第33話・勝丸、上覧試合の噂を耳にすること
まったくひどいことになったーー
保科勝丸は担当の寮生を遠巻きに眺めながら、道場の壁にもたれかかっていた。
昨晩の夢の中と比べれば二日酔いの症状は天と地ほども違いがあってすっかり酒も抜けてはいるけれども、ひどい醜態を晒した記憶はばっちりあるからとにかく面白くない。
そんな自分を見つけて面白そうに声を掛けてくる人間がいるものだから、更に腹立たしい。
「よくないなあ……護衛役が隠れて深酒なんて、上役にバレたら叱責ものだよねえ?」
声を掛けてきたのは指南役補佐の細川忠利だった。
名家の生まれとあって剣術やお茶のお点前など腕スキルは大したものらしく、学寮でそうした授業の補佐役を務めている。
「……うるせえな。頭が痛えんだからますます具合が悪くなることなんて言うんじゃねえよ」
「お抹茶でも点ててあげようか? めちゃくちゃ濃いやつ」
「はああ……頼むぜ。まったくえれえ目に遭った。この歳になって悪夢を見るなんて冗談じゃねえぜ」
そんなことよりもーーと忠利が言葉を続けるものだから、「そんなこととはなんだよ、そんなこととは」と勝丸は怒りの声を上げる。
「聞いたかい? 近々、上覧試合が行われるらしいよ」
忠利は周囲を伺い、勝丸に小声で耳打ちした。
「なんだと!」
「剣術の上覧試合さ。私も今朝師範殿から聞いたばかりだよ」
忠利が視線をやった先には眼光鋭い屈強な剣術家がいる。
将軍・秀忠公の剣術指南役も任されているという、学寮の剣術師範ーー柳生宗矩。
上覧試合ーーそれは学寮で時折行われる恒例行事である。
学寮へ各地の大名が集められて二年あまり。それは一年に三、四回も行われるという生徒たちの授業観覧会のひとつだった。
「おええ……そういうものもあると話には聞いていたが……そんな面倒くせえ行事がとうとう……」
「まあね。ちょうど初夏のいい季節だしね。ここらで何か一発やりたいんだろうさ。日々勉学だけだとみんな張り合いもないから」
試合には将軍や徳川の重臣はもちろん、生徒たちの保護者にも便りが出され、観覧が推奨される。
殊の外面倒な保護者ばかりが揃う鶴寮にとっては途方もなく気が重い行事となることは間違いなかった。
「君もまだここへ来て日が浅いから知らないと思うけど、剣術やお茶のお点前の授業の成果を発表する時は大々的にやるんだよね。特に剣術の上覧試合は上様のお気に入りみたいでさ。前回は東西の御殿の寮の生徒の試合がかなり盛り上がったんだ。ほら、東西には上様の弟君がいらっしゃるからね。だから……」
「だから?」
「前回試合をしていない寮の生徒は、今回試合をすると思うよ。例えば君の寮とか」
勝丸は無言で忠利を見つめる。
「……へえ。なるほど? うちの寮が?」
「北の御殿は前回の上覧試合じゃ割菱の寮が試合をしたんだけどさ……まあ、存外大変な有様でね」
勝丸と忠利は道場の隅で声をあげている三人に目を向けた。北の御殿・割菱の寮生である。
一番小柄な生徒が、頭から黒いずきんをすっぽり被った生徒に食って掛かって暴れている。
「こらあああ……だ、だめだろ権平……大人しくして! さあ、授業が終わったんだから、部屋へ帰ろう」
それを押さえているのが、一番身体が大きな生徒ーー松前甚五郎である。
権平と呼ばれた小柄な生徒は不思議な羽織を着ていた。背中から伸びた手綱のようなものを甚五郎が強く握っている。
「前から思っていたが、おかしなものを着てるなああいつ」
「珍しいよね。熊に着せるものらしいよ。蝦夷の島の民というのは、拾った子熊にあれを着せて人のように育てるんだって。南部権平はずいぶん暴れるからなあ……熊というのも言い得て妙だと思うよね」
「……もともと、南部権平は実家でも手に負えない暴れん坊だからってんであの歳で学寮へ入れられてるんだろ? そういう使い方をするところじゃあねえだろう、ここは……まったく!」
「そうらしいよ。甚五郎も大変だなあ。南部と津軽の板挟みになんてなっちゃってさ」
三日月が丸くなるまで南部領ーーと謳われたほど、かつては陸奥に広大な領土を有したという南部家と、そういう家から独立して大名となった傑物を要する津軽家は、まさに不倶戴天とも言うべき間柄だった。当然学寮の教師陣も知っている。
だからといって、南部権平が隙あらば同寮の津軽熊千代の命を狙っていることはもちろん見過ごせない。
「……だのに、そんなあぶねえ割菱の寮には護衛役さえいねえってんだから、ここも存外闇が深えじゃねえかよ。所詮守られるべきは徳川のお血筋に近しい生徒だけってこった。そういう生徒がいねえ寮に主務が配置されねえということは、奥州の田舎大名から出仕してる連中なんぞ知らんということだろ?」
「まあねえ……しかし、南部と津軽の対立は本人たちの問題だからなあ。それを学寮の側がどうにかしてやる義理もないというか……ここも人手が足りないんだよ。私なんて、江戸で暇そうにしているという理由だけでここで働かされているんだからねえ」
名家の三男坊はまったくお気楽なものだ。
しかし――勝丸はどうにも解せない。
御殿の寮編成は学寮長や将軍様が決めたと言われている。領国が近しい、国境を接するような家から出仕した生徒同士が一つの寮に纏められていると。
しかし、不倶戴天の間柄である南部と津軽とを一つの寮にまとめる理由がはたして本当にあるだろうか?
自分の寮生である伊達や蒲生、上杉だって決して仲が良いとは言えない。むしろ乱世の時代からの禍根があるのだから、とにかくこの三家を一所に揃えたことはまずかった。
例えば、いとこ同士であるという蒲生の若殿と南部権平とを同寮にし、そこへ歳の割にタフな上杉千徳を加える。上杉というのは万事我関せず好きなことをしているような家風であるから、忠郷と権平が仲良くしていれば独りで好きなことをして過ごすだろう。
そうして隣の寮には最年長者で面倒見もよい松前甚五郎と伊達総次郎とを揃え、色々と事情があるという津軽熊千代を見てもらうーーこれだけでも今よりずっと喧嘩や揉め事が減るだろう。
とにかく、南部と津軽、蒲生と伊達を離すだけでもいいのに。
(……それなのに、現実はこの寮編成。こいつは考え得る限り最も悪手な編成じゃあねえかと思うがね……)
勝丸は遠巻きに割菱の寮生らと鶴寮の生徒らを眺める。
自分の仕事は生徒の護衛だーー特に、徳川の血筋に近しい生徒。つまり蒲生忠郷の護衛こそが最優先、ということになる。
当然、武芸の稽古も監視する。
ただ、彼は武芸の授業には一切参加しないのが常だった。今日も道場の隅で一人腰を下ろしている。
「上覧試合なんて言ったって……蒲生忠郷はあんな調子なんだぜ? ここへ来て木刀も竹刀も握っているのを一度も見たことがねえよ」
「そうだよねえ。だから一体どうするのかなあと思ってさ。あそこは御母上さまがもんのすごく煩いんだよ。武道だの馬術だの、そういう危ないことは一切させるなとお達しが来ているらしくってね……剣術の試合だなんて、とてもお許しにはならないだろうなあ。でも、三人一組の寮対抗試合だから……」
蒲生忠郷が試合を欠席するということは、不戦勝で鶴寮に一つ黒星が付くということになる。
そんなことを他の二人ーーもとい、二人の保護者たちが許すだろうか。
出来の良い嫡男をとにかく自慢している伊達政宗は上覧試合でも息子の活躍を楽しみにしているに違いないし、武芸の上覧試合ともなれば尚武の名家を自称する上杉にとってもひどく重要であることは間違いない。
「……こりゃあ、また面倒なことになるに違いねえじゃねえかよ」
勝丸は先日の茶席での保護者たちの様子を思い出して、いよいよ頭痛がひどくなるのを感じた。
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