僕はぎょっとして口をつぐんだ。姉がほとんど恨みがましいと言ってもいいような目で、こちらを見つめているのに気づいたのだ。姉は思い込みが強く、それを否定されると荒れるという癖があったことを、僕はひさしぶりに思い出した。
姉は僕をじろじろ見た後で、ぽつりと言った。
「……だって、帰ってきたんだもの」
それから、昨夜のことを語りだした。
姉夫婦は、父が祖父から相続した小さな一戸建てに住んでいる。その2階にある夫婦の寝室で、姉は義兄からの連絡を待ち、眠れぬ夜を過ごしていた。
何度かうとうとして、目が覚めるということを繰り返しながら、ふと枕元の目覚まし時計を見ると、午前1時35分を指している。ベッドの中で寝返りを打つと、寝室のドアが姉の視界に入った。
そのときドアが開いて、遠い外国にいるはずの義兄が、中に入ってきたというのである。
姉は驚いて話しかけようとしたが、なぜか声を出すことができない。横向きに寝たまま、指一本動かすこともできなくなっていた。
義兄は姉には目もくれず、枕元まで歩いてくると、サイドテーブルにいつも置いているミネラルウォーターのペットボトルを手にとって、一気に飲み干してしまった。
そして振り返ると、ゆっくりと部屋を出ていった。
姉は体が動くようになるのを待って、家中を探し回った。義兄の姿はなかった。玄関の鍵とチェーンもかかったままだった。
ただ、玄関マットの上に置いてあった義兄のスリッパがひっくり返っていた。また、中身が半分ほど残っていた枕元のペットボトルも、ほとんど空になっていた。
(きっと遼平さんは死んだんだ。幽霊になって帰ってきたんだわ)
そう思うと悲しくて、朝になるまで姉は泣いて過ごした。辺りが明るくなっても悲しいのには変わりなかった。
「それで、ナオちゃんに会いたくなったの」
姉はそう言うと、またじっと僕を見つめた。
時刻はすでに夜の10時に近かった。遅くなったから泊っていくといって、姉は近くのコンビニで着替えやら洗顔料やらを買ってきた。僕はその間に風呂を沸かし、クローゼットの奥から来客用の寝袋を取り出した。
コンビニから戻ってきた姉に一番風呂を勧め、改めて部屋に一人になると、僕は安堵のあまり長い溜息を吐いた。化粧がドロドロになった、泣きはらした顔の姉が近くにいることが、実はたまらなく気詰まりだったのだということに、その時になって気づいた。
自分のスマートフォンを取り上げ、彼女に連絡をとった。姉が彼女に謝っておくよう言っていたと伝えると、『全然いいよ! お姉さんに気にしないでって言っといて』と返事が来た。
その時、部屋の中に着信音が鳴り響いた。僕のものではない。テーブルに置かれた姉のスマートフォンだった。
画面を見ると、登録されていない番号から電話がかかってきているようだった。ふと胸騒ぎがした。僕は勝手に電話に出ることにした。
『もしもし、双葉さん?』
聞き覚えのある声がした。
「もしかして遼平さん? 直人ですけど」
『あ、直人くん? お姉さんは?』
「すみません、今風呂です」
『ああ、そうなんだ。いやぁ、タイミング悪かったなぁ』
義兄の声は、いくらか焦っているように聞こえた。
『お姉さんに伝えてほしいんだけど、実は僕の携帯、壊れちゃったみたいなんだよ。おまけに仕事が忙しくって、昨日電話しそこねちゃってさ。お姉さんはほら、あの通り心配性だから、僕のこと気にしてるだろうと思って、今公衆電話からかけてるんだ。出先だし、仕事中だからすぐに切らなきゃならないんだけど』
「そうだったんですか。じゃあ、姉に伝えておきますから」
『悪いね。落ち着いたらまた連絡するから、よろしくね。そっちはもう夜遅いよね? 変な時間にごめんね。じゃあ』
電話は慌ただしく切れた。僕はほっとして、また長い長い溜息を吐いた。
やっぱり姉の思い過ごしだったのだ。姉が見たという義兄の幽霊らしきものも、夢か何かだったに違いない。
とにかく、義兄に何かあったんじゃなくてよかった。力が抜けて床にひっくり返っていると、風呂場のドアが開く音がした。
部屋に戻ってきた姉に、僕はさっそく電話のことを教えてやった。
「うそ……じゃあ、昨日のあれは何だったの?」
姉は嬉しいのか嬉しくないのか、「裏切られた」みたいな顔をしていた。
「姉さん、心配しすぎて変な夢を見たんじゃないの?」
「だって……本当に遼平さんから電話があったの?」
「ほんとほんと。こんな大事なことで嘘なんかつかないよ」
「そう……じゃあよかった」
そう言うと急に、姉はぽろぽろと大粒の涙をこぼし始めた。よかったよかったと言いながら泣く彼女を、僕はしばらく放っておいた。
姉はよっぽど疲れたのか、風呂から出るとまもなく僕のベッドに勝手に入り込んで、さっさと寝息を立て始めた。
さっきコンビニで買ってきたらしいミネラルウォーターのペットボトルが、開封されて枕元に置かれている。そういえば、寝るときに飲み物を近くに置いて寝るのは姉の習慣だったなと、僕はこのときになって思い出した。
僕はノートとラップトップを持って、六畳間から廊下に移動した。今日授業で行ったディスカッションの内容について、明日までにまとめておかなければならない。アメリカ近代史のレポートも少し進めておく必要がある。六畳の狭い部屋では、ちょっとした音でも姉を起こしてしまうような気がして、僕は廊下の隅でポチポチとキーボードを打った。
ようやく課題を終え、風呂に入って出てくると、すでに午前1時半を回っていた。急に眠くなってきて、僕は盛大にあくびをした。
目を開けると、すぐ目の前に義兄の横顔があった。
髪の毛が逆立つような感覚が襲ってきた。喉の奥であげようとした悲鳴が潰れて消えた。声が出せない。指一本も動かすことができなくなっている。
義兄は僕に目もくれず、廊下との境のドアを開けて六畳間に入っていった。僕の位置と姿勢では、中で何が起こっているのか見ることができない。体を動かすことができないのに、額からじわじわといやな汗が流れ始めた。
まもなく義兄は部屋から出てきて、再び僕の目の前を通り過ぎた。別に血まみれでも、透けてもいなかった。ちょっとトイレに行って戻ってきたとでもいうような、何でもないような顔をしていた。そして僕の視界の隅っこで、その姿がふっと消えた。
六畳間から悲鳴が聞こえた。途端に、僕は体が動かせるようになったことに気付いた。
寝ていたはずの姉は、ベッドの上に体を起こしていた。僕が部屋に駆け込むと、彼女は真っ青になった顔をこちらに向けた。
「今、遼平さんがいたよね? 来てたよね?」
僕は壊れた人形みたいに何度もうなずいた。
枕元に置かれたペットボトルは、中身が空になっていた。
義兄はその次の週末、無事に帰国した。
「ごめんね、直人くんにも世話をかけたね」
そう言って義兄は僕に、現地で見つけたという変な日本語のTシャツをくれた。「こういうの好きって言ってたよね?」と言って笑った義兄はいつもの義兄のようだったし、僕もそんな話をした覚えが確かにあった。
「義兄さん、日本に帰ってきた夢なんか見ませんでした?」
試しにそう尋ねてみたが、義兄は頭をかきながら「いやぁ、忙しかったもんで、仕事の夢ばっかり見たよ」と言っていた。
姉は義兄の帰国を喜んでいるようだった。だけどその顔に、少し怪訝な影があるように見えた。
それからおよそ1年が過ぎた。
今、姉夫婦は、以前のように仲睦まじくはないらしい。
どこか噛み合わないような、よそよそしい空気が、ふたりの家庭を覆っているらしい。
「だって、まだ帰ってくるんだもの。何なの? あれ」
春休みに会った時、姉はそう言っていた。
今も姉は、寝る前に封を切ったペットボトルを枕元に置くことを欠かさないという。義兄とは寝室を分けたそうだ。
「姉さんは、義兄さんを待ってるわけ? 夜に来る方のをさ……」
そう尋ねてみたが、姉は何も答えず、相変わらず小鳥のような顔をして、僕をじっと見つめるだけだった。
僕は彼女の結婚当初に感じた不安のことを思い出した。小さな種子のようなものだったそれは、きっと1年前に発芽していたのだ。
そう思ってみても、僕にできることは何もなかった。
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