第31話 皇城イターナルでの戦い17 戦いの終わり

「まだ切り札が残っていただろ?それに兄貴だって決して凡庸な人じゃない。何で諦めちまったんだ?オヤジらしくも無い…。」


 皇城イターナル北東部の地下。

 厳重に出入りを管理された地下牢の一つに、オブスクーロとルヴィドの二人が入れられていた。


 同じく連行されて来た部下達は隣や向かいの牢に入れられているが、誰も口を開かない。


 ルヴィドがオブスクーロに投げかけた疑問。

 反響して聞こえてくるその声に、ただ耳を澄ますのみであった。


「確かにアロガンは有能な息子だ。ルヴィド、お前と同じくな。しかしあやつはお前と違って、最前線での戦いをほとんど経験した事が無い。知略戦においても、武力戦においてもな。それは跡取り息子を失うことを、どうしても避けたかったワシ自身の甘さが生み出した結果だ。」


「それは俺もよく知っている。兄貴を羨ましいと思った事は、十や二十じゃきかないからな。それでもアロガンの兄貴は…」


 ルヴィドの言葉を遮るかの様に、オブスクーロが横に首を振った。


「あやつにはいつも最後尾にて、ワシの策に穴があった時の為の対応を任せてきた。お前も知っている通り、ワシは策に保険を二つも三つもかけておく。その中の最終手段をいつも任されてきたあやつは、己に出番が回って来る事が今まで無かった。それ故に今回も城外にて『不測の事態の為に待機』と指示され、ウンザリしていた事だろう。」


 ここまで聞いていても、未だにオブスクーロの諦めた理由が見えてこない。

 その不満が顔に出たルヴィドを見て、オブスクーロは弱々しく笑った。


「あやつにはジェネラル級傭兵団『プリマ・クラッセ』と交わした契約書を渡してある。それには必ず目を通しておけと言っておいたが…多分通しておらんだろう。

しかし契約書の最後には、団長ブルローネが何度も念を押してきた事が記載されている。三年前の事件にあの戦士が関係していると聞いて、今回は無関係である事を何度もワシに確認し、条件としても付け加えられた馬鹿みたいな項目がな。」


 ルヴィドはそこまで聞くと「まさか」とは思ったが、自分の思い違いである事を願ってオブスクーロに聞いた。


「そこには何と書いてあるんだ?」


 オブスクーロは俯き、暫く沈黙した。

 そしてゆっくりと顔を上げると、ため息をつきながら口を開いた。


「文そのものを暗記している訳では無いがな。要約すると…ジェネラル級傭兵団『プリマ・クラッセ』は、戦士バッシュが今回の件に関与していない事を条件に、今契約を結ぶものとする。そしてもしも戦士バッシュの姿を確認する事があったならば…」


 オブスクーロはルヴィドと目を合わせた。

 そこに三十年以上宰相の位に君臨し続けてきた男の眼光は無く、疲れ果てた老人の瞳だけがあった。


「その場で全ての権利と責任を放棄し、即刻撤退するものとする…だったかな。」


 オブスクーロが言い終わると、暫くの間静寂が訪れた。


 部下達は項垂れており、オブスクーロは再び俯いた。

 ルヴィドはオブスクーロから離れて立ち上がると、壁に薄く映る自分の影を見つめた。


「結局、バッシュという戦士一人に全ての策を潰された…って事か。」


 ルヴィドが弱々しく言うと、オブスクーロがそれに応える。


「表面だけ見ればそうだな。しかしそのバッシュを探し出してブルーマウンテンへと誘い込み、追跡させる形で皇城まで誘導したのはシュバルツだ。その結果、絶対的な切り札が次々と無力化されてしまった。ワシはあの戦士に負けたというよりも、むしろシュバルツに負けたのかもしれないな…。」


 牢内の冷たい空気が、敗北感に重みを加える。

 僅かな灯りで作り出された影は色も輪郭も朧げで、まるでそこに墨色の誰かが佇んでいるかの様にも見えた。


◆◆◆


 皇城イターナルを覆う外壁は、南側の大門からしか出入りができない。

 それでも万全を期する様にとオブスクーロからの指示を受け、二千の兵を均等に並ばせて堀を包囲していた。


 よって今、アロガンの前では約三千の兵が横陣を敷いている。

 その横陣は五百人ずつの六層に分けられており、第一層は近衛騎士団団長クラークによって瞬く間に突破された。


 少し間を設けられている第二層への空間。

 そこを獣の形相で疾走するクラーク。

 その後を残りの者達が追走し、クラークと共に第二層へと突撃した。


「報告!第一層は敵将クラークにより突破されましたが、第二層の後方で辛うじて足止めに成功。第一層の者達は反転し、第三層は前進を始めました。まもなく包囲殲滅へ入るとの事です。」


「よーし!よしよし。」


 アロガンは焦りを隠すかの様に、首を縦に振った。


 それも仕方がない。

 敵の数は百五十に満たないというのに、五百人で構成される第一層の横陣が瞬く間に突破されてしまったのだから。


 しかし今は百五十の敵を千を超える兵が囲み、前後合わせての挟み撃ちへと展開している。

 どう考えても、これで決着だ。


 しかも報告によると、団長クラークはどこかを負傷しているとの事。

 それを証明するかの様に第二層突撃時には、あの恐ろしい突破力が萎む風船の様に失われていったのであった。


「報告!反転した第一層の者達が敵の殿へ攻撃を仕掛けましたが、ほとんど撃破されてしまいました!」


「はあ?」


 口を大きく開け、アロガンは思わず間抜けな声を出してしまった。


「報告!敵将クラークはやはり負傷している様で、腹部からかなりの出血があることを確認しました!」


「よ…よーし!よしよし。」


 目を泳がせながらアロガンは頷くが、胃の奥がキリキリと痛むのを感じていた。


ーーな、何だこの緊張感は…。

  最前線とはこんなにも空気が重いものなのか…。


 初めて取る事になった戦闘の采配。

 それは夢にまで見た実戦であったが、妙な緊張感と不穏な雲行きにアロガンの鼓動は早鐘を打っていた。


「報告!敵将クラークが退がり、代りに最後尾にいた戦士が先頭に立ちましたが、その突撃を止められません!第三層は壊滅!まもなく第四層との戦闘に入るものと思われます!」


「はあ?」


 再び口を開け放つアロガン。

 暫く放心状態になるが、頭を激しく振って現実に戻って来た。


「そ、そんな馬鹿な事があるか!敵は百五十しかいないんだぞ!そういえば…敵の被害は?敵の被害は、どれくらい出ているんだ!」


「は!敵は多数の負傷者を出しておりますが、未だ一人も戦死者を出していないとの事です!」


「はあ?」


「敵にはクラーク以外にも相当な手練達が揃えられており、その者達が絶妙な立ち回りを…」

「ほ、報告!第四層突破されました!まもなく第五層との戦闘に入るものと思われます!」


 報告の声を遮って述べられた、新たな報告。

 それを聞いたアロガンの顔面は蒼白になった。


「な…何だ!何が起きている?バ…バッシュと言ったか?ブルローネが言っていた戦士は…。これがその戦士の仕業だと言うのか?一体何なんだ、そいつは!!」


 アロガンは大声で周囲に喚き散らした。

 その大声による癇癪の様子は、まさに父親であるオブスクーロの生き写しであった。


「随分とお困りの様子ですな、アロガン卿。」


 突然アロガンの背後から話しかけたのは、巨大なモーニングスターを持った髭面の冒険者。

 傷だらけで獰猛な面構えだが、ボルグには一歩及ばない凶悪犯顔である。


 その冒険者の後ろには六人のチームメンバーが控えていた。

 身に纏う装備の質が、高クラスの冒険者チームであることを物語っている。


「…リスタネグラか。そういえばお前というカードが、俺には残されていたのだったな。」


 アロガンがリスタネグラと呼んだのは、ラーズ帝国でも非道で有名なクラス・プラチナの冒険者であった。


 何故非道な者がクラス・プラチナという高クラスの冒険者に認定されているのか。

 それは非道を行った後の尻尾を、誰にも掴ませないからである。


 そこにあるのは、徹底した証拠隠滅。

 相手を選ばない口封じ。


 ギルドにあるブラックリストを開けば、冒険者であるのに名前が出てくる。

 それがリスタネグラという冒険者なのであった。


 そんなリスタネグラであるが、その実力は折り紙付き。


 大型魔獣の討伐数はラーズ帝国のギルド内で常にトップを走り、依頼達成率は驚異の百パーセントを叩き出していた。

 ただそこに全く不正が無かったとは、当然言えない。


 ボルグとは違い、顔と人格が完全に一致している冒険者リスタネグラ。


 アロガンはオブスクーロの失策など全く疑っていなかったが、それでも不測時の保険としてリスタネグラを用意していた。

 そんな彼は紛れもなく父親の血を色濃く受け継いだ、サーペント家の跡取り息子であった。


「最近、バッシュとかいうホラ吹き冒険者の名をよく耳にするのですが…。今そいつが敵の先頭に立っているわけですな?」


 リスタネグラが矮小な存在でも見るかのように、戦場へと目を向ける。

 すると少し落ち着きを取り戻したアロガンが尋ねた。


「そのバッシュとやらを、お前は討ち取って来られるのか?」


 リスタネグラは鼻で笑い、アロガンの問いに答えた。


「アロガン卿、あまりにも戯れが過ぎますぞ…。私が討伐してきた数々の大型魔獣と比べれば、実の無い噂を自ら広めている冒険者一人を討ち取ることなど、庭に生えた草を摘み取るようなものですからな。」


 強者が纏う空気と自信に溢れた言葉を一身に受けて、アロガンの心が平静を取り戻した。


「そこまで言うのであれば、頼むとしようか。リスタネグラよ。冒険者バッシュの首を…」

「おお〜っと!!」


 アロガンが依頼を言い終える前に、左手を前へと突き出して言葉を静止したリスタネグラ。

 片眉を上げて口端を吊り上げると、覗き込むようにアロガンを見つめた。


「その前に約束して頂きたいことがあります、アロガン卿…。」


 暫くの間二人が視線を交差させると、アロガンが鼻から息を出して先に口を開いた。


「分かった分かった。ここで確かに約束しよう。この依頼を見事達成した暁には、ラーズ帝国唯一の冒険者『マスタークラス』への推薦を、サーペント家の名において行うことを。」


 それを聞いたリスタネグラは満面の笑みを浮かべ、そして一礼した。


「承りました、アロガン卿。すぐさまホラ吹きバッシュを討ち取り、その首をアロガン卿の御前にお持ち致します。」


 頭を上げたリスタネグラは後ろにいた六人に合図を送り、兵達を押しのけながら第六層横陣の前へと進んで行った。


 だが現在、敵が交戦しているのは第五層の兵達。

 そこは各貴族の私兵達から選び抜かれた、手練れのみで形成されている横陣。


 リスタネグラ達の出番は無いと考えるのが順当であろうと、アロガンが考えていると…


「報告!第五層突破されました!相手側には多少の死傷者が出た様ですが、こちらの主力部隊は壊滅したとのことです!」


 再びアロガンの鼓動が、耳に聞こえるほどの音を鳴らし始めた。


「だ、大丈夫だ。たった今、リスタネグラ達が前に出て行ったのだ。奴等ならば…バッシュなどという…訳の分からない戦士など…」


「報告!冒険者リスタネグラ達が撃破されました!敵の突撃を止められません!ただ今第六層との戦闘に入った様ですが、本陣に迫られるのも時間の問題と思われます!」


「ヒィ!!」


 息を吸い込みながら、アロガンは腰を抜かした。


「ば…馬鹿な!何なんだ…一体何がこっちに向かって来ているんだ!」


 両脇を抱えられながら起こされると、アロガンは蒼白な顔色と共に周囲の兵に指示を出す。


「に、逃げるぞ…撤退だ!戦える者はできるだけ敵の足止めをしろ!とにかく私だけでもここから離れ…」


 アロガンが喚きながら外壁の大門へと目を向けると、そこには二人の人物が道を塞ぐ様にして立っていた。


 一人は墨色の布を全身に纏っているが、明らかに暗殺者であることが分かった。

 そしてもう一人は銀髪のダークエルフであり、隣に立つ暗殺者の肩に体ごともたれかかっている。


「ここからが良いところなのにさぁ〜。な〜んか逃げるとか言ってるよ?どう思う?グリスちゃん。」

「グ…グリスちゃん?」


「え、なになに?もしかして照れちゃった?んじゃあ他に『グリグリ』、『グリタン』、『グリッピー』とかあるけど、どれが良い?」


「………。」


 まるで場違いな会話をしている怪しい二人組。

 それを見たアロガンの側近二十名が飛び出し、剣を抜いて左右から襲いかかった。


「グリポンは右をよろしく〜!」

「グ…グリポン…。」


 左右に分かれ、側近達へと走りだした怪しい二人。


 墨色の者はマチェットを引き抜くと、側近達が振り下ろした剣を軽々と躱して脇をすり抜けてゆく。

 すると側近達は気づかぬ内に次々と首を切られ、血を撒き散らしながら倒れていった。


 一方ダークエルフはというと、いつの間にか側近達の背後へと移動していた。

 そして銀色の髪をこれ見よがしにかき上げると…側近達の首に赤い筋が走り、ほぼ同時に全ての頭が首から離れて刎ね上がった。


「ん〜?もうちょっとマチェットの振りにキレが欲しいかなぁ?頑張ろうねぇ〜、グリグリチャッピー!」

「チャ…チャッピー?」


 グリグリはまだ分かる。

 そんな目で墨色の布を纏う男が、ダークエルフを見てたじろいていた。


 化け物じみた実力を見せつけた二人。

 それを見た周囲の兵達は明らかに怖気付いた。


 その中で最も腰の引けていたアロガンが膝をガクガクと震わせていると、銀髪のダークエルフが優雅に一礼をして口を開いた。


「皆様…本日の主賓が、御到着でございます。」


 披露宴の司会者が話す様な口調でダークエルフが言い終えると、それを見ていたアロガンの背後で大きな激突音が響き地面を震わせた。


 その直後、周囲へと振ってくる兵の雨。

 見た事も聞いた事も無い光景を前に、呼吸の仕方さえアロガンは忘れてしまった。


 口をパクパク開け閉めして、何とか呼吸を試みるアロガン。


 その直後、背後に偉大な何かが到着したのを感じたアロガンは、生まれたての小鹿の様に震えながら振り返った。


「お前がアロガン・レイ・サーペントだな?」


 そこにいたのは白のフルプレートを纏った重戦士。

 右手に持つバトルハンマーではなく何故かタワーシールドが前に構えられると、そこでアロガンの意識は完全に途絶えた。


◆◆◆


「終わった様だな。」

「…はい。」


 皇城の最上階。

 外壁の外まで一望できる監視室には、レオハルトとカルマンの二人がいた。


 使っていた最高級の遠眼鏡を机に置くとレオハルトは椅子に座り、そして大きく息を吐いた。


 別の遠眼鏡にて戦況を見守っていたカルマンは、そのままの状態でゆっくりと目を閉じた。


 城外で繰り広げられた戦いは、歴史を広く紐解いても稀であろう快進撃。


 攻城戦ではなく平地戦における百五十対八千という、絶望的な戦い。


 一本の矢の様に伸びた寡兵が真っ直ぐに突撃し、三千名もの傭兵達を追い払う姿は『爽快』の一言。


 そこから更に見せたのは、六層に重ねられた横陣の突破劇。


 エルフ族の古代王は『星撃せいげきの射手』と称され、未だにその偉業を讃えられている。

 彼の放った全力の矢は星を穿ち、そのまま六つの星々を貫いたという。


 カルマンは昔立ち寄った村で聞いたお伽話を思い出し、今日の様な突破劇が百年後には形を変えてお伽話になるのだろう…と思いを巡らせていた。


「ところで…」


 レオハルトが口を開く。


「結局クラークは傷が開いてしまい、戦闘不能になったということか?」


 カルマンは無言で失笑すると、外の様子を見ながら答えた。


「戦闘不能というよりも、先頭にて敵陣を突破する事が困難になったのだと思います。ここまで負けが続いたのは団長に就任してからは無かった事ですから、確実に胸中は穏やかで無かったでしょう。とは言っても、全力を出した挙句の結果がこれとは…。戻ってきたら陛下からもキツく言って頂きたいと思います。」


「ハハハ。相変わらずカルマンはクラークに厳しいな。まぁ、そう言うな。クラークが命がけで奮戦した事に違いは無いのだから。」


 レオハルトが笑いながら言うとカルマンは暫く沈黙し、そして振り返った。


「正直なところ、穏やかでは無いクラークの胸中は痛いほど分かります。結果的に陛下をお守りする事はできましたが、それは戦士バッシュがいてようやく手が届いたという結果。そこには本来、近衛騎士団団長クラークがいたからと表現されるべきです。もしくは暗部頭の名が…。自惚れずに精進しているつもりでしたが、私達は心の何処かで慢心していたのかもしれません。」


 上には上がいる。

 ならばそこに手が届くほど強くなりたい。


 そう語るカルマンの目の光を見て、レオハルトは満足げに微笑んだ。


「余は正直、お前達が慢心していたなどとは思っていない。だがお前の口からその言葉が出てきたのであれば、今回の事件で我々は大きな収穫を得た事になるだろう。それについては勿論、長年の悩みであったサーペント家の事についても、バッシュには感謝せねばならぬだろうな…。」


 そこまで聞くとカルマンは目を少し細め、レオハルトに尋ねた。


「すると陛下…三年前にバッシュが願い出た件を、再考されるのですか?」


 レオハルトとカルマンの視線が暫く交差した。


「保留としていた一番の理由が、サーペント家とオブスクーロにあったからな。バッシュの言っていたことは、眉唾ものではある。しかしもしそれが本当に起きうるのであれば、ラーズ帝国としても何かしらの準備をしておかねばならぬだろう。」


 レオハルトは話を一旦切ったが、カルマンの視線がそこから動くことはなかった。


「陛下…。陛下はヴィッツという少年ホビットの師匠が、エムロードだと知っていたのではないですか?」


 カルマンの鋭い視線がレオハルトに向けられた。

 それは決してレオハルトを責める様な視線ではない。


 しかしこれだけは是が非でも教えて欲しいという強さが、そこには込められていた。


「そう怖い目をするなカルマン。お前達にまで黙っていた事は謝ろう。ただあのバッシュが雰囲気を変えて、他言無用の秘密事項だと凄むのでな。そこは少し察してくれ。だが時を見て、お前達に伝えるつもりでいたのは確かなのだ。」


 レオハルトが苦々しく言うと、カルマンは頭を下げた。


「いえ、私の方こそ申し訳ありません。出過ぎた真似を致しました。しかし陛下、ではエムロードは…」


「ああ。バッシュによると…生きているとの事だ。」


 ヴィッツが自分の師匠はエムロードだと言った時。

 その時からずっと「もしかして…」とは思っていた。


 しかしそれとは同じくらい「いやいや、そんな事は無い」と、己の心に言い聞かせていた。


 カルマンは口の中で形になった言葉を、声として出す事ができなかった。


 レオハルトから伝えられた事実は、まるで夢の中での出来事。

 今、少しでも体を動かすと…。

 瞬き一つでもすると…。


「ある日元気な姿で帰ってくるかも」と心の片隅から消えなかった妄想は瞼を閉じると何度も夢となり、覚める度に心は打ち拉がれた。


 今この瞬間がたとえ夢だったとしても…。

 また覚めてしまって、もがき苦しむのだとしても…。

 少しでもこの喜びに浸り続けたい。


 そう願うカルマンの目から流れ出た涙。

 それはいつの間にか首元にまで到達していた。


 レオハルトはカルマンの顔を見ない。


 影の道に生きる男が流す涙。

 それは決して他人に見られてはならない、心の素顔であるのだから。

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