第2話 田舎より
昔、郷里ではよく狢が出ました。
夜遅く、一人とぼとぼと田舎道を歩いている時など、よく化かされる人がありました。
狢に化かされると、人は8の字を書いて歩くことが多い。
深夜にあぜ道を歩いている。向こうに自分の家が見える。ところが行けども行けども家の灯りが近づかない。
こういった時は、狢に化かされたといって、いくら歩いても無駄なものです。
ですからそういう時はそこへ止まって、一服やってから再び歩き出すといいと言いました。
また狢は人の心を読むと見えて、例えば「物陰から大入道が出てきたら恐ろしい」などと考えていると、神社の杉の木ほどもある影になって、ぬっと現れたりするのです。
私の叔母が娘時代に、夜道を歩いていると、その頃密かに慕っていた男性に行き会ったことがあったそうです。
しかし話してみると、どうも言葉尻がはっきりしない。姿形は確かにそっくりであるけれども、目を凝らしてみると少し歪んでいるような気がする。
狢は人の心をよく読むから、「ああ会いたい」と思っている人にも化けることができる。「もしやこれは狢かいな」と気づいた叔母がはっと我に変えると、手に提げていた風呂敷包みの中から、もらい物のおはぎだけがきれいになくなっていたそうです。
こういった話はたくさんありました。
私が9つかそこらの時に、祖母が亡くなりまして親戚衆が集まりました。
死人が出た時は、飼っている猫は笊でもかぶせて閉じ込めておくのが決まりで、こうしないと猫が憑く、というのでした。
そのころはまだ家の猫も子供でしたので、小さな籠を伏せてその中に閉じ込め、石を載せて蓋をしておきました。
子供の自分はその猫の番を命じられていました。
大人達は忙しそうに立ち働いていましたが、ちょっと暇が出来たのか、前述の叔母が傍へ来て話し相手をしてくれました。
私たちがいた座敷の、隣の座敷に祖母を寝かせてありました。襖は開いていて、枕元に逆さ屏風を立て、両手を胸の上で組んで横たわっている遺体が、目の端に映っていました。
夏の暑い、暑い日でした。
ふいに死人が、胸の上で組んでいた両手をふいっと上へ持ち上げました。
私は大変驚いて、それはもう今考えても肝が冷えるようで、騒がしく鳴いていたひぐらしの声も、はた、と止んだように思いました。
叔母を見ると、彼女は大変落ち着いて、隣の座敷の窓の方を見ていました。
「あそこから狢が覗いているのよ」
私は一人で庭へ出て、窓の外へ回りました。果たしてそこには狢が一匹、後ろ足で立って部屋の中を覗き込んでいるのでした。
狢を追い払うには、傷つけてはいけない。殺してもいけないというのです。後で連れ合いが敵討ちに来るのだという話でした。
そこで私は狢の後ろへ立って、「こら!」と怒鳴りました。
すると狢はしゃがれ声で、「黙っとらんか」と答えました。そしてくるりと振り向きました。
振り向いた顔は、祖母の顔でした。歯のない口をうわっと開いて、けたけた笑いました。
まもなく、叔母が庭で寝ている私を見つけてくれました。
狢はどうしたか知りません。
遺体は次の日荼毘に伏しました。
神社の杉の木が雷で燃えてから、とんと狢の話を聞きません。
夜はここ最近、大変明るくなりました。
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