第10話 桜橋

「お母さん、ちょっと敦とふたりにしてくれる?」


 おばさんを廊下に追い出すと、香奈はきらきら光る目で僕を見た。全身がりがりに痩せてしまったが、目だけは昔と変わらない。


「桜橋の桜、もう咲いた?」


「咲いたよ」


「そう」


 香奈は窓の外を見た。彼女の位置からでは、青空しか見えないだろう。


 彼女が入院してからもう何年になっただろうか。小学校の卒業式も中学校の入学式も出席できなかった香奈。病室のこのベッドは、彼女の形に凹んだまま戻らないのではないだろうか。そんな風に思いつつ、ふと彼女の枕元に、何か僕の知らないキャラクターのぬいぐるみがあるのに気付いた。


「あたし、そろそろ死ぬんだ」


 そんなこと言うなよ、とか言うのが、何だかすごく無責任なことに思えたので、僕は黙っていた。


「それはいいの。あたし、実験に成功したから。あのね、魂を移せるようになったんだ」


 細い顎をしゃくって、彼女は言った。


「それ取って。枕元のやつ」


 ぬいぐるみを手にとって渡そうとすると、彼女は首を振った。


「それ、敦にあげる。昨日の夜、それにあたしを入れたからね。だから、あたしはそろそろ死んじゃうんだ」


「僕にくれて、どうすんの?」


「どうもしない。好きにして」


 そういうと、香奈は目を閉じて何も言わなくなった。


 僕は廊下に出ると、おばさんに挨拶をして病院を出た。


 もらったぬいぐるみを左腕に抱いていると、妙にそこだけ暖かいような気がした。


 桜橋と呼ばれている場所に通りかかる。大きな川の両岸に桜並木があって、その途中に橋が架かっているのだ。橋の上からそれを眺めるのが、昔から香奈は好きだった。


「香奈、桜が咲いてるよ」


 ぬいぐるみを欄干に載せると、そいつが瞬きをしたように見えた。


「香奈」


 もう一度名前を呼ぶと、プラスチックでできた目がぱちっと細くなり、元に戻った。


「そのままずっと、ぬいぐるみの中で生きてくつもり?」


 ぬいぐるみは動かなかった。僕たちはしばらく、桜並木を眺めていた。


 香奈のプラスチックの目にも、この桜は見えているのだろうか。僕は考えた。黙って、色々なことを考えた。香奈をどこに置いておこうかな、とか。いつまで持ってるべきなんだろうか、とか。そもそもこれは本当に香奈なんだろうか、とか。


 たとえばこのぬいぐるみを、僕の部屋の本棚の上に置くとする。それは嫌だな。いつもこいつに見られているなんて嫌だ。


 じゃあリビングは? 目が動くぬいぐるみを見たら、母が半狂乱になるだろうな。もしもそのうち僕に彼女ができて、家に招待することになったら? なんだか面倒なことになりそうだ。僕が一人暮らしを始めたら? 結婚したら? 死んだら?


 僕は溜息をついた。香奈はいつもこうだった。僕には何の相談もなく、突然無理難題をふっかける。それは敦のことが好きで甘えているからだよ、なんて皆は言うけれど……。


「ぬいぐるみ、好きにしてって言ったっけ」


 ぬいぐるみは動かなかった。黙って欄干に座っていた。


 ふいに携帯が鳴った。番号は香奈の携帯で、かけてきたのはおばさんだった。今しがた彼女が息を引き取ったと言って、泣いた。


 電話を切る。


「香奈が死んだんだって」


 僕が話しかけると、ぬいぐるみはまた目をぱちっとやった。


「死んだらどうなるんだろ……」


 ぬいぐるみは何も答えなかった。


 僕たちが見下ろしている川は流れが速く、大量の水が太陽の光を反射しながら、どうどうと流れていく。その流れが渦を巻いているあたりに、僕はぬいぐるみを放り込んだ。


 ぬいぐるみはくるくる回りながら、すぐに見えなくなった。


「これでいいんだよ。だって香奈は死んだんだから」


 川面に手を振って、僕は桜橋を後にした。

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