第17話 皇城イターナルでの戦い3 絡み合う意図
部屋には地に伏してピクリとも動かない体が数体。
跳ね散って壁に付着した大量の血はまだ固まっておらず、いくつかの滴が何とか床へ落ちようと身を揺らしながら進んでいる。
主な明かりは消されてしまっていた。
しかし動くはずのなかった壁の、その手前にあるロウソクの火だけが一つ灯っている。
篭った空気が部屋中を満たしていた。
そこにあるのは何年も日の光を浴びていない空気の匂い。
ロウソクの火は変化した空気の流れを受け、迷惑そうに身を揺らしている。
そしてまた急に右へ左へと身をくねらせ、空気の流れに更なる変化があったことを周囲に知らせた。
「ここは…近衛兵の待機室でしょうか?」
部屋に入ると同時に、別々の壁へと投げつけられた三つの玉。
それぞれが音を立てて割れると液状化し、そのまま力強く発光した。
奥の廊下にまで漏れ出る明かりを見て、ヴィッツは二つで良かったかなと少し損した気分になる。
倒れているのは近衛兵が七人。
角には洗濯物らしきものが纏められており、休憩が取れそうな机と椅子がいくつか置かれている。
「暗部らしき奴も、五人ほどやられてたよ。」
廊下の奥から戻って来たディープは肩をすくめた。
やる気を漲らせた彼は我先にと先行したが、敵の姿を発見できずに肩透かしをくらった様である。
「そうか。では作戦通りに分かれて行動しよう。ディープ班はとにかく、皇帝の安全を先に確保しておいてくれ。」
地下通路から部屋に入ってきたバッシュが指示を出すと、ドヤ顔になったディープの視線がヴィッツに向けられた。
班に自分の名が付けられて満足しているのだろう。
「了解ですよっと、旦那!急ぐからしっかりついて来いよ、ヴィッツ。それにターレス。」
「は〜い、はいはい。」
「おう!」
ヴィッツは適当にそれを流す。
顔には出さないが、内心では全くもって面白くない。
ターレスの目には怒りが八割と気合が二割。
これは勿論ディープに向けられたものではなく、息子を傷つけた敵の首魁シュバルツに向けられているものであった。
カールの容態は既に安定していた。
絶命寸前の状態から徐々に…しかし確実に回復していく様は、まるで奇跡を目の当たりにしている様であったという。
しかし、まだ子供だ。
油断はできない。
カールはエリスとバンに任せ、安全を確保した後に城内にいるはずの侍医を探す手筈となっている。
勿論、別に侍医でなくとも腕の良い医者に診てもらえる様ならそれでも良い。
皇城イターナルはとにかく広い。
そして皇帝の寝室に行くという意味においては、とても複雑な構造となっている。
レオハルトが皇帝になった時、その構造には大きく手が加えられた。
しかしそれでも以前の構造やカラクリなどを熟知しているシュバルツの方が、有利なことに変わりは無い。
そこでヴィッツは追跡部隊を三つに分ける事を提案した。
スピード重視の先行部隊と、その後に続く主力部隊。
そして侵入者を城外で警戒している近衛騎士達と、刃を交えずに接触する状況説明部隊である。
いくら自分達が皇帝の命を守りに来たとは言っても、皇城に侵入した事に変わりはない。
大義名分があっても、それ自体の罪に問われる可能性もある。
そして近衛騎士達が何も状況を分かっていない以上、バッシュ達を発見したら不審者として攻撃してくることは確実であろう。
いや、そうでなくてはならない。
ではやはり地上から馬車を走らせた方が良かったのか?
しかしそれではヴィッツが考えた様に、門前払いで終わってしまっただろう。
地下通路を己の目で見たボルグ達ですら、本当に皇城にまで続いているのか半信半疑だったのである。
それを経緯すら分かっていない門兵が信じられる訳がない。
ならば百聞は一見にしかず。
ほら、入れたでしょ?と見せるしかない。
先に門兵や近衛騎士と接触し、説明できていればそれで一応の筋が通ったかもしれない。
しかし今回はそれをする時間も余裕も無かったので、大問題なのだ。
そこでこの重要任務を任されたのがボルグである。
この人物…凶悪そうな見た目に反して人格者であり、そして人望も人脈もある。
その人脈は近衛騎士団にまで繋がっており、騎士団の中にはボルグの世話になったり旧知の仲である者が多くいる。
最初に姿を現したのがボルグであれば、いきなり攻撃されたりはせずに一考の余地を与えてくれるのではないか。
そう見越しての人選であった。
残された問題は、犯罪者のリストを探せば似た様な顔がありそうなボルグの顔だけ。
しかしこれを変えてしまっては、そもそもボルグと認識されなくなってしまうので…まぁ仕方がない。
「ボルグっち…死ぬなよ。」
部屋を出る時、ディープがニヤリと笑いながら呟いた。
「え…縁起でも無いこと言うんじゃねぇ〜〜!!」
少し、ほんの少し…。
いや、実はかなりビビっていたボルグが顔を赤くして叫んだ。
「あ〜あ。到着がバレちゃったじゃないですか…。」
ヴィッツがジト目でディープを睨む。
「状況がどうであろうが、もしまだ皇帝が生きているならシュバルツを少し焦らせた方が良いと思ったんだよ。何せ一度旦那とやり合ってるんだろ?背後に旦那が迫っている事が分かったら、俺なら手元の一つや二つ簡単に狂わせてしまうなぁ。」
ボルグの時よりも感情の篭ったニヤリ顔をディープがしている。
嘘つけ、とヴィッツは思う。
ディープという男が手元を狂わせた所など見たこともないし、悔しいがその想像すらつかない。
しかし相手に先行を許して手が届かない以上、意外とこのイタズラ紛いが命運を分けるかも…とも思う。
「腑に落ちたか?」
ヴィッツが一瞬の思考から帰ってくると、したり顔のディープに顔を覗き込まれていた。
「逆効果だった場合は、責任を取ってもらいますからね。」
冷静な顔を崩さずに答えるヴィッツ。
口にした言葉とは裏腹に、失策を疑ってはいない。
「へーい、へいっと。んじゃ、ちょいと急ぎますか。見失うなよ〜。」
その瞬間、ディープの体が廊下の奥まで滑る様に移動した。
「な!」
驚愕と共にターレスの目が大きく開いた。
「ターレスさん。慣れるまでは私について来てください。コツを掴まないとあの変人の姿は追えないでしょうから。」
コツとかそう言う話なのか?
不可解なヴィッツの言葉にも驚くターレス。
ヴィッツが槍の達人である事は知っている。
バッシュの人外とも言える実力も、三年前に目にした。
それに加えての変人ディープ。
「こりゃ、シュバルツもたまったもんじゃねぇな…。」
シュバルツを追う刃の凶悪さに、ターレスが怒りを忘れて苦笑する。
「シュバルツが今回、何を用意して来たのかが気になるところですが、余程のものでも無い限りボスの到着前に終わってしまうと思いますよ。」
ターレスの耳に入って来たのは、頼もしく聞こえるが不気味な意味を含むヴィッツの言葉であった。
しかし、よくよくその言葉の意味を考えてみると「何を用意していてもバッシュが到着したらそれで終わり」とも聞こえる。
「この上無い戦力が今向かってるぞ。耐えろよ、カルマン!」
ターレスの脳裏に浮かんだのは、弓が得意な幼馴染の顔。
するとターレスの移動速度が一気に跳ね上がった。
「おお!話で聞いた通りのなかなか良い戦士じゃな〜い?ターレスちゃん。」
僅かに振り向いて微笑を浮かべたディープが、再び前を向いた。
まずすべき事は皇帝の安全確保。
皇城は難解な構造となっているが、ディープは既に通るべきルートをほとんど捉えていた。
それは長年暗殺者として培って来た嗅覚のなせる技。
そしてその嗅覚が、シュバルツ達とは異なる気配を僅かに嗅ぎ取る。
そこから漂ってくるのは闇や影が発する匂いではなく、武の結晶が放つ匂い。
だがこれは城外にてあからさまな闘気を発しながら、高速で動いている存在のものではない。
ジャンルとしては、バッシュが持つものと似た部類のものだ。
巧みに隠蔽して紛れ込ませている様だが、存在が強すぎて隠しきれていない。
「なかなか強力な手札を隠している様だな…。ふふふっ。どうやっても盛り上がっちゃうなぁ、これは!」
ディープは進む。
廊下を何度も曲がり、近道となる部屋を見抜いて先へ先へと。
途中で何度か墨色暗殺者の待ち伏せにあったが、これを全て瞬殺。
遊んでいる時間は無い。
無いのだが、ヴィッツ達にも見せ場をと思い、一度何人か後ろへ流したところ「ふざけないで下さい!」と怒られた。
少しふてくされたディープは腹いせに更にスピードを上げた。
ターレスの顔が真っ青になったが、視界に入ってきた大扉がその足を止める。
後ろには文句を言いたそうな顔で追いかけて来ているヴィッツと、必死な顔でそれに続くターレス。
その姿を確認した後、警戒しながらズラす様に大扉を開けた。
ゆっくりと目に入ってきたのは上の階へと吹き抜ける空間。
人が自然に目を向けられる高さには、いくつもの絵画が掛けられている。
そこは二階へと続く中央階段であった。
◆◆◆
皇城南側の跳開橋に到着したクラークは、そこで立ったまま事切れている六人の近衛兵を見つけた。
これはどう考えても影の者の手に依る仕業。
脳裏に三年前の騒動とシュバルツの下卑た笑みが浮かび、両腕にピリピリとした痛みが走る。
何はともあれ、とにかくは橋を降ろさねばと昇降装置にクラークは近づくが…
「何という事だ…。」
昇降装置の重要な部分は、解体されてしまっていた。
これは明らかに警備の急所を突く行為。
皇城の仕組みを理解していなければできる事では無い。
シュバルツが関係している事がここで確実となった。
試しに橋を蹴り倒して見るか?
瞬時に思考を切り替えたクラーク。
しかし橋の根元を支える回転軸まで外されていた。
これでは橋を固定できずに、無理矢理倒しても堀へと落ちて行くであろう。
「チッ、用意周到な性格は相変わらずか!」
次々と潰される選択肢。
その度に苛立つ感情に油が注がれる。
跳開橋は少なくとも数日は使えないだろう。
シュバルツという人物のいやらしさを思い出すには十分な光景が、クラークの目の前に広がっていた。
もはやクラーク一人で進むしか無い。
それしか選択肢がない様にも思えたが…
「ラーズ帝国近衛騎士団団長クラークの権限にて命ずる!
クラークの怒号の様な声が、対岸へと響いた。
対岸から複数の返事と動揺の声が聞こえた後、しばらくの静寂が訪れた。
すると徐々に地面が振動し始め、次第に強さを増し…いきなり堀の中の水が大量に盛り上がった。
そこから勢いよく姿を現したのは、水浸しの橋。
「団長!近衛騎士百名揃っております。帝都内各所に伝令を送りましたので、すぐに駆けつける兵が三千名。その後時間を置いて更に二千の兵が皇城へ集合すると思われます!」
先頭の近衛騎士が報告の声を上げた時、クラークは皇城の正門をチェックしていた。
やはり開かない。
今は深夜だ。
当然の事である。
しかしクラークが全力で押しても微動だにしないという事が、予想した最悪の的中を物語っていた。
「籠城の構えを作動させたか!」
皇都フェアメーゲンが敵国に攻め入られた事はない。
だからといってその為の備えが必要ないという理由には、勿論ならない。
籠城の構え。
それは皇城イターナルにまで攻め入られた時に、最後の切り札となるものである。
東西南北全ての門と窓が開閉不能となり、門の内側には五つの壁が隙間なく並び立つ形となる。
その壁の材質がまた厄介であり、ドワーフが創り上げた特殊合金が用いられているのである。
ドワーフ製特殊合金『ドゥーロ』。
各国が軍事力強化の為にこぞって買い求める素材であり、硬さや強度だけで言えば稀少鉱石ミスリルを上回る。
欠点はと言えば、それは重さだ。
とにかく重い。
いや、重すぎる。
しかし欠点も視点を変えれば利点と成る。
職人達はその重さと硬さを活かして武器の重心補正を行ったり、急所を守る部分にだけドゥーロを使用した鎧などを製作。
更には金庫や城門といった形で次々と応用していった。
そのドゥーロ製の分厚い板。
いや、やはり壁か。
成人男性の握りこぶし程の厚みのあるドゥーロ壁が城門の内側に並び立てられたとすれば、破壊しての突破は困難。
他の手段を探すしかない。
しかし籠城の構えは皇都イターナルが持つ最大のカラクリと言えるもの。
それを作動させる鍵を所有している者は、この国に二人しかいない。
一人目はラーズ帝国皇帝。
現在ではレオハルトが所有している。
そして二人目がラーズ帝国宰相。
オブスクーロ・レイ・サーペントであった。
「くっ!まさかとは思うが…。もしそうであれば歴史を揺るがす大事件となるぞ。」
クラークは一瞬頭に浮かんだ最悪の事態を振り払おうとする。
オブスクーロは確かに危険人物ではある。
先代皇帝の時から二十年以上もの間、宰相として玉座の横に立つ異例の存在。
跳梁跋扈する貴族を長年纏め上げてきた男。
裏舞台での権力は計り知れないものがある。
しかし表向きの歩みは静寂そのものであり、レオハルトには不気味なほど従順に従っていた。
だがもしも…レオハルトが極秘裏に進めていた計画を何処かで知ったとしたら?
一つの懸念が、クラークの脳内で大きく脈を打った。
よくよく考えてみると、三年前の騒動がなければ極秘裏の計画は既に実行されていたはずであった。
シュバルツとオブスクーロは今回初めて手を組んだのか。
いや…もし組んでいるのであれば、三年前には既に繋がりがあったと見るのが妥当であろう。
思い返してみれば、ブルーマウンテンでの調査も遅々として進みが悪いものであった。
もしかしたらあれは、宰相の手回しによるものだったのかもしれない。
そして宰相はここ何日か、何かと理由を付けて皇城に宿泊している。
自慢の私兵五十人と共に。
これがもしシュバルツ達の侵入を事前に知っていて、事が起こるのを待っていたのだとしたら…。
クラークは次々と噛み合っていく辻褄に焦りを覚えた。
しかしとにかくは皇城に入らなければと考え、部下達へと向き直った。
「門から皇城に入るのは不可能だ。各々散開し、中に入るための手段を探せ!暗殺者達が潜んでいる可能性もある。警戒は怠るな!」
大きな返事と共に、勢いよく近衛騎士達が動き出した。
しかし浮かべる表情は、それとは真逆のもの。
まさか自分達が城内への侵入を試みる日が来るとは。
そんな戸惑いが各々の表情に表れていた。
クラークは動かない。
籠城の構えを起動させたイターナルは難攻不落。侵入など不可能。
穴など何処にも無いのだ。
それは計画の段階から責任者として携わったクラークが、一番よく理解している。
祈るのは己の過失。
想定外。
もしくは整備不良か。
何でもいい!
何処かに見落としがあってくれ!
己の製作に欠点がある様にと、クラークは心の中で手を合わせる。
ハルバートを握る手には、込められた握力のせいで血管が浮き出ている。
ダメ元で良いから城壁をぶち抜いてみるか?
騎士達からまた呆れられるかもしれないが…。
そう思いながらハルバートを構えようとした時…
「団長!北側の岸に瓶やガーゼなどが複数落ちておりました。明かりが届かないので確認が取れませんが、三階にある侍医の部屋から落とされたものと思われます!」
耳に飛び込んできたのは、途絶えたかに思えた希望を繋ぐ声。
ただ落ちていただけと言うにはあまりにも不自然なもの。
かといって生存者からのメッセージであるのかは分からない。
しかしそれでもクラークは迷う事なく部下の頭上を飛び越え、風の如く北側へと走って行った。
◆◆◆
的確に急所へと迫ってくる飛翔物。
回避を失敗すれば絶命は必至。
全ての灯りが消された大広間。
そこは音と匂いだけの世界。
この条件下において、飛翔物に反応するのは至難の業だ。
シュバルツ達は一旦廊下まで退くことを余儀なくされた。
カルマンの強弓から放たれる矢によって、瞬く間に八人の墨色暗殺者が戦闘不能にされ、五人が深い傷を負ってしまったのだから。
威力が等分されてしまうが、カルマンは一度に最大三つの矢を強弓にて放つ事ができる。
三本同時と精度を増した二本同時。
そして恐ろしい威力を秘めた一本矢は相手の反応を狂わせる緩急を生み、暗殺者達の冷や汗をも凍りつかせた。
矢を急所に受けてその場でうずくまる者もいれば、体ごと吹き飛ばされる者もいた。
矢を射る暗殺者。
その存在は決して珍しくはない。
しかしそれはあくまでも間接的な手段や、牽制・援護などとして用いるのである。
必殺の矢を的確に射る暗殺者。
もし完成したら面白い存在となる。
シュバルツが特殊部隊隊長サルマンの姿を一目見た時、その理想像が頭に浮かんだものだが…
「こ、ここまでのものとは!」
手がつけられない。
その一言に集約される存在が、広間の奥で息を潜めていた。
カルマンに暗部としての道を推薦したのはシュバルツであった。
暗殺者達の慣例に「新米は一度外に出す」というものがある。
闇に生きる者としての土台。
ここを一度徹底的に固めなければ、いざという時に使い物にならない。
その為にまずは縁もゆかりもない場所と師の下で、修行に明け暮れるのである。
ここで言う師とは、導師以上の位に立つ者を指す。
そこでシュバルツは自分を含め当時世界で八人しか存在しなかった影法師の下へ、カルマンを推薦した。
そこは精鋭揃いで五大国からも恐れられていた暗殺者集団『レーグル』。
貴重な影法師が二人も在籍する異例のメンバー構成であったが、現在は解散してしまっている。
一説によると大掛かりな任務に失敗して全滅したとも言われているが、真相は明らかになっていない。
今では幻の集団として語られているレーグル。
ここでの修行に耐え抜いた新米は、導師への門を簡単に開くと言われていた。
手に入らなかったサルマンという理想の片腕。
次こそはそれを実現する為にと、シュバルツは自ら高額の入門料を払ってまでカルマンを推薦したのである。
その理想の完成形が今、自分の行く手を阻んでいる。
たった一人で集団を一度撤退させられる強大な存在となって。
シュバルツは目の前の現実に歯ぎしりしながらも、自分の考えが間違いではなかったという事実に喜びを感じていた。
「ん?」
突如、地下通路の方から気配が…いや、大声でも発したのか。
明らかな違和感をシュバルツは感じ取った。
「チッ!もう到着したか。やはり第三部隊は足止めにもならなかった様だな…。」
だがそれはまだ想定内。
大広間には一本道で来られるわけではない。
時間は十分にある。
しかし…。
しかし、あの重戦士が迫って来ている。
その事実が三年前の屈辱をフラッシバックさせ、シュバルツの顔面を蒼白にした。
…だが!
やらねばならない。
これだけは譲れない。
シュバルツは震え始めた両手を床に押し付けた。
体に腕からの振動が伝わってくる。
焦ってはならない。
予想通りなら標的の近くまで来ているはずだ。
奴の命を取るまでは、何が何でも死ぬ訳にはいかないのだ。
シュバルツの歯ぎしりが廊下に響く。
それが打開できない状況に対する怒りの音に聞こえたのであろう。
部下達が他の経路を探してみるべきかと思案し始めた時…
「俺が行こう。」
シュバルツの後ろに控えていた墨色暗殺者が突然口を開いた。
しかしその口調は部下が使うものではなく、対等な立場の者が発するものであった。
その者の腰にあるのはマチェットとダガーでは無い。
あるのは黒布で厳重に巻かれている正体不明の長物。
形から予測するに大きめのロングソードであるように思われるが…定かでは無い。
「い、いや待ってくれ。まだあなたの出番では無い。ここは一度、部下達に任せてみるとしよう。グリス、対策は練られたか?」
「は!お任せ下さい、師よ。」
返事と共に前に出たのは、一際目つきの鋭い墨色暗殺者であった。
皇都を追われたシュバルツは慣例に従わず、手元で約二千人の暗殺者を育て上げた。
その中でグリスと呼ばれたこの暗殺者は、唯一影法師の位へと到達できたシュバルツの集大成と言える者であった。
「六人一緒に来い。俺の前を走り、盾となれ。」
グリスが向きを変えずに口を開くと、間髪入れずに六人の墨色暗殺者が前に出て無言で志願した。
その様子を見て、巻かれた黒布を取りかけていた謎の人物が手を下ろした。
「これで討ち取れなかったら俺が出るぞ。このままでは俺の仕事にも影響が出そうなのでな。」
今回シュバルツの手元にある最強の切り札。
圧倒的戦力から向けられる鋭い眼光が、背筋を凍らせる。
内心で震えながらも、何とか表情を崩さずにシュバルツは無言で頷いた。
このカードを切ってしまえば、たとえ立ち塞がるのがカルマンであっても容易く突破してしまうであろう。
しかし、それでは困るのだ。
今回だけは計画に狂いを生じさせる訳にはいかない。
目を細め、決意を新たにするシュバルツ。
その目は三年前のものとは違い、何か遠くを見る様な目であった。
「行け!」
シュバルツの声と同時に六人の墨色暗殺者が突入し、後にグリスが続く。
大広間に入る瞬間、シュバルツとグリスの視線が掠る様に重なった。
謎の人物はそれにさえ反応するが、特に気には止めなかった様である。
さて…その視線で二人は何を交わしたのか。
時に目は、口よりも多くのことを語る事があるものだ。
矢を弾く音が繰り返し聞こえてくる。
この悪条件の中で、何とかカルマンの矢を凌いでいるのであろう。
グリスに先んじて突入した者達。
それもまた紛れもなく達人の域に足を踏み入れた者達であった。
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