第27話 蜜柑
その日私は、ほとんど一年ぶりに実家に帰った。
鍵を開けて、ひさしぶりに見た玄関は、あまり変わっていなかった。下駄箱の上に置いてあった陶器の小さな招き猫がなくなって、代わりに一輪挿しが置かれていた。置かれているだけで、花は飾られていなかった。
「ただいま」
静まり返った廊下に私の声が響いた。応える声はなかった。誰もいないのかと思ったその時、リビングの方から「おかえり」という声が聞こえた。
「花菜、一人なの?」
リビングのドアを開けながら呼びかけると、彼女は「うん」と答えた。
ひさしぶりに見る妹の花菜は、中学校の制服を着たまま、ダイニングテーブルの定位置で蜜柑の皮を剥いていた。
「元気だった?」
私が向かい側の椅子に腰掛けながら言うと、花菜はまた「うん」と言った。
「お父さんとお母さんは?」
「たぶんお寺」
「ふーん。私も蜜柑もらお」
私はテーブルの上の籠から蜜柑を取り出して皮を剥いた。
「お姉ちゃん、蜜柑好きだよね」
「うん。花菜もでしょ」
「うん」
蜜柑は酸っぱかった。まだ旬が来ていない、という感じだった。
花菜は手元にじっと目線を落として、まだ蜜柑の皮を剥いている。やけに緩慢な手付きを見ていると、なぜかもやもやと、言い様のない不安が胸に立ち込めてくる。
私は昔から、この歳の離れた妹を可愛がるのが好きだった。
産まれたばかりのこの子が退院して、初めて私と会った時、小さな手を触るとぎゅっと握り返してきたことを、私は未だによく覚えている。なんだか甘くていい匂いがしたことも、その日は空が曇っていて、雲間から日光が優しく差していたことも、切なくなるような気持ちと共に思い出すことができる。
この一年、曇り空を見るたびに、私は胸が締め付けられるような気分になった。そして、花菜のことを思い出したものだった。
うつむき勝ちな目線をちらりと上げて、花菜が私を見た。
「お姉ちゃん、ひさしぶりだね」
「そうだね」
「何で帰ってこなかったの? お盆とかさ」
「何でって……何となくよ」
「じゃあ、何で今日帰ってきたの?」
何で。何でって。どうしてだろう。私は酸っぱい蜜柑をつまみながら、目の前に座っている花菜を見た。私の妹がここにこうしているというのに、私は何で今日、この家に帰ってきたのだろう。
「いいじゃない、別に」
「うん……」
花菜ははっきりしない声を出した。それに被るようにして、少し遠くからチャイムの音が聞こえてきた。十年前までは私が、そして今は花菜が通っている中学校のチャイムだ。
「花菜、今日は学校じゃないの?」
「別にいいの。行かなくて」
「どうしてよ。あんた、今年は受験生でしょ」
「受験生じゃないもん。まだ二年生だから」
「そうだったっけ?」
確か花菜が中学二年生だったのは、一年前のことではなかったか。あんなに可愛がっていた自分の妹なのに、学年を間違えるなんて、今日の私はどうかしている。
「いや、二年生でもさ。学校、いいの?」
「いいんだってば」
花菜はまた俯いて、蜜柑の皮を剥いている。さっきから同じ手付きをしつこく繰り返している。確かに蜜柑の皮は剥けているように見えるのに、いつまで経っても皮剥きが終わる気配はない。
ふと私は、花菜の髪が濡れていることに気付いた。
「花菜、髪の毛濡れてない?」
「濡れてるかもね」
「乾かしなよ」
「乾かしたって意味ないよ」花菜は怒ったように言った。「わかってるくせに」
「わかってるって……」
何をわかってるの、と尋ねようとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。両親ならそんなことはしない。来客だ。
「いいよ、出なくて」
席を立とうとした私に、花菜が言った。
「飯田さんの奥さんだから。朝も一回来たの」
「いいの? ほんとに……」と言いかけて、私は「飯田さん」が誰なのか、すぐに思い出せないことに気付いた。
「お母さん、また飯田さんの奥さん追い返しちゃった」
花菜は親指の先で蜜柑の皮に穴を空けた。この子がさっきから、同じ蜜柑をずっと剥いているのはなぜだろう。私は一体、何を見ているんだろう。
「ねぇ、飯田さんって……」
「子供、産まれたんだね。お腹ぺったんこになってた。病気になったみたいな顔して、白髪が増えてて、可哀想だった。奥さんは何にも悪いことしてないのにって」
そうだった。一年前に我が家を訪ねてきた奥さんは、まだお腹が大きかった。今にも死にそうな顔で頭を下げる彼女に、母は顔を真っ赤にして、下駄箱の上にあった招き猫を投げつけたのだった。招き猫は奥さんの左のこめかみに当たって、三和土に落ちて割れた。父が慌てて母を後ろから押さえつけた。私は生まれて初めて、父が泣いているところを見た。
「出てって! あんたなんかに謝ってほしくない! 出てってよ!」
母の叫び声が聞こえた。その瞬間の母の顔を、私は見ていない。いたたまれなくなって、玄関から居間へと逃げ出したのだ。あのとき、花菜は何をしていたんだっけ。
「飯田さんは謝りに来られないよねぇ」と花菜が言った。
「だって刑務所にいるんだっけ? でももういいと思うんだよね、奥さんはさぁ。だってあたし、飯田さんの奥さんになんか全然怒ってないもん」
「私、飯田さんに奥さんなんかいなきゃよかったって……思ったことあるよ」
私は食べかけの蜜柑を見ながらそう言った。怖くて花菜の顔を見ることができなかった。
「もしも奥さんがいなければ、花菜のことであんな言い訳させなかったのにって思ったよ。この人なんかいなきゃよかったのにって」
「でも奥さんが悪いわけじゃないし」
ちらりと目を動かすと、花菜の手先が目に入った。いつの間にか、ブレザーの袖もぐっしょりと濡れている。
1年前の今日は、朝から冷たい雨が降っていた。
その日、飯田さんという人が仕事から帰る途中に、下校中だった花菜を車で轢いた。
飯田さんは花菜を、近くの廃材置場の物陰に隠して帰宅した。逮捕されるのが怖かったと言っていた。妻とこれから産まれる子供のことを考えると、救急車や警察を呼ぶのが恐ろしくて、とっさにそんな行動に出てしまったと話した。
発見されたときには、廃材置場の屋根のトタンから滴った雨で、花菜はずぶ濡れになっていた。
寒かっただろうな、と思った。
あの初めて会った日、赤ちゃんだったあの子はあんなにあったかくてふわふわしていたのに、どうしてこんな目に遭わなきゃならなかったんだろうと思ったら、胸が突き刺されるように痛んだ。父も母も私も、何日も泣いた。
私は花菜が好きだったよそいきの、ちょっと大人っぽいワンピースを着せてやりたかった。けれど、両親は濡れた制服をクリーニングに出して、それを着せてしまった。花菜は自分の制服が嫌いで、「だっさいよねぇ、このブレザー。あたし、高校は制服がかわいいとこがいいな」なんてよく言っていたものだった。なのにそれがお棺の中の、あの子の最後の衣装になってしまった。
そのことで親と激しく言い争った私は実家を出て、会社の独身寮に移り住んだ。それから花菜の法事も新盆も一切無視して暮らした。
ほとんど1年間、妹が今まで通り生きてるみたいな顔をして過ごしてきた。
でも今日は、花菜の命日だったから。
「忘れてたわけじゃないよ」
私は手元に視線を落としたまま言った。かすれた声しか出なかった。「怖かったの」
花菜は優しい声で応えた。
「知ってるよ。お姉ちゃん」
その時玄関のドアが開く音がした。私の靴を見つけたらしい母が、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
はっとして顔を上げると、花菜はいなくなっていた。
剥きかけの蜜柑がひとつ、ダイニングテーブルの上に転がっていた。
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