第22話 皇城イターナルでの戦い8 技と意志

 太刀を頭上に構えると、この世界に重力があるという感覚を両腕に得ることができる。


 では頭上の太刀は重力の誘いを受けて、そのまま真下へ落下しようとしているのか?

 その問いに対する答えは『違う』だ。


 太刀は常に切っ尖から前へ向かおうとしている。

 それは決して理屈ではない。


 敢えて表現するのであれば、太刀から伝わってくる意思がそうしているとでも言えようか。


 それに逆らう事なく、太刀を前へと振り下ろしてみる。

 その直後、返ってくる意思は同じく『違う』だ。


 もう一度同じ事を繰り返してみる。

 だがやはり返ってくる意思は『違う』だ。


 それは何度繰り返しても変わらない。

 いつも決まりきった反応。


 三歳の時から数えて十年間。

 寝る間も削りに削って振り続けたが、太刀からの反応は何も変わらなかった。


 思い返せば意地になっていたのかも知れない。

 何をしても「痛い」と決して言わない偏屈オヤジがいたら、何とかして痛いと言わせてやると躍起になる子供心。

 それに似た稚拙な感情だったようにも思える。


 そこから振り続けて更に二十年。

 それは人が聞けば「気狂いだ」と、馬鹿にされてもおかしくはない日々。


 できる事は何でもやった。

 剛剣ごうけんを極め、教えを請う師を失ったワシは、未だ極めきれていない偽剣ぎけんの修錬に専念した。


 三大流派であるのと同時に、三竦みの関係である剛剣ごうけん柔剣じゅうけん偽剣ぎけん


 直進的な剛剣ごうけんは流れを操る柔剣じゅうけんを苦手とし、流れを誤魔化す偽剣ぎけん柔剣じゅうけんは苦手とする。


 そして虚の動きを含む偽剣ぎけんは、無駄を省いた実の動きに徹する剛剣ごうけんに押し負けることが多い。


 柔剣じゅうけんに何度も苦渋を舐めさせられていたワシは、当然の様に偽剣ぎけんの同時習得を試みていた。


 そして七年の月日を経て偽剣ぎけんの極みへと達した時、周りからは「剣聖」と称される様になっていた。


 三大流派の内、二つの流派を極めた者を指す称号。

 それが剣聖。


 そんなものがあると聞いたことがあったな…というのが当時のワシの感想であった。

 正直周りから何と呼ばれようと、ワシにはどうでもよかったのだ。


 弟子入りを願う者が溢れてしまった事が煩わしかったが、教えることによって見えてくる境地があると師から教わったことがある。


 全ては自分を次の段階へと進める為。

 そこに力は惜しまなかった。


 弟子達の修行を邪魔する盗賊や、タチの悪い傭兵団などを懲らしめたこともあったな。

 魔獣は技の練度を確認するために、片っ端から討伐していった。


 大型魔獣は一人で狩るのが良い。

 存分に技を試せるからな。


 全ては自分の為にやったこと。

 恩返しや報酬など、全く必要ない。


 しかし、その姿が周りの者達には聖人君子の様に見えたのだろう。


「道徳と礼節を重んじる、歴代最高の剣聖エクセレトス。」


 そう言われていると聞いた時には、込み上げてくる笑いのせいで一日中太刀筋が狂ってしまったものだ。


 周りからの評価とは、真に滑稽なものよ。

 そんなものに一喜一憂することの何と愚かなことか。


 どうでも良いのだ、ワシにとっては。

 周りからの評価も、村人からの感謝も、剣聖というくだらない称号も。


 ただ四十年近く振り続けても尚、『違う』と反応してくる感覚を黙らせること以外はどうでも良かった。


 今思えば太刀を初めて手にしたあの日から、ワシは恋い焦がれていたのであろうな…。

 その相手に『違う』と言われ続けたから、どうしても振り向いて欲しかっただけなのかもしれない。


 齢五十を目前にして、心の中に全く諦めが無かったと言えば嘘になる。


 太刀から伝わって来る感覚も『違う』以外のものは存在しないのだと、無理やり納得しようとしている節さえあった。


 しかしそれと同時に、何となく見えてきているものがあったのも事実であった。


 理想となる太刀筋は常に目の前にある。

 しかしそれを己の未熟な体が、そして心のあり方が邪魔をしているのだ。


 太刀の意思に抗うな。

 伝わって来る心のまま、ただ真っ直ぐに振り下ろすのだ。


 人が人を呪う時ですら、ここまで繰り返す事は無いだろう。

 そう思えるほど心の中で念じながら、ひたすらに太刀を振り続けた。


 しかし、それでもその恋が成就することは無かった。


 そしてあの日。

 雨と風が踊り狂い、道場の屋根が丸ごと吹き飛ばされた日。


 川の氾濫を阻止する為に奔走している村人達の下に、弟子達を手伝いに向かわせた。


 道場の事は後回しで良いと言った事に感動している弟子もいたが、ワシはただ独りで荒れ狂う雨と風を直に感じたかっただけであった。


 屋根の無い道場の中央に座り、雨風に身をさらした。


 人生五十年。

 あとどれだけの時間が残されているのか分からない。

 技は練磨されたが、力は確実に失われてきている。


 未だ常勝であり続けられるのは、単に自分以上の才と出会わなかっただけなのかも知れない。


 報われない人生であった…。


 剣士の頂点に立ち、物好きな妻と契った。

 沢山の子宝にも恵まれ、才を受け継いだ者は既に達人の域にまで達している。


 しかし、違う。

 ワシが欲しかったものは、それでは無い。


 ワシは結局、報われなかったのだ。

 他から何と言われようが。


 ワシは己の満足する形で、どうしても報われたかったのだ。

 だが、最早ここまでであろうか…。


 雨に打たれながらそう考えていた時、大気を震わせる轟音と共に巨大な雷が道場外の大木へと落ちた。


 間髪入れず押し寄せてきた凄まじい衝撃波に、微塵も抗う事なく道場の壁は吹き飛ばされた。


 ワシ自身抗うことはできたと思うが、初めて近くで目視した雷の姿に心奪われ、抵抗することなく一緒に吹き飛ばされた。


 地に転がり、空をただ見つめていた。

 そして駆けつけた弟子達に声をかけられるまで、目に焼き付いていたのは雷の姿。


 目の前で落ちた雷は、決して真っ直ぐに落ちてなどいなかった。

 心の赴くままに遊ぶ子供の様に、右へ左へと興味を向けながら大木へと落ちた。


 その威力たるや、何たるもの。

 その姿は正に闊達自在。


 目に焼き付いたその姿は、ワシに一つの答えを提示した。


 真っ直ぐと意識して振るのでは到達できない。

 太刀の意思に耳をすますのでも無い。


 ただ振るのだ。

 赴くままに。


 振るのは太刀では無い。

 太刀を手にした時点で、己と太刀は別々の存在ではないのだ。


 振るのも振られるのも…己自身か!


 一緒に吹き飛ばされ、足元に転がっていた愛刀をワシは手に取った。


 いつもと形は変わらない。

 大上段に構えた太刀を、そこからただ振り下ろしただけ。


『そうだ!』


 しかし返ってきた感覚は、初めてのもの。

 それは恋い焦がれて追い求めても追い求めても、決して聞くことのできなかった声。


 ワシは大泣きした。

 駆けつけた多くの弟子達の目の前で。


 放った剣閃のあまりもの美しさに、遂に前人未到の極意を得た喜びの涙を流しているのだと、弟子達は思っていただろう。


 しかし、違う。

 ワシが流したのは悔し涙であった。

 遅すぎたのだ…何もかも。


 確かに技は理に達した。

 追い求めていたのは確かにこれだ。


 しかしそれを完全に体現するには、もはや肉体が不十分。


 せめて…せめてあと十年早く。

 いや、五年早く体得することができていれば。


 それから更に五年が経った頃であったか。あの男達との出会いがあったのは…。


 その結果、ワシの心を埋め尽くしたのは一つの願望。

 しかしその願望を満たす為には、ある物が必要となった。


 それは…黄秘薬おうひやく


 剣のみに生きてきたワシに、多くの財など無かった。

 望めば裕福な暮らしができるくらい簡単に得ることができたとは思うが、その方向に興味が無かったのだから仕方がない。


 だが黄秘薬おうひやくを手に入れる為には、小国を動かせる程の財が必要となる。

 そんな額を蓄える時間など、ワシに残されているはずがなかった。


 気づけば雷に吹き飛ばされてから十年の月日が過ぎていた。

 もう齢は六十。

 明日にでも…いや今日にでも心の臓が動きを止めてしまうかもしれない。


 そんな時だったのだ。まるでわしの心を見透かしたかの様に耳に入ってきたのは。


 それはオブスクーロという悪魔の囁く声。

 声によれば、ある極秘依頼を引き受ければ望みのものを何でも準備するという。


 そこから先は正に冥府魔道への道。

 それでもワシは一切の躊躇をしなかった。


 そう…、ワシとはそもそもそういう人間なのだ。

 その為にだけ生きてきた人生であったのだ。

 何を迷う必要があろうか。


 黄秘薬おうひやくを飲んでからというもの、太刀の声は全く聞こえなくなった。

 今では『違う』も『そうだ』も発しない大太刀を、ただ振るのみ。


 踏み込んではならない領域へと至ったワシの姿には、『違う』と首を振り続けてきた太刀すらも呆れてしまったのだろう。


 だが既に技は成ったのだ。

 技と体はここに揃っている。


 あの日の雷の姿は、今でも瞼に焼き付いている。

 この技以上に至高に達した暗殺者を斬るに相応しく、そして皇帝の命を葬るのに礼を尽くすものはあるまい。


 シュバルツよ。

 そして皇帝レオハルトよ。

 この技で散って、ワシが進む道の礎となれ!


 我が人生の集大成。

 その名は…『如雷にょらい』!


◆◆◆


 それは壁越しに音が聞こえてくる様な感覚。

 視覚はひび割れた大理石の床を捉えているが、視点が何処にも定まっていない。


 昏睡と覚醒の狭間を彷徨っていたクラークは、そんな今の状態に心地良さを感じつつあった。


 激しく響く金属音が、何度も耳を突く。

 しかし昏睡へと向かいたがる身体と心が、それへの反応を最小限にとどめていた。


 だが何度も耳を突くのは、懐かしくも鮮明に記憶にある音であった。

 それは多くの戦士や武人と向かい合ってきたクラークの脳裏に、ただ一人の人物を思い出させる音。


 剣聖エクセレトス。

 彼の技を初めて受け止めた時には、その技の美しさに大変驚いた。


 練磨され尽くされた武とは、人の心に感動をも生むものなのかと驚愕したものだった。


 しかしそれ以上に驚いたのは、打ち合ったのと同時に耳に入って来た音。

 それは己の武器から一度も発せられたことの無い音であった。


 鍛治職人が剣を鍛える時に、最適となる力と角度で打ち込んだ時に発せられるかの様な音。

 そんなイメージが自然と浮かんできた。


 しかしクラークがエクセレトスと対峙したのは、剣聖が齢五十を過ぎた頃であった。

 周囲からは互角に撃ち合ったと賞賛されはしたが、中には剣聖があと五歳若ければ相手にもならなかったと陰口を叩く者もいた。


 懐かしい思い出と共に、昏睡状態へと堕ちて行くクラーク。

 しかし記憶されていたものとの音の終わりが微妙に違うことに、クラークの心が反応する。


 クラークの記憶に残っているのは、剣聖エクセレトスと互いに打ち合った時の音。

 その終わりは音を切る様な感じであった。


 しかし今、何度も耳を突く音の終わりは滑る様な感じに聞こえる。


ーーこれは…打ち合っているのではない。

  受け…流しているのか?

  馬鹿な!それはその道の達人であっても

  容易にできることではない。

  一体誰が?


 些細な疑問から生じた大きな興味。

 それは昏睡手前まで来ていたクラークの意識を、一気に覚醒へと引き戻した。


 ぼやけていた視界に意識が戻る。

 その瞬間、顔面と首に滞留していた激痛がクラークの知覚を襲った。


 突然押し寄せた激痛の波に一瞬だけ意識が遠くなるが、意思の力でそれを耐える。


 幸いなことに首の骨は折れていないらしい。

 両手は痺れているが、全身に神経が通っている事を感じることができた。


 激痛に耐えながら、クラークは音のする方に顔を向けた。


 まず目に入ってきたのは、演舞の如き美しさを纏うエクセレトスの放つ連撃。

 そして超反応にてそれを全て受け流すシュバルツの姿であった。


「なっ!?」


 顔面を暴れる激痛も忘れて、クラークは目を見開いた。


ーー何故、エクセレトスとシュバルツが

  対峙している?


  何故、暗殺者のシュバルツが剣聖の

  放つ剣技を受け流す事ができる?


  また黒秘薬もどきでも飲んだのか?

  いや…いやいや、それよりも…


  何故…何故、シュバルツの背後に

  レオハルト皇帝陛下がいるのだ?


  あれではまるで…まるでシュバルツが

  陛下をお護りしている様ではないか!


 クラークは一気に混乱の極みまで達した。


 カルマンと見間違えているのかとも考えたが、少し離れたところで何もできずに手を出しあぐねているカルマンの姿が目に入る。


ーー何が…一体どうなっている?!


 自分が意識を失っている間に、事態がどう進んだのか?

 クラークはありとあらゆる可能性を脳内で模索するが、「訳が分からない」から先に思考が進まない。


 よく見ればシュバルツの体には無数の傷がある。

 左腕は技を受け損なったのか、既に機能していないようであった。


 そこにあるのは正に命がけの姿。

 紛れもなく己の命を盾として、背後にいる者を守ろうとしている姿。


 そして何よりも暗殺者であるシュバルツが、その場から一歩も動かずに受けに徹しているという事実。

 それは納得できないという感情をもねじ伏せる、確かな証拠ともなった。


 慌ててレオハルトに視線を移し、クラークは目を凝らした。

 そこに何かの糸口があるのではと期待して。


 しかしそこにあったレオハルトの表情は、困惑の一色であった。


ーー陛下ですら現状が認識できていない。

  ならば俺があれこれ考えるのは時間の

  無駄だ。


 そう考えたクラークは、何はともあれレオハルトを護る為に近くに行こうと試みる。

 しかし、体がまだ動かない。


 今のクラークにできることは首を少しだけ持ち上げ、理解不能な展開の結末を見守る事だけであった。


 その時、エクセレトスの踏み込みが鋭さを増した。

 それは今までの演舞を想わせる技とは違う動き。


垂下された状態から踏み込みの勢いを乗せて、天を撃ち抜くかの如く放たれたそれは…。


「しょ…衝天しょうてん吼号こうごうか!」


 クラークの口から歯ぎしりが鳴る。

 そこには驚愕と悔しさがふんだんに混ぜ込まれていた。


 恐るべき才である。

 たった一度見ただけである絶技を悠然と躱し、二度見ただけで己のものとするとは…。


 しかも取り入れた動きをただなぞるのでは無い。

 それは明らかにオリジナルよりも洗練されていた。


 取り入れた技に、剣聖として培ってきた技量が加味されたもの。

 正にクラークが追い求めていた理想となる動きが、そこにあったのである。


 突然「質」の変化した技に、シュバルツの反応が一瞬遅れた。

 その結果、受け流すことに失敗し体が大きく仰け反ってしまう。


 衝天しょうてん吼号こうごうにより天を差した大太刀は、そこから流れる様に大上段へと移行した。

 その瞬間、カルマンが弾かれる様に飛び出した。


ーーあれはまずい!


 そう誰もが確信できる程の圧を、大上段が発していたのである。

 その技の起こりを察知してのカルマンの反応であった。


 しかし、それでは間に合わない。

 クラークはカルマンよりも一瞬早くそれに気づけたが、動こうとする意思に身体がまだ反応しなかった。


 大上段に構えられた大太刀に何かが重なる。

 それを敢えて表現するなら、理と技との符合とでも言うべきか。


 そこからシュバルツの頭上に落ちてきたものは大太刀と言えるものではなく、その軌跡は剣閃と表現できるものでも無かった。


 それは正に雷の如し。

 その場にいた者全員が、それを幻視した。


 そんな技を真正面から受けて、無事な者が存在するはずがない。


 一刀両断は必定。


 シュバルツのみならず背後にいたレオハルトさえも、一緒に呑み込んだであろうと思われる落雷の如き一閃であった。


 ゴクリと唾を飲み込む音が鳴った。

 誰のものかは分からない。


「へ…陛下…。」


 クラークが絶望の表情と共に、その心情を口にした。


 助かっているはずはない。

 今し方目にした技は、剣の極致とも言えるもの。

 それが描く太刀筋の上には、確かにレオハルトの身体があった。


 それは認めたくない現実。

 しかし確認しなければならない事実でもある。


 クラークはエクセレトスから視線を恐る恐る横にずらした。

 すると目に入ってきたのはエクセレトスに背を向け、レオハルトに被さる様に向き直ったシュバルツの姿であった。


 大理石の床さえも斬り裂いたのでは?と思われた大太刀の烈閃。


 しかしそれは予想に反してシュバルツの体を両断することさえ無く、肩から入り胸元に到達した所で止められていた。


 レオハルトとシュバルツの視線が自然に交差する。


 この技を受け流す事は不可能と即断したシュバルツは、万が一にもレオハルトに傷を負わせてはならぬと瞬時に背を向けて自らの身を盾にした。


 十倍に跳ね上がっている能力を以って全神経を研ぎ澄まし、シュバルツは大太刀が首の付け根付近に迫るのを感じ取った。


 そこから見せたのは命がけの超反応。

 体を縦に通過しようとする大太刀にダガーを添え、そのまま破壊されぬ様に勢いを殺した。


 それは人に…いや、この世の存在が可能とする動きでは無かった。

 未来を放棄して肉体の限界を取り除いたシュバルツだからこそ、何とか追いつけた動きであった。


 そしてその行動に込められた心の叫びを受け止めたのであろうか。

 大太刀に添えられたダガーは、刀身に亀裂こそ入ったが見事に耐え抜いた。


 大太刀はシュバルツの心臓の真上に添える様な位置で動きを止めていた。

 そして切っ尖は、シュバルツよりも背の低いレオハルトの首筋に当たる手前で止まっていたのである。


「シュ…シュバル…ツ?」


 最初に出たのは、震えて消え入りそうなレオハルトの声。


 色々と聞きたい。

 しかしもう、そんな時間はない。

 ああ、どうしていいのか分からない。


 そんな心情がありありと分かる表情となっていた。


 レオハルトの視線が泳ぐ。

 そしてその視線が大太刀を受け止めたダガーへと向いた時、レオハルトの表情が激変した。


「こ…このダガーは…。」


 レオハルトの目に映ったのは見覚えのあるダガー。

 忘れるはずもない。

 それはレオハルトが唯一シュバルツへ下賜した思い出のダガーであるのだから。


 それは皇太子レオハルトがブルーマウンテンで起きたワイルドボアの問題を解決し、帰路に着いた時の事。

 レオハルト一行はラーズ帝国の領土で、度々目撃されていたミノタウロスの襲撃を受けた。


 後日の調査にて判明する事であるが、ブルーマウンテンの街にワイルドボア達が押し寄せてきたのは、寝ぐらにしていた森にミノタウロスが現れたのが原因であった。


 日も暮れかかり明かりが徐々に失われていく中、騎士達は奮戦するがやがて全滅する。


 残されたのはレオハルトとシュバルツの二人のみ。

 武器破壊を習性にするミノタウロスにより、ありとあらゆる武器は破壊され、残すはレオハルトが身につけていた一本のダガーのみとなっていた。


 騎士達の奮戦によりミノタウルスも満身創痍。

 そこでレオハルトは、身につけていたダガーをシュバルツに託した。


 それは皇太子が代々護身用として身につけてきた由緒正しきダガー。

 材質は不明であるが古の名匠が当時の皇太子の命を護れる様にと、念を込めて鍛え上げた大業物のダガーであった。


 ダガーを受け取ったシュバルツは信じられない事に、その後たった一人でミノタウルスと互角に渡り合う。


 何故であろうか。

 その時レオハルトには、ダガーを渡す前と後のシュバルツの動きが別人のものの様に映った。


 その後シュバルツは近くを通りかかった冒険者達の助力を得られるまで、レオハルトを守り抜く事に成功した。

 それは…二日間に渡る激闘であった。


 ミノタウルスの討伐に成功した冒険者達にそのまま護衛を依頼し、無事に皇都までたどり着いたレオハルト。


 数日後、研ぎ直したダガーをシュバルツが返しに来たのだが、

「先日のミノタウルスとの戦い、見事であった。そのダガーとお前の相性はすこぶる良いようだな。それはお前に下賜するとしよう。陛下には私から許可を取っておく。大切に使えよ、シュバルツ。」

と言ってレオハルトはダガーを受け取らなかった。


 それを聞いたシュバルツは、しばらく呆然としていた。

 しかしすぐさま片膝をついて頭を垂れ、下賜されたダガーを恭しく両手で頭上へと上げた。


「ありがたき幸せ!」


 そう口にするシュバルツの表情は、頭を下げていた為に見えなかった。


 しかし上げられたダガーが少しだけ震えている。

 まるで心からの感動を隠しきれないかの様に。


ーー演技の上手いやつだ。


 レオハルトは率直にそう思い、その場を後にしたわけであるが…。


「これは…余がお前に下賜したダガーではないか…。」


 レオハルトの震える手が、胸元で大太刀を受け止めたシュバルツのダガーに触れる。


 シュバルツは何も言わない。

 ただ何かを謝るかのような視線のみが、レオハルトに向けられている。


 その時、シュバルツの身体に斬り込んでいた大太刀がゆっくりと抜かれた。

 シュバルツはレオハルトを汚さぬように、横を向いて血しぶきを吐いた。


 そしてそのままシュバルツの体が崩れ落ちる。

 支えようとしたレオハルトの両手をすり抜けて…。


「見事だ!たとえ命を代償にしたとしても、この技は止められるものではない。そのダガー…。お主、そのダガーの意志と感応したな?そのダガーが何を目的に作られたのかは分からぬが、感応できる武器と出会えるとは幸せな奴よ。」


 シュバルツを惜しげもなく称賛するエクセレトス。

 そしてそれは悪夢の再来か。

 大太刀が再び大上段へと構えられた。


「だが…これで終わりだ!レオハルト・ディ・ラーズ皇帝陛下。お命頂戴する!」


 再び雷が落ちる。

 そこに障害物は何も無い。

 誰も動けない。


 レオハルトはもう…視線さえ動かさない。


 しかし…雷が走り出した直後、エクセレトスは技を中断して身体を横へ大きく反らせた。


 それと同時に首筋あたりの皮膚が細く裂かれ、薄く血が滲み出した。


 体勢を戻しながら周囲を警戒するエクセレトス。

 その表情には驚愕そのものが張り付いていた。


「あ〜らら。コイツを躱すとはなぁ…。想像以上にヤバい相手なんじゃないのか?こりゃあ。」


 声の発生源へと、その場にいた全員の視線が向けられた。


 そこには直前まで明らかに誰もいなかったはずだった。

 いや、正確には「いたのにその存在を認識できていなかった」と言うべきか。


 そこにいたのは銀色の髪をかきあげるダークエルフ。

 本人は盛り上がることを期待していた様だが、その場は兎にも角にも静まりかえっている。


 誰なのが気になるが、誰もそれを口にしない。

 それ程の異常な雰囲気を、突如現れたダークエルフは身に纏っていたのだ。


 少しの間を置いて、南側の扉から別の人物が大広間へと駆け込んで来た。

 それは己の身の丈以上の槍を持ったホビット族の少年。


 少し息を切らしており、その表情は何かに怒りを感じている様だ。


 そしてその後を追うかの様に聞こえて来たのは、もう一つの足音。

 息を切らしに切らした中年の戦士が、もう勘弁してくれと言いたげな表情で大広間へと入って来た。


 身に着けている装備は、国営兆域警備団に支給されているもの。


 腰にあるのは大きめのシミター。

 支給品では無いと一目で分かる業物であり、そこからこの戦士の秘める剛力を窺い知ることができる。


 乱れる息と大量の汗のせいで表情がぐちゃぐちゃになっていたが、その戦士の顔を見てクラークとカルマンが同時に声を発した。


「タ…ターレス…か?」

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