第35話・それを大人たちは絶望と呼ぶのか

 学寮の上覧試合のお知らせはすぐに全生徒の知るところとなった。

 学寮長様からのお知らせの連絡が各寮に配布されたからね。


「……信じられない。秀忠おじさままで観覧にいらっしゃるなんて……」

 お知らせを見た忠郷はふらりと大きく揺れたかと思うと、がっくりとうなだれた。

 忠郷が言う「秀忠おじさま」とはもちろん、江戸城の本丸御殿で仕事をしている将軍――徳川秀忠様のことだよ。

 大御所様――徳川家康を祖父に持つ忠郷にとって確かに将軍様は《おじさん》なのだろうけども。


「うわあ! やっぱり……左近殿が言っていた通り。僕らの寮が南の御殿の藤寮と対戦するんだね」

「個人戦ならともかく……なんで寮対抗の団体戦なんだよ」

 しんじられねえーーそう呟いた総次郎がお知らせの書状を見つめて舌打ちをした。

「なんでもクソもねえや。お前ら鶴の寮の三人がそれぞれ南の御殿の藤の寮の生徒三人と試合をする。勝った数で勝敗が決まるーー剣術の上覧試合はこれまでもそういう形でやってんだとよ」

 勝丸が腕組みをして僕らに言った。

「だからなあ……忠郷? お前も試合には絶対に参加せにゃあならんからなあ! まさか不参加なんてことになったら、それだけでうちの寮にひとつ黒星がついちまう」

「嫌だわああああああ! 剣術の試合なんて絶対に嫌! お断りよ!」

 忠郷は大声で悲鳴を上げて蹲った。

「剣術なんて……顔をぶん殴られたらどうするのよ。痣でもついたらどうするの。痛いし、醜いし……絶対に嫌……」

 ついに忠郷は泣き出した。総次郎は呆れたように忠郷を見つめている。

「ねえ忠郷? 竹刀を使えば死んだりしないし、傷だってすぐ治っちゃうよ。腕がもげたり血が出たりはしないんだよ」

「知っっっっっっっってるわよそんなことくらいは! 馬鹿じゃないの!? だけどあの袋竹刀だってまったく痛くないってわけじゃないじゃない! 傷だって出来るし、あざも出来て腫れたりするわ! 冗談じゃないわよ……あたしは会津藩主なのに!」

 肩を叩いた僕の手を振り払う忠郷。


 総次郎は勝丸に目をやると、忠郷を無言で指した。どうにかしろと言いたいらしい。

「忠郷? お前は何度かここの上覧試合も経験があるから知っとるだろ。上覧試合はお前らの親も見に来るし、勝った寮の生徒には将軍さまが直々にお褒めの言葉や褒美をくださるんだ。せいぜい頑張りな! 不戦勝なんて許されるわけねえーだろ。お前は将軍さまの甥っ子なんだ。無様な姿は許されねえぜ!」

 忠郷は泣き続けている。首を振って

「嫌だわあああああ!」

 と一際大きな声で叫んだ。

「……本当に親が観に来るのか? この間は来なかったぜ」

「ああ、春の歌詠み会か。あれはまだ冬も終わってすぐのことだったし、お前さんたち出羽や奥州の大名の領国は冬はにっちもさっちもいかんだろ。それでだとさ。剣術と茶の湯の観覧会は派手にやるらしいぜ。既に学寮長さまが生徒の保護者たちに書状を送る準備をしとるわい。お前ら二人もせいぜいうんと稽古をしとくんだな。どこの生徒の保護者もえらく気合を入れて観覧にくると聞いたぜ」

「ま、まじか……おええ……」

 総次郎は青い顔をしていたよ。それを楽しげに眺めて、勝丸は

「いいか、バカども!」

と声を張り上げた。

 僕ら鶴寮生の一人一人をじっと睨み付けるように見つめて言う。


「剣術なんてのはなあ、そもそも戦場じゃあこれっぽっちだって役になんぞ立たん! ましてやてめえらは将を指揮するお家の御大将になろうって輩どもなんだから尚更だ。お家の総大将が一対一で刀でやり合うなんてことがそうそうあってたまるかよ」

 そりゃあそうだ。

 しかしーー必要とあらば一人でも馬を走らせて敵陣に単身切り込んで行くのが僕の大叔父という人なので、それを考えたら僕も剣の腕前は磨いておかなくちゃ。

「それでも将軍様がそいつの出来不出来を重要視なさるのはな、偏に剣術ってのは日々の鍛錬、小さな稽古の積み重ねが大事だからだ。こいつは、お前さん達がここで真面目にそういうものに打ち込んでいるかどうかを見極めるための試合なんだよ。勝ち負けが全てじゃねえ。わかったかよ、蒲生忠郷!」

「いやよ! 冗談じゃない。そんなこと言って、みんな影で剣術なんかしたこともないあたしのことを指差して笑うつもりなんでしょ。知っているわよ! 第一、あたしはここで剣術や武芸の稽古なんてしないことになっているんだから、そんな試合には最初っから参加する道理がないじゃない。積み重ねたものなんて何もないんだから!」


「あーあ……また泣かしちゃった」

 僕がそう言うと、勝丸は泣き止まない忠郷を見つめて首を振った。

「まったく……ちょっと前まではあんな歳でも、殿さまだって言うなら軍勢引き連れて戦に行かにゃあならなかったんだ。元服を済ませるってのはそういうことだぜ。てめえは何も出来なくったって具足を付けて本陣に座らされて、戦に負ければ打首だ。それなのに……竹刀で打たれるだけでこの大騒ぎ。まったく、どうしようもねえ時代になっちまったもんだ」


 僕はなんとなくわかるのだーーこういう、人の心がささくれ立つその瞬間の気配が。

 その場にいる皆々の心にまるで石のような重い何かが投げ込まれて波紋が生まれるその刹那、人の気配も微妙に変わる。

 あまりこういうことには神経を尖らせるなと父には言われているけれどーー無視できないことはもちろんあるよ。


 総次郎は明らかに勝丸に不満を抱いている。

 それは燃え上がる業火のような、強い怒りの感情だった。


「でもさあ、勝丸? 忠郷は学寮で一度も剣術の授業に参加していないんだよ。それなのに僕らとおんなじ条件で試合に出ろって言ったって……」

「だからって特別扱いなんぞせん! そもそも授業を見学出来るなんてこと自体がおかしいだろ。どの授業も将来の藩主になるために必要な要素というからてめえらに学ばせてやってんのに、もう藩主になっとる奴がそれを出来んというんじゃあ話にならんぜ。土台おかしいと思ってた」


 勝丸はいつも言葉が荒々しく僕ら生徒にも容赦がないけれど、今日はいつにも増して口調が強い。忠郷を責める手を緩めようとはしなかった。


「……俺の親父はなあ、武田の家来だったんだよ。武田の家なんてのは信玄公の時代には無敵と恐れられていたもんだが、息子の代になったら途端に傾いた。滅亡するまでたったの十年……理由がわかるかね、若さまども? 跡目を継いだ御方は信玄公の実の息子さな。親父に似て存外戦も強かった。だのにどうして滅びたかーー理由は一つしかねえ」


 勝丸の気配が濃くなり、刹那、罵声に近い声が部屋を駆け巡った。


 ーーそいつが大バカだったからだよ! 


「ーーでなきゃ、親族からさえ見限られるなんてわけがねえ! どんなにご立派なご家来衆がいたって、強え騎馬武者がいたって、上に立つ人間がバカじゃあどうしようもねえんだ。だから、お前さんみてえなどうしようもない若さまを見ていると反吐が出る。こんな野郎が今に人の上に立って殿様をやろうってんだから、悪夢以外の何者でもねえじゃねえか。教育するにしたって限度があらあ。腐った性根までは治せねえよ」


「そうかなあ……僕はそうは思わないけど」


 僕がそう言うと、勝丸は途端に不機嫌そうにこちらを睨みつけた。

 でも僕は全然平気であるーー機嫌の悪い時のうちの付喪神たちの方がもっと全然手に負えないもん。

「落ち着いてよ、勝丸。僕らようくわかったから」

「はあ、なるほど……では千徳殿。一体何がどうわかりましたか?」

 小馬鹿にしたように勝丸が言うもんだから、僕も一呼吸置いて言ってやった。


「負け戦って辛いんだってね……父上が言ってたよ。国が滅びることはとても言葉でなんか言い表せないーー武田の家が滅亡した後にうちへ来た家臣も大勢いるよ。家を焼かれて、家族全員皆殺しにされて、自分ひとり越後へ来たんだって家臣もいる……這々の体で家に帰ったら、家族が全員逆さ磔にされていたんだって。敵にやられたんじゃないよーー自分の故郷の人間がやったんだ。同じ村の中で織田に下るか否かで揉めたんだって。想像するだけで怖いよ。恐ろしいよ……痛いだろうし、辛いだろうし……」

「お前さん、一体何が言いたいのかね?」

 勝丸の口調は明らかにイライラしていた。

「勝頼公を愚かと勝丸が思うのは、勝丸が辛い目にあったからじゃないの? そうしてそれは全て武田の家の滅亡に理由があると思ってるーーお父上が酷い目にあって、自分もそれに巻き込まれて辛かった……たぶん、きっとうんとうんとね。だから武田の滅亡を恨んでる。だから勝頼公を許せない。勝頼公は愚かと信じてるーーそうでないと困るから」


「……なんだと?」


(やっぱりね……)


 心というものは気配にひどく影響を及ぼすものなのだ。

 どんなに気配を殺していても、心に乱れがあれば気配は生まれるーー一瞬、勝丸の気配が強ばるのがわかって、僕は言葉を続けた。


「僕らはねーー勝丸? 藩主になろうと思ってるんだよ。だから当然、自分が間違えたり上手く行かなかったことの皺寄せや報いが家臣や領民に降りかかることを知ってる。恨みを買うことも当然あると聞いてる。だから、勝丸にそこまで恨まれる勝頼公を可哀想とは思わないけど、だからって忠郷までそんな風になじることないじゃないか」


 傍で感じる総次郎の気配が落ち着いてきたのがわかる。それが自分に同調しているように感じられて、僕はなんだか味方を得たような気持ちになった。


「忠郷と勝頼公とを引き比べることに一体何の意味がありますか? 二人は生まれも育ちも異なる全くの別の人間なんだから、そもそも比べる対象にはないと思うんだけど。生きた時代だって違うんだし。勝丸が勝頼公のことをよく思っていないっていうのはよくわかったけど、忠郷は別にそれとは何の関係もないじゃん。僕は忠郷の性根が腐っているとは思いません。勝丸が勝手にそうと感じるだけでしょ」


「大人ってのは大体こんなもんだぜ、千徳。時々ブチ切れてわけわからん理屈をこね出すんだ」


 総次郎は腕組みをして勝丸を睨みつけている。

「手前勝手なことばかりぺらぺら言いやがって……胸糞悪いんだよ! 学ばせてやってる? 冗談じゃねえ。何を得意面して偉そうに……こんなことは全部お前らが勝手な都合でやってる自己満足じゃねえか。どうしようもねえ時代になったのは、てめらがどうしようもねえ連中だったからだろ? てめえらがこんな世の中にしたくせに、俺達にそれをグチグチ不満なんか垂れやがって冗談じゃねえ! てめえの親父が敗残兵になった尻拭いまでしてやるほど、俺達はヒマじゃあねーんだよ。金で女でも買って慰めてもらいな」




 総次郎はダンと強く脚を鳴らして叫んだ。




「藩主になったこともねえ野郎に、これから先もなる可能性のねえ奴に、こいつが屑だなんだととやかく言われる筋合いなんかねえんだよ!」


 僕は驚いた。学寮へ来て、忠郷を庇うような総次郎を初めて見る。

 僕は一呼吸置いて勝丸を見た。

 こういう時にこそ落ち着きが肝心だ。常に相手の出方をよく注視しなければいけないよ。

 しかし勝丸が何も言葉を返してこないので、僕は言葉を続けることにした。


「僕は母上が武田の家の出だからねーー武田の家のことについてはちょっとは詳しいつもりだよ。ああ、僕を産んだ母上じゃないよ。父上の最初の奥方ね。甲斐の母上はもうずうっと昔に死んじゃったけどさ、色々と話は聞いているもん。だから言うわけじゃないけど、武田の家が滅びた要因なんて……敢えて一つ上げるとするならそれは勝頼公がうちと同盟を結んだせいじゃないかなあ。なんなら僕よりもっと事情に詳しい人に聞いてみる? 文を書いてあげようかーー父上に」


 僕がそう尋ねると、勝丸は


「まったく……やっぱりお前さんはあの執政殿の息子だわな。お喋りがすぎるぜ」


 と言って、いつものように大きな足音を立てて部屋を出て行ってしまった。




 いつの間にか忠郷が身体を起こしていたよ。視線の定まっていない瞳がぼんやりとこちらを向いている。

「はああ……なんだかめちゃくちゃ空気悪い感じ。どうしよう?」


 だって……この様子じゃあ、鶴寮は上覧試合に一つ黒星が付くことがほぼ確定したも同然なんだもの。

 おまけに戦う相手は学寮最強の腕前を持つ鍋島元茂を擁する南の御殿・藤寮だ。

 その上、僕らを護衛するという主務殿もご機嫌斜めなのである。

「……どうするもなにもねえだろ。こうなったら、あれだな」

「何? 何かいい案でも思いついたの?」

「……先方、中堅、大将とくりゃあ鍋島元茂は当然藤寮の大将で試合に出るだろうから、俺たちは大将をこいつにするしかねえ」


 総次郎が忠郷を指して言った。彼のことは見もせずに。

「はあ!? 忠郷が大将!? 戦いもしないのに大将!?」


「もうこいつのことは捨て置くしかねえだろ。三人一組の寮対抗戦なんだから、三回試合をして二勝すれば自動的に勝ちが決まる。それなら俺たちが先方と中堅とでまず確実に二勝するんだ。学寮最強の剣士殿にはこのクズをあてがうより他に方法がねえよ。こいつが負けても俺たちが二勝して勝つ」


 クズーーさっき勝丸が同じ言葉を言っていた時にあれほど怒っていたとは思えない。

 でも、いつもなら絶対憤慨するだろう言葉なのに、忠郷は何の反応も示さなかった。ただ呆然とそこにいるだけで。


 その時、庭から風がざあっと吹いてきて僕らの文机の上の紙を何枚か巻き上げた。草木のそよぐ音と一緒に、どこからか小さな鈴の音も聞こえたよ。


「あ、あのう……忠郷さま」


 小声で僕らの部屋に声を掛けたのはお部屋番の鈴彦だった。

「ああ、鈴彦ごめんよ。どうしたの?」

「だ、大丈夫ですか……主務殿が……」

 部屋へ入って来た鈴彦だったけれど、すぐ廊下を覗いてしまった。

「気にすんな。まだゆうべの酒が残ってて機嫌が悪いんだよ」

「しゅ、主務殿にもお伝えしようとしたんですけど……なんだか断れられてしまって……あ、あの! 忠郷殿のお母上様が急に学寮へいらして、ご面会をと……」


「ええ? 忠郷の御母上?」


 僕と総次郎は忠郷へ目をやった。

 普通、面会というのはこんな直前に聞かされるものではなくて、事前に予め知らされておくべきものなのだ。

 例えば前日、例えば当日の朝ーーしかし、昨晩も今朝も僕らの誰にもそんな様子はなかった。


「……わかったわ。そんなことじゃないかと思ってた」


 忠郷はゆっくりと立ち上がった。

 ふらふらと歩き出すその姿は、まるで現世を彷徨う幽鬼のようにも思えたよ。顔は青白く覇気がなくて、長い髪の毛が乱れている。いつもの彼なら絶対こんな姿で部屋の外には出ようとなんてしないのに。


「忠郷……大丈夫? 休んでいた方がいいんじゃない?」

「大丈夫よ、千徳」


 部屋を出る刹那、忠郷は僕を振り返った。ちらりと総次郎にも視線を向ける。


「……蒲生の家は代々短命なんだもの。あたしだって……すぐに死ねるわ。全てはそれまでの辛抱なのよ」


 ぴしゃりと部屋の戸が閉められて、僕は彼から拒絶の意を悟った。


 深い悲しみに満ちた暗い気配ーー遠ざかるそれを感じながら、僕はたまらなく不安な気持ちでいっぱいになった。


 その気配のことを、世間の大人達が《絶望》と呼んでいるのだということは、もちろん僕も知っている。

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