第21話 皇城イターナルでの戦い7 覚悟と背中

 それは何とも不思議な感覚であった。

 一言で言えば世界と自分の存在がズレてしまった様な感覚、という表現になるだろうか。


 水中に飛び込んで潜ると、空気のあった世界と自分との間に隔たりを感じることができる。

 そんな感じに似ているのかもしれない。


 大広間にいる何者からも、ワシの存在が認識されていない事が分かる。

 そしてそれがとても恐ろしい。


 この状態に入る事ができたからこそ分かったことがある。

 心とは『反応』なのだ。


 目で見たもの、耳で聞いたもの。

 鼻で嗅いだもの、口で味わったもの。

 そして肌で感じたもの。


 それらは世界と肉体との接触であり、その度に生まれる反応が心なのだ。

 よって肉体が活動し続ける限り世界との接触を続ける訳であるから、新しい心が常に生まれ続ける形となる。


 おそらくではあるが…世界との接触と反応の連続。

 それが積み重なったものや流れの様なものを、人は「自分」と認識しているのであろう。


 しかし今、心という名の反応が活動を止めてしまっている。

 それは本来、肉体と自分を繋ぐ為に必要不可欠であるものなのだろう。

 反応が動きを無くした時、自分は肉体に留まっていられないようだ。


 今、肉体から自分が離れようとしているのが分かる。

 そこを何とか押さえ付けている様な状態と言えようか。


 しかしいつまでもこれが維持できるとは、とても思えない。

 自分と体との間に、冷たさを感じるのだから…。


 とにかくは一瞬でも早くこの状態から抜け出したい。

 剣聖の認識さえも逸らすことができるが、今の状態を自分自身が強烈に拒絶しているのだ。


 …これが『新月』か。

 何と恐ろしい技なのか。


 この技を習得する為には、その対価として人間性の全てを支払う必要があると言われていた。

 当たらずも遠からず…だな。


 自我が崩壊し廃人同然になってしまう状態と、薄皮一枚の隔たりしか無いのだから。


 狼月ろうげつを陽動に使ったまでは良かった。

 エクセレトスは完全にワシの姿を見失っている。

 視界と気配の双方において。


 あとは奴の頭上にて掴んだダガーと共に、その首へと落ちて突き刺せば良いだけ。

 それだけなのだ。


 しかしもう…。

 もう自分が続かない。

 これ以上、新月に入り続けるのはマズい。


 『ワシ』が消えエてしマう…

 いや、タえロ!…イ…いヤ…マズ……イ…。


◆◆◆


 シュバルツの姿を完全に見失った瞬間、エクセレトスは目を閉じた。

 全神経を研ぎ澄まして察知の網を張り巡らせるが、シュバルツの気配を捉えられない。

 しかし…


ーー素晴らしい!


 置かれた状況とは裏腹に、エクセレトスの心にあった感情はシュバルツに対する絶賛であった。


 気配を…そして生命の放つ波動を完全に消す。

 それは「狂気のみがたどり着ける境地」とでも言えようか。


 この段階で、ここまでの強敵と戦う事ができるとは思ってもみなかった。

 心の隅にあった後ろめたさや後悔などを、払拭するかのような喜びがエクセレトスの心を満たしていた。


 しかし突如、大きく吐き出した息と共にシュバルツの気配が現れた。

 露骨に漏れ出た気配から、心の乱れも伝わってくる。


 それを感じたのはエクセレトスの後方頭上。

 持たれたダガーは首裏まであと数センチの所まで来ていた。


 脳ではなく細胞そのものが体を動かしたのではないか?

 そう思える程の速さを見せるエクセレトスの超反応。


 しかし心を乱しているとはいえ、黒秘薬で能力が跳ね上がっているシュバルツの動きもまた人外。


 瞬時に振り返ったエクセレトスの左胸に、ダガーの刃先が食い込んだ。

 しかしダガーが一矢報いたのはそこまで。


 腕そのものを掴まれてしまったダガーは、先程までの突進力が幻であったかの様にピタリと動きを止めてしまっていた。


 エクセレトスは間髪入れずに、右腕だけで大太刀を走らせた。

 だがシュバルツに向けられているのは切っ尖ではなく、その真逆の柄頭。


 これも相当に修錬が積まれた動きなのであろう。

 シュバルツは大きな鈍器が迫ってくる様な錯覚を見た。


 当たればそれで良し。

 躱されても柄頭の後ろを走る刀身にて対応が可能。


 追い詰められていたはずであるのに、そこから選び抜かれたのは最適となる技。

 剣聖の名の恐ろしさを垣間見た瞬間であったが…


「遅いわぁぁあ!」


 発せられたのはシュバルツの大声。

 それはエクセレトスに向けて飛ばされたが、心乱した己を奮い立たせる為のものの様にも聞こえた。


 シュバルツの能力は今、確かに十倍にまで跳ね上がっている。

 しかし生半可な者では能力差を調整できず、思うように動くことさえできない。


 決死の覚悟で黒秘薬を飲んだが、周囲の壁にぶつかり続けただけで目的を果たせなかった、という笑い話がある。

 しかしそれは決して創られたものではないのだ。


 だがシュバルツは三年前に飲んだ改良薬によって、その感覚を一度体験していた。

 達人とは一の経験から十や百を学ぶもの。


 今回は常に十倍の能力を発揮している己の体。

 それをシュバルツは見事に制御していた。


 掴まれた右腕に左手を添えて一瞬で全体重を乗せる体勢をとったシュバルツは、上昇した筋力も加えて一気にダガーを押し込もうとする。

 そこに迫る大太刀の柄頭を躱そうという気は全く無い。


 玉砕大いに結構。

 それでこの化け物の命を獲れるのであれば上出来だ。


 そんな狂気を放つ眼光が、エクセレトスの心に押し勝った。


「くっ!」


 エクセレトスはたまらず技を中断し、その場での側方宙返りにてダガーを逸らそうと試みた。


 そしてエクセレトスの足が天井へと向いた時、がら空きとなった胴体に向けて三つの蹴りが一瞬で放たれた。


 吹き飛ばされるエクセレトス。

 その勢いから三つの蹴りに恐ろしい威力が込められていた事を、見ている誰もが理解した。


 エクセレトスは大理石の床を数度バウンドし、ルヴィドの目前にまで吹き飛んだ。

 しかし衝突するかと思われた寸前で態勢を戻し、ルヴィドを躱して着地した。


「チッ!どこまで強くなれば気がすむんだ?この爺さんは…。」


 シュバルツが能力全開で放った三つの蹴りの内、確かな手応えがあったのはたった一つ。

 二つは大太刀の刀身と柄にて防がれ、かろうじて左肩にだけ入れる事ができたが…。


 片膝を突いた状態から、エクセレトスが悠然と立ち上がった。

 そこにダメージがあった事を伺い知る事はできない。


 それどころかシュバルツの方が足首を回し、自分の脚にダメージが無かったかどうかを確かめている。


 左肩に蹴りが被弾する瞬間、エクセレトスは肩を内側に入れてタックルの形で迎撃に出ていた。

 単に攻撃を受けるだけでは終わりにしない。

 剣聖とは負けん気一つをとっても、一流のものを持っている様である。


「ふ…ふふふ…。」


 エクセレトスが静かに笑いだした。

 子供が新しいおもちゃを見つけた時と同じ様な表情と共に。


 始めは興味津々。

 そこから嬉しくて仕方がないという表情へと変わっていく。


「よくぞ…よくぞその境地にまで達した、シュバルツよ!正にそれだ!その目だ。お前にはその目が足りなかったのだ。」


 言葉を向けられたシュバルツは動かない。

 自然体で立ち、強くも静かな目つきでエクセレトスを見ている。


「そこに転がっている黒き器。そして尋常ではない体捌き。そこから察するに、お前は黒秘薬を飲み干したな?しかも紛い物では無い純粋な黒秘薬を!…だが、お前が手にした真に価値ある力とは、決して跳ね上がった能力では無いぞ。真に価値ある力とは、今お前の目に宿っている力だ。そしてそれこそが、お前に唯一足りていないものであったのだ。」


 歓喜の表情となったエクセレトスは更に言葉を続ける。


「覚悟とは恐ろしいものよ。我の敵にはなり得なかった者が、一瞬で強敵となって立ちはだかる事となる。何を目的として、お前が覚悟に至ったのかが気になるところだが…。しかし、あとどれだけお前に時間が残されているのか分からぬ。シュバルツよ!その素晴らしい力を、今ここにて存分に振るうが良い!」


 するとまたしてもエクセレトスの大太刀が、大上段にて構えられた。

 しかしそこから発せられる剣気は、レオハルトに向けられていたものとは比べ物にならない。


 剣聖が強敵と認めた者にだけ向ける「凄烈」と表現するに相応しい剣気であった。


 その塊を己に向けられたシュバルツであったが、表情を一切変えずにゆっくりと身構えた。

 本来であればここで一旦距離を取り、加速からの連撃を試みるであろう。


 しかし…シュバルツは両足を肩幅に開いて腰を落とし、ダガーにて迎え撃つ構えをとった。


 防御や受けとは、暗殺者が真っ先に選ぶべき手段では無い。

 むしろそれは最終手段であって、専念すべきは先手必勝か完全回避である。


 しかし…シュバルツは動かない。

 むしろそこからは「絶対に動かない」「ここから先には行かせない」という猛烈な鬼気が発せられている。


 エクセレトスはその鬼気を一身に浴びて、口を歪ませた。

 自分の命に手が届き得る存在が目の前にいる。

 それが嬉しくてたまらない。

 そんな様子であった。


 歴代最高の剣聖と、最高位への門を開いた暗殺者が静かに睨み合う。


 そしてその暗殺者の背後では、ラーズ帝国六十八代皇帝レオハルト・ディ・ラーズが呆然と立ち尽くしていた。


◆◆◆


 何がなんだか分からない。

 思えばここまで理解不能に陥るのは、初めての経験だ。


 どんな不測の事態に見舞われようとも、何処かしらに思考の指が引っ掛かる感覚が常にあったものだ。


 しかし今、目の前で起きている事態に思考は両手を上げ、完全に働きを放棄してしまっている。


 人は全く取っ掛かりの無い壁を目の前にした時、瞬時にその上に登る事を諦めてしまう。

 思考もそれと同じなのであろう。

 これは想定外などという生温い事態ではないのだ。


 シュバルツが剣聖の攻撃を見事に捌き続けている。

 剣聖が全力で振るう大太刀を、ダガーという小型武器で受け流す様は見事と言うしか無い。


 だがやはり全てを無傷で捌ける程、剣聖の技は甘いものではないのだな…。


 今回は純粋な黒秘薬を本当に飲み干したらしいが、錬磨された技とは本来、向上させた能力だけで防げるものではないのだから。


 長い年月をかけて培った技は、大きな能力差を容易に覆す。

 技とはそれがあるからこそ恐ろしいのだ。


 そしてそれこそが齢六十を超えても尚、エクセレトスが剣聖と称されていた所以でもある。


 どう考えても技をまともに受けるべきでは無い。

 エクセレトスの真正面に立つべきでは無い。


 先手や回避に専念すべき暗殺者が何故、足を止めて受けに専念している?

 お前は一体、何を守ろうとしているのだ?


 今のお前を突き動かしているものは何だ?

 何がお前に命を捨てて、黒秘薬を飲ませる覚悟に至らせた?


 …いや、分かるとも。

 お前が何を守ろうとしているのかなど。


 エクセレトスの剣閃は常にシュバルツの背後…つまり余の命まで迫る形で放たれている。


 先程胸元に突き刺さるかと思えた刃には、さすがの剣聖も肝を冷やしたか…。

 余の命をも同時に狙う事によって、それを守ろうとしているシュバルツの動きを封じているのだ。


 存分に力を振るえと言っておきながら、相手の不利を徹底的に攻める。

 戦いに対する妥協の無い姿勢は、さすが剣聖と言ったところか。


 不利を覆せないのであれば、それまでの事という訳だろう。


 何故余を守る、シュバルツ!

 手塩にかけて育てた暗殺者達を動員して、三年前に街を飲み込んでまで襲撃した余の命を。


 今のお前が攻めに徹すれば、もしかしたら互角以上に戦えるのではないか?

 受けに徹してしまっては、見えてくるはずの勝機すらも姿を現わすことは無いぞ。


 …っ!!

 また一つ受け損なったな。

 傷を負ったのは左腕か?

 もうその腕は動かせないのではないか?


 何故だ!何故そこまでして守ろうとする。

 余の命を守るのがお前の目的だとしても、理由に全く見当がつかないのだ!


 しかしなんと…。

 なんと頼もしい背中なのか。


 この感じはよく知っているぞ。

 命に代えても必ず主人を守るという、近衛騎士達の背中から感じる安心感だ。


 だが…不遜にも今感じている安心感は、それらを上回るもの。

 何なのだこの安心感は…。


 そして…そこから更に伝わってくるのは…

 後悔?

 無念?

 いや…謝罪か?


 それは死を受け入れた者が放つ、心の波動というものであろうか。


 シュバルツの心に渦巻く様々な感情が、その背中から余の心に流れ込んで来る様だ。


 思い返すと記憶の中のお前は、常に下卑た笑みを浮かべているな。

 そうそれは不自然な程に、常に下卑た笑みを…。


 常に笑みを…だと?


 そういえば余がまだ皇太子であった頃、父アヴァールの非道に対しても従順な息子を演じていた時。

 どうしても隠しきれなくなった感情が、表情に出てしまいそうな事が度々あった。


 まだ精神的に未熟であった余は、未熟なりにも何とかそれを気取られてはならぬと必死に表情を取り繕ったものだが…。


 そんな時、己が胸の奥底に秘めた本心を完全に隠すために最適であると気付いた鉄壁の表情がある。


 それこそが「笑み」であった。


 笑みという表情は、感情を隠すための最高の隠れ蓑となる。

 それに気づいたのだ。


 それからというもの…どの様な父の非道を目にしても常に笑みを浮かべ、荒れ狂う感情を隠す様になったものだが…。


 …ま……まさか。

 いや、それはあり得ない。


 まさかお前「も」父アヴァールの非道に対して、その感情を押し殺す事に徹していたなどとは…。


 そもそもお前は曲がりきった性格と非情な手段を好むというところが父に気に入られて、暗部頭に指名されたはず。


 そんなお前が余と同じく、従順を演じる事に徹していたなどとあり得るはずがない。


 だがもし、強引に辻褄を合わせるのであれば…。

 それが間違っていたというのか?

 父の得た影法師シュバルツという人物の情報こそが、そもそも間違っていたのか?


 もしそうなら本来のシュバルツという人格は…ずっとあの下卑た笑みの奥に隠されていたということか?


 もしもの話ではある。

 もしもの話ではあるが…。

 もしそうであれば…そうであるならば…。

 お前は余と同じであったということではないか!


 く…くそ!

 しかしそれではまだまだ説明のつかない部分があり過ぎる。


 なぜ暗部頭解任の前夜に余の命を狙ったのだ?

 なぜ宝物庫を襲撃して数々の秘薬を盗み出した?

 ブルーマウンテンの街で起こった三年前の襲撃は一体何だったのだ?

 そしてその後のお前に、何があったのだ?


 …っ!

 遂に態勢を崩されたか!


 鋭い踏み込みからの撃ち上げを、まともに受けてしまったのだな。

 シュバルツの体が、完全に仰け反ってしまっている。


 そのまま流れる様に大上段に構えられる大太刀の何と美しいことか。

 そしてそこから落ちてくる様は、正に雷の如し。


 それは決して受けてはならない。

 必ず躱さなければならない斬撃だ。


 そして、間違いなく余の命を刈り取る軌道へと走る斬撃でもある。


 何も解決していない。

 何も謎が解けていない。


 自分の事は多少智恵が回る方だと思っていたのだがな。

 まさかこんな状態で死を迎える事になるとは思わなかったぞ。


 視界の端からカルマンが飛び込んで来るのが見える。さすがにお前もマズイと思ったか?

 相当困惑している動きと表情になっているが、誰でも「敵の敵は味方」と簡単に割り切れるものではないからな。


 …だが、間に合わないな。

 シュバルツは…やはり回避しないのか…。


 余と一緒に死ぬ気なのか?

 そこまでされては疑いようが無くなるではないか。


 命をかけて道化を演じる者はいても、意味のない道化として命を捨てる者はいない。

 人が命をかける時、そこには必ず理由がある。


「殿下。私には死の間際に見せるその背中こそが、その者の偽らざる本心を表している様に思えてならんのです。」


 昔お前がアヴァールの命により、一人の老騎士を処刑した後に口にした言葉だ。


 怪しいという己の直感のみで長年忠義に尽くした老騎士に反逆の罪を着せ、処刑を命じた皇帝アヴァール。


 しかしその時にあったのは、何とも堂々たる姿。そして悠然とした背中であったよな、あの時の老騎士は。


 老騎士には反逆の意など何処にもない。

 それどころか、この様な非道にあっても未だに忠義を失っていない。

 そう周りの者が確信するには十分たる、誇り高き騎士の背中であった。


 今のお前の背中は正にそれだ。


 待ってくれ、シュバルツ。

 余に教えてくれ!


 お前の胸中に隠された秘密を!

 真実を!


 シュバルツ!……シュバルツ!!

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