第26話 案山子の季節

 僕の故郷では、夏の終わりから秋の中頃にかけて、案山子が歩き回るのだ。


 案山子というのはもちろん、田んぼや畑に立ててある、人の形をした鳥避けのことだ。僕の村では、どこの家庭でもこの案山子を、ある決まった様式に従って作る。するとこれらは一定期間、自分で手足を動かして、田畑の見廻りをするようになるのだ。


 どういう仕組みかは知らないけれど、動く案山子は動かない案山子よりもずっと役に立つ。だから村人にとってはその原理などはどうでもよく、誰もが「うちの村じゃ案山子はそういうもんだ」と言っていた。


 案山子は間接のない一本足を使って、器用にコツコツと歩き回った。僕達子供は、案山子にいたずらすることを固く禁じられていた。動いて害鳥や害獣を追い払う彼らは、田畑の守り神なのだ。だから案山子は大切に扱わなければならない。


 たまにバランスを崩して倒れている案山子を見つけると、僕達は競うようにしてそれを起こしてやったものだった。案山子の細い腕に、花冠をかけてやる女の子も多かった。


 役目を終えた案山子は、毎年村の神社に集められ、長々と祝詞を唱えて焚き上げられた。この行事は村でもっとも大きな祭であり、子供たちにとってはとても楽しみな日だった。


 僕たちの村は小さく、誰も彼もが知り合いで、おおむね助け合って暮らしていた。春の次には夏が来て、案山子が村を歩き回り、秋が深くなる頃案山子たちはいなくなる。そして冬が過ぎればまた春が来る。そんな具合に、月日はごく平和に過ぎていった。


 僕もまた平和な家庭の子供であり、他の村人たちと同じように、案山子が動く理由などはどうでもいいと思っていた。




 僕の通っていた小学校に、十何年かぶりに転校生がやってきたのは、僕が小学五年生になった春のことだった。


 隣の隣の町からやってきた彼は、僕にはものすごく遠いところからやってきた外国人のように見えたものだったが、今思うと彼も、僕達のことをそんな風に見ていたのかもしれない。


 仮に、彼の名前をダイスケくんとしておこう。僕らの世代には多かった名前である。


 ダイスケくんは、なかなか村の子供と馴染もうとしなかった。山に入って虫取をすることを嫌い、ゲームセンターなどの施設がないと言っては不機嫌になり、服が汚れるからと外でかくれんぼや警ドロをするのを拒み、村の子が持っているゲームの機種が古いと文句をたれた。


 僕を含めた村の子供たちは、数少ない子供であるダイスケくんと仲良くなりたいと思って、それでも何度か遊びに誘ったものだった。だけど彼は、いつも途中で家に帰ってしまうのだった。


 親の話によれば、ダイスケくんの両親は元々田舎暮らしに憧れていたらしい。そこへ持ってきて、ダイスケくんの妹に呼吸器の病気が見つかったとかで、空気のいいところで療養させようと、思いきって引っ越してきたのだという。


 その話を聞いたとき、僕には彼が、ああまでこの村に馴染むことを拒んでいる理由がわかった気がした。たぶん彼だけが家族の中で、田舎で暮らすポジティブな理由を持っていなかったのだ。


(ダイスケくんもきっと、色々我慢してるんだな)


 そう考えると、ダイスケくんもさほど嫌な奴ではないように思えた。


 だけど僕一人がそう思ってみたところで、ダイスケくんの態度が変わるわけではない。一学期が終わり、夏休みに入る頃には、彼を遊びに誘う友達は一人もいなくなっていた。


 僕もわざわざ彼に声をかけたりはしなかった。せっかくの夏休みなのだから、文句をたれるばかりの「よそ者」よりも、気の合う仲間と楽しいことばかりやって過ごしたかった。


 ただ、友達と虫に刺されながら秘密基地を作っているときなどに、ふと彼のことを思い出すことがあった。そんなときは何となく落ち着かない気持ちになったものだった。




 8月が終わり、二学期が始まった。


 始業式の朝、学校でひさしぶりに顔を合わせたダイスケくんは、顔色が悪く、足がガタガタ震えていた。


「案山子が動いてたぞ!」


 彼は開口一番叫んだ。教室中の視線が彼に集まった。皆キョトンとしていた。


 案山子が動いた。それが一体何だと言うのだろう?


「ぷっ」


 誰かが吹き出した。それを合図に、皆がどっと笑いだした。


「案山子って! 案山子は動くだろ」


「そっかそっか! ダイスケくんは知らないから! あははは」


 皆に笑われて、ダイスケくんは顔を真っ赤にしながら、小さな子供のように地団駄を踏んだ。その様子がおかしくて、笑い声はさらに高くなった。


「なんだよ! みんなオカシイよ! 案山子が動くわけねーだろ!」


 ダイスケくんが金切り声を上げた。泣きそうな声だった。


 少しして、学級委員長のてっちゃんが初めに冷静さを取り戻した。彼はまぁまぁ、というような手つきでダイスケくんに近づき、「この村では案山子は動くものなんだ」と優しい口調で説明し始めた。てっちゃんの父親は近所の顔役で、村長からも頼りにされている人だが、息子のてっちゃんにもその面影があった。だから委員長だったのだ。


 しかしダイスケくんは、それに「オカシイ」「オカシイ」と口を挟むだけで、およそ真面目に聞いているようには思えなかった。てっちゃんは困ったような顔になっていた。


「マズったなぁ。ダイスケくん、夏の間誰とも会わなかったんかな」


 頭をかきながら席に戻ってきたてっちゃんが、後ろの席の僕に耳打ちした。


「俺、案山子のこと教えといてやりゃよかったかも」


「てっちゃんが悪いわけじゃねえし、気にすんなよ」


 このときはそう言ったけれど、僕はその後、彼の台詞を何度も思い出すことになった。


 もしも誰かが案山子について、ダイスケくんに前もって教えてやっていたら、あの後どうなっていただろう。もしかすると、お焚き上げのある大祭の頃には彼の考え方も変わって、僕たちに混じってはしゃぎ回るようになっていたかもしれない。


 だけど、それは後から考えても仕方のないことだった。




 学校が終わり、僕たちはいつもそうやっていたように、仲のいい友達同士で寄り集まって帰った。ダイスケくんだけは、一人でさっさと帰ってしまっていた。


「夏休み終わっちゃったぁ。もう案山子の時期だもんなぁ」


 両脇に田んぼのある道をぶらぶらと歩きながら、誰かが言った。


「しょうがないべ。夏休みってのはいつかは終わるもんだし」


「終わっちゃったけど暑いなぁ」


 よく晴れた日の午後だった。とりとめのない話をしながらてくてく歩いていくと、突然てっちゃんが「あ!!」と大声を出して、周囲を田んぼに囲まれたあぜ道の中ほどを指さした。


 ダイスケくんがいた。何か棒のようなものを持って、地面を叩いていた。ぼろきれの塊のようなものが落ちている。


 誰かが「ひゃっ」というような声を上げた。


「あいつ、案山子叩いてやがる!」


 てっちゃんはそう言うと、そちらに駆け出した。一緒に下校していた僕たちもそれに続いた。


 それは、僕たちにはひどく異様な光景に見えた。僕は後年、進学のために上京してから、電車への飛び込み自殺を目撃してしまったことがある。その時の恐ろしさというか、「何か異様で、不吉なものを見てしまった」という感覚は、僕に「案山子を虐げるダイスケくん」のことを思い出させた。


 案山子を傷つけることは重大なタブーだ。そのタブーを破っている奴がいる。それは、何かとても恐ろしいことの前兆のように見えた。


「おーい! ダイスケ! やめろ!」


「やめろ! やめろ!」


 僕たちは口々に叫びながら駆け付けた。その時、先頭を走っていたてっちゃんがまた「あ!!」と言って立ち止まった。てっちゃんは体の大きな子だったので、彼が止まるとあぜ道を通せんぼした形になる。慌てて足を止めた僕の耳に、ダイスケくんのわめき声が聞こえてきた。


「いやだー! 前のとこに帰りたい! 前の家に帰りたい! 前の学校に行きたい!」


 ダイスケくんは泣いていた。泣きながら案山子を打ち据えていた。


 そしてそのさらに向こう、網の目状に張り巡らされたあぜ道の方々から、たくさんの案山子が近づいてくるのを僕たちは見た。


 半端な数ではなかった。何十体、いや何百体もの案山子が黒々と群れをなし、その先頭はダイスケくんまであと数メートルのところにまで迫っていた。今年村中で作ったものよりも明らかに数が多い。


 僕はそれらの先頭に、去年焚き上げたはずの、僕の兄のお古のTシャツを着た案山子を見出していた。その時直感的に、ただ事でないことが起ころうとしている、ということだけがわかった。


「逃げろ!」


 僕はとっさに、後ろを向いて叫び、走り出した。皆もそれについてきた。


 僕たちは元来た道を駆け戻った。その間にも何体もの案山子とすれ違った。おどけた顔はそのままに、一本足をいつもよりせかせかと動かして、皆同じ方向を目指していた。


 背後でダイスケくんの声が聞こえた。何を言っているのかわからない、めちゃくちゃな叫び声だった。


 誰も振り返らなかった。畦道が見えなくなるまで僕たちはとにかく走った。気がつくと、小学校の校庭に戻っていた。


 しばらく、皆口をきかなかった。こんなときどうしたらいいのか、誰も知らなかったのだ。




 その日以来、ダイスケくんは学校に来なくなった。


 子供も大人も、誰もその消息について触れる人はいなかった。


 大祭を前に、彼の家族はまたひっそりと引っ越していった。その日、担任の先生が「ダイスケはまた転校していった」と告げた。気のせいかほっとしたような顔をしていた。


 誰もダイスケくんの話をしなくなった。大祭は例年通り執り行われ、十数体の案山子が積み上げられて火をかけられた。


 あのときの案山子の群れは、どこに行ったのだろう。


 あの日以来、僕はそう考えるようになった。そこに行けば、ダイスケくんを見つけられるのだろうか。


 それを確かめるのは、意外に簡単かもしれない。今でも村では、同じ方法で案山子を作っている。そのうちの一体を捕まえて壊せば、ふたたび彼らは群れをなしてやってくるだろう。


 だが、あれ以来それを実行した人はいない。


 僕は今でもあの時「逃げろ!」と叫んだことを夢に見ることがある。その時はふと「ダイスケくんを探しにいく責任は自分にあるのではないか」という気持ちになる。


 だが、僕も案山子を虐げはしない。今のところはやろうとも思わない。


 だけどいつか、ふと魔が差して、棒切れを案山子に向かって振り下ろす日が来るのではないか……。


 そんな気がすることがある。




 今は夏の盛りである。


 遠からず今年もまた、案山子の歩く季節がやってくる。

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