その標に依りて

ナナシイ

潮目

 波止場の上で、おやっさんは漁網を繕っていた。黙々と、ほつれた箇所を直しているようであった。俺が近付いて行くのにも気づかないでいた。

 堪らなくなって俺は声を掛けた。

 ――おい、おやっさん、彰見てねえか。

 ――ああ!?なんだ、大悟か。彰がどうかしたのか。

 ――どうもこうもねえよ、またあいつ学校に来てねえんだ。

 ――何でい、あいつから勉強取っちまったら、何にも残らねえじゃねえか。あのなまっちろい体じゃ、漁師にもなれやしねえ。

 ――だからよ、俺も心配なんだ。

 ――どんくらいになる。

 ――もう一週間だ、先公も何にも知らねえって抜かしやがるんだ。

 ――そりゃあ変だ、確かに変だ。

 おやっさんは完全に手を止め、考え込んでしまった。

 ――おやっさん、俺もう行くよ。

 ――あ、ああすまねえ……。よう、大悟よう。

 おやっさんは立ち上がり、俺の肩を叩いて来た。

 ――何だよ。

 ――分からねえがよ。あの真面目な野郎だからよ、何かあるんだろう。助けてやんな、友達だろう。

 ――ああ、一番のな。


     *


 俺は波止場を離れ、川の側を、上流に向かって歩いて行った。あいつが何処にいるか、それは見当がついていた。おやっさんに話しかけたのは、踏ん切りがつかなかっただけの事であった。あいつは何処か遠い所に行ってしまっている、それは馬鹿な俺でも分かる事であった。あいつと暮らして来た長い年月を思うと、それは如何とも寂しい事であった。あいつに掛ける言葉が思いつかなかった。しかし、その間にも体はあいつの方へと引っ張られて行ってしまっていた。そして、俺の考えがまとまる前に、俺はあいつの事を見つけてしまったのだった。

 あいつは、彰は、川縁の土手に丸まって、座り込んでいた。体は川の方を向いている。そうしてじっと、ただじっとしていたのだった。

 俺は彰の後ろに立ち止まって考えた。しかし、やはり何も良い言葉なんてものは、浮かんでこなかった。

 そうして、堪え切れずに出てきた言葉はありきたりなものだった。

 ――おう彰、何しとんじゃ。

 俺が声を掛けると、彰は俺の方をちらと見た。

 ――あ、大悟か。

 しかし、視線は直ぐに川の方へと戻ってしまった。

 ――近頃、お前はなして学校にこんのじゃ。

 ――なんだか、分からなくなってしまって。

 ――何が。

 ――人生の意味というか……。

 ――何じゃあそりゃ。

 俺は彰の隣まで歩いて行き、そこに彰と同じ格好で座り込んだ。

 ――人生なんて大層な事考えんでもよう、ようはひたすら目の前にある仕事をちゃんとやっていけば済む話でねえか。それで嫁さん貰って、子供もこさえて、そこそこに好きな事をやって、幾らか幸せになりゃあ、それでいいんじゃねえのか。

 ――いいな大悟は、単純でさ。

 ――何だよ、馬鹿にしてんのか。

 ――いや、その方がいいんだよ、うらやましいよ……なあ大悟、例えばこの川が氾濫して、町が洪水になって、全部流されちまったらどうする。

 ――何だそりゃ。

 ――例えばの話さ。

 ――そりゃ決まってら、また元通り作り直しゃいいだろうが。

 ――本当にそうだろうか。二回、三回、何度も洪水が襲ってきても、そう言えるだろうか。お前はそれでもいいかもしれない。しかし、皆は疲れてしまうんじゃないか、皆どこかに行ってしまうんじゃないか。俺にはそう思えるんだ。

 ――だったらよう、でかい堤防でも何でも作って、川の氾濫なんか防いじまえばいい。お前の頭だったらよ、うんと偉くなってよ、そういう事が出来るんじゃねえか。

 ――さあ、どうだろうな……。

 彰は急に立ち上がった。

 ――なあ、大悟、川を見てみろ。川はずっと流れている。一度として同じ水が川を流れる事は無いんだ。

 ――はあ。

 それきり彰は黙ってしまった。俺は何も言えなくなってしまった。

 日が傾き始めた。川の水面もまた、段々と朱に染まって行った。

 彰は自分の家の方向に向かって歩き始めた。俺の家もその方向にあった。俺は彰の後に続いた。俺達は黙って歩き続けた。何も言えなかった。何も言えなかったのだ。そうして、彰の家の前に着いてしまったのだ。

 彰は小さな門に手をかけ、開いた。そして、そのまま家の中に入ろうとした。直観である。もう会えないという予感が生じた。俺は慌てた。そうして、ありきたりの言葉が口から漏れ出た。

 ――なあ、明日は学校に来てくれよ。

 ちらと振り返ると、彼は意地悪く微笑んだ。

 ――何で。

 ――何でって、そりゃあ……、寂しいじゃねえか。

 彰は微かに笑った。そして、彰はそのまま家の中へと吸い込まれてしまった。


       *


 月の光に照らされながら、小舟が一艘川の上を下ってくる、俺はその小舟を岸の上から眺めていた。

 舟に乗っているのは、彰だった。彰は舟の先頭に立ち、櫂で持って舟を操っていた。

 彰は何一つ、衣服を身に着けていなかった。彼は舟を漕ぐには似つかわしくない、細見で生白いその躰を、月の前にさらけ出していた。

 彰はじっと前を見つめ、殆ど動かなかった。流れるに任せ、何処かにぶつかりそうになった時にだけ、彰は櫂を使った。だが、その動きも最小限だった。無駄がなかったのだ。

 彰が俺に気付いているのかいないのか、それは分からなかった。少なくとも彰は俺の方を見てはいなかった。そして、俺の前を通り過ぎる時も、彰は前だけを見ていた。俺の方をちらりとも見ることはなかった。一定の速度を保ったまま、彰は滑る様に川を下って行った。遠ざかっていく彰は段々と小さくなり、やがて見えなくなった。彰は行ってしまったのだ。

 ――彰!

 俺は布団の中から跳ね起きた。それは夢だった。

 俺は着ていたシャツに、嫌な汗が染み込むのを感じていた。


       *


 ――え、転校した? 何処へ?

 ――イタリアよ。彰君ね、あなたには自分から言うって、皆には口止めしていのよ。結局、何も言わなかったのね。

 ――そんな、あいつは一言も……。

 ――なんだか、ごめんなさいね。

 ――じゃあ先生、あいつにはもう会えないっていうんですか。

 ――親御さんの意向らしくってね、父親が向こうで働いているから、どうせなら一年くらい暮らしてみないかっていう、そういう話だそうで。

 ――あいつの父親は、あいつを捨てたんじゃなかったのかよ。

 ――よりを戻したらしいわよ。だからね、大悟君、もしかしたら、またこっちに帰って来る事もあるかもしれないわ。

 ――そんなの、わかりゃしないよ。

 俺は立ち上がって教室から出ていった。気付けば俺は走っていた。そうして、海の前までやって来た。半ば無意識に、俺は叫んでいた。

 海は、俺の叫びとは無関係に、ただ悠然と構えていた。そして海は、俺達の間に隔たっていた。

 嗚呼、潮目が変わったのだ。あいつはもう、ここにはいないのだ……。

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