第13話 青山襲撃事件6 剥がされたメッキ

 食堂の扉が開くと、冷んやりとした空気が室内を駆け巡った。


 入ってきたのは小太りの中年男性。

 メガネを掛けており、運動や戦闘などは苦手とする体型だ。


 しかし身につけているのは兆域警備団の制服。

 そして腕には長である事を示す腕章が付けられている。


「ポーヒングさん!どうしたんだい?こんな時間に…。」


 それは兆域警備団団長ポーヒングであった。


 目の下にクマを作ってゲッソリとしているポーヒングは丁寧に扉を閉めて向き直ると、言いにくそうに口を開いた。


「こんな時間に申し訳ないのですが、まだ料理を頼めるでしょうか?」


 ポカンとするメルロス。

 ジェリーとアリスも同じくであった。


「い、いやぁ…。二日前に暗殺者追跡部隊への志願者を募ったところ、詰所にいた団員のほとんどが志願しましてね。団長としては頼もしい限りだったのですが、その穴埋めがとにかく大変で…。昨日は殆ど寝られず、今日もまた飲まず食わずでして…。」


 三人の女性が互いに目を合わせる。

 暫くしてジェリーが吹き出したのをキッカケに、三人とも声を漏らしながら笑い出した。


「…ぷ…ふふふ。そ、それは災難だったね。日替わりディナーだったら直ぐに出せるけど、それでいいかい?」


 そう言われると、砂漠でオアシスを見つけた旅人の様な顔でポーヒングが頷く。


「あ、ありがたい!もうお腹ペコペコで…。夕方から何回逃げ出そうと思ったことか。」


 フフフと笑いながらメルロスは厨房へと向かう。

 ポーヒングという男は仕事から逃げる様な男では無い。

 それは分かりきっているのだから。


「扉越しに少し聞こえたのですが、三年前の事件のことを話されていたのですか?」


 ポーヒングが席に着いて尋ねると、ジェリーは少し興奮した様子で答えた。


「そうなんですよ!クラーク騎士団団長がシュバルツって奴と戦ってて、そこにバッシュさんが向かっているところまで聞きました!五大陸でも有名なあのクラーク団長が、かなりヤバいところまで追い込まれたみたいですね。」


 メルロスが机に置いたお茶を飲みながら、ポーヒングは己を一息つかせる。

 すると少しだけ落ち着いた様で、ジェリーに向かって口を開いた。


「その場面をお話しになられてましたか。私もあの時はもうおしまいだと思いましたよ。何せ、あのクラーク団長がまるで子供扱いだったのですから。」


「え?ポーヒングさんもその場に居たんですか?」


 ジェリーが悪気無く言うと、ポーヒングは苦笑しながら答える。


「ええ。こう見えて私も一応は兆域警備団の一人ですから…。」


 あ、やっちゃったと顔をしかめるジェリー。


「いやいや、気にしないでください。この体型ですからね。見た目通り全く戦力にはなりません。しかし陛下をお守りするのに身を呈することくらいはできるかと思いまして、近くに控えていたのですよ。」


 その途端、ジェリーの目がキラキラとし始めた。


「ええ!じゃあ、目の前でその光景を見てたんですね!ど、どど…どうなったんですか?その後は?」


 若干引きぎみになったポーヒングであったが、料理が出てくるのはもう少し時間がかかるだろうと思い、ゆっくりと話し始めた。


「クラーク団長の強さは噂通り…いやそれ以上のものだったと言えるでしょう。あんな動きや攻撃の速さは練武大会でも見たことがありません。五大国に名が轟くとはこういうことなのだという光景を、目の当たりにしました。しかし、そんなクラーク団長の攻撃が軽々と捌かれていたのです。信じられないことに延々と。それでも私はその攻撃が、相手の体を捉える時が来ると信じていました。」


  ゴクリとジェリーが唾を飲む。


「しかし、現実は残酷でした。一瞬…そう本当に一瞬だけ。体勢を戻すのが遅れたところを相手に攻められ、クラーク団長は右手でハルバートを持つことさえできなくなったのです。

ちなみに相手の…シュバルツでしたか。そのシュバルツがどうやってクラーク団長を攻撃したのか、恥ずかしながら私には全く見えませんでした。何せいきなり姿が消えたかと思ったら、血を撒き散らしながらクラーク団長が吹き飛ばされていたのですから。」


「えええ!じゃあ、そのままクラーク団長は負けちゃうんですか?ずっと攻め続けていたのに!」


 話の続きが気になって仕方がない様子でジェリーがポーヒングに迫ると、ゆっくりと首が横に振られた。


「いえいえ。確かにクラーク団長の両手が使えなくなり、もはやここまでかと皆が思いました。しかし…凄いものですな、武の頂点にいる方というのは。理屈や状況だけで見ればどう考えても負けです。降伏するしか選択肢はないと私なら思います。しかし、クラーク団長は違った。私はあの時の彼の姿を一生忘れないと思います。」


 ポーヒングはまた少しお茶を口に含むと、窓から外を眺めた。

 食堂の窓からは詰所前の広場がよく見える。

 今ではベンチとテーブルが置いてあり、人々の休憩場所となっている場所。


 そこを見つめながら、ちょうどあの辺りだったなとポーヒングは目を細めながら思い出していた。


◆◆◆


 忽然と姿が消え失せる。

 その表現方法は書物などで度々目にしていましたから、勿論知っていました。

 しかし体験した事は一度もありませんでした。


 よくよく考えてみると、意味不明な表現じゃないですか?

 いきなり物や人が消える事など、あるはずが無いのですから。


 しかし…。しかし、私の視界の中に確かに居たシュバルツの姿が忽然と消えました。

 言葉通りの事が起きたのですから、そのまま表現するしかありません。


 その直後、血しぶきを撒き散らしながら目の前に吹き飛んで来たのはクラーク団長。

 ハルバートを持っていた右腕には無数の傷があり、誰がどう見てもそれは戦闘不能の状態でした。


 一帯に響くのはクラーク団長の名を何度も叫ぶ、皇帝陛下の悲痛な声。

 私が慌ててターレスさんに目を移すと、もう声を出す余裕さえ無い様子。

 口をパクパクさせてますが、何も聞こえてきません。


 あ、ああ…。

 近衛騎士達の心が折れていく。


 近衛騎士団の武の象徴であり、この戦いの最期の希望でもあったクラーク団長が倒されてしまったのです。


 それでもまだ戦意を持ち続けろという方が無理な話でしょう。


「もはや、ここまでなのでしょうか…。」


 私は情けない事に、その場で最も口にしてはいけない事を言ってしまいました。


 近衛騎士団の団長が倒れてしまったのです。

 こんな時だからこそ兆域警備団団長である私が、皆の戦意を維持させなければならなかったのに…。

 その私が諦めの言葉を口にしてしまいました。


 一人、また一人と武器を落としていく近衛騎士達。

 それを見てターレスさんが何かを叫びますが、声になっていません。


 それは次第に兆域警備団にも伝染し…。

 一人が座り込んでしまったのをキッカケに、次々と戦意を無くしていきました。


 将が倒されるとはこういう事。

 それを目の当たりにした瞬間でした。


 まだ戦える者が戦えなくなり、無理していた者達が無理できなくなる。


 私の頭の中は真っ白になりました。

 理屈では諦めてはならないと分かっていたのです。

 しかし、心が負けを認めてしまっていたのでしょう。


 絶望…。

 そう、その場には絶望しかありませんでした。


 そして、薄笑いを浮かべながら近寄って来るのは絶望の権化。


「ふん!とりあえずは流石だったと言っておこう、クラーク。五大国に轟くその力、堪能させてもらった。しかし、最早これまで。お前は危険すぎる存在だ。確実にトドメを刺させてもらう!」


 クラーク団長に近づいて来るシュバルツ。

 より一層大きくなるのが、クラーク団長の名を叫ぶ皇帝陛下の声でした。


 その声を聞いて私は気づきました。

 この二人の間にあるのは、単なる主従関係では無いのだという事を。


 それは親子にも近い…いや、やはり友情でしょうか。

 歳は離れていても気心知れている友との友情。

 そんな感情がヒシヒシと伝わって来ました。


 その時、陛下の声に反応したのでしょうか。

 もう動ける筈のないクラーク団長が、フラつきながらもゆっくりと立ち上がったのです。


「ポーヒング…。あぶ…ないぞ、下がって…いろ。」


 それはまさに息も絶え絶えな状態。

 体力は尽き、両腕も動かない。


 こんな状態で一体何を言っているのだ?

 私の心配なんかしている場合では無いだろう?

 私はそう思いました。


 近くにいた部下に指示を出すクラーク団長。

 地面に転がっているハルバートを取りに行く近衛騎士。


 シュバルツは動こうとしません。

 ここから何ができるのか興味があったのでしょうか?


 部下がハルバートを持ってくると、クラーク団長は何とそれを上下の歯で噛み付くようにして挟み、そして持ち上げたのです。

 あの長くて重いハルバートを…。


 歯茎からは血が滴り流れ、首筋から額にかけて血管が浮き出ていました。

 そしてそこからシュバルツを睨む眼差しは、正に獣の形相。


 その場の誰もが思った事でしょう。

 人とはここまで強くあることができるものなのかと。


 私は一生忘れないと思います。

 絶望の中、負けることが分かっていても立ち上がり、倒れ、そしてまた立ち上がる騎士の背中を。


 シュバルツに向かってクラーク団長は駆け出しました。

 走るというよりも、前に倒れる体を両脚で器用に押し進める感じで。


 シュバルツの目前に迫ると、クラーク団長はそこで飛び上がりました。

 口に挟まれたハルバートと共に。


 最早ハルバートの重さを使うしか方法が無かったのでしょう。

 今まで放っていた斬撃とは比べるまでも無く、お粗末な一撃でした。


 しかし、そこに込められていた気迫は別格のもの。

 その気迫がその一撃を最高のものにまで高めた様に見えました。


 しかし、それでも届かない。

 いや、もう何も届かない。


 黒秘薬とは何と恐ろしい物なのでしょうか。

 そして命を捨て去る覚悟でそれを飲み干したシュバルツ。


 何故、神はこの二つの歯車を巡り会わせてしまったのか…。


 全身全霊を乗せたハルバートが、今までと同じようにダガーにて捌かれました。

 その直後、しなるムチのような蹴りが放たれ…。

 クラーク団長は壁に向かって、吹き飛ばされたのです。


 私は目をつぶりそうになりました。

 壁に激突し、生き絶えてしまうかもしれないクラーク団長の姿を見たくは無かったのです。


 しかし、頂まで登りつめた武人の最後を目に焼き付けようと決意しました。

 ここで目を逸らしたら私は一生後悔すると思えたからです。


 力なく吹き飛ばされるクラーク団長。

 響き渡るレオハルト陛下の悲痛な声。


 何もかもが終わる。

 誰もがそう思った時…。


 突如、目の前を白い影が走り抜けました。

 そして壁の目の前でクラーク団長を受け止めたのです。


 それはできるだけ衝撃を抑えた受け止め方でした。

 そこにいたのは白のフルプレートを纏った一人の戦士。


 私はその時、初めてバッシュという戦士をこの目で見ました。

 それまで彼の事を何も知りませんでしたし、聞かされてもいません。


 しかし何故でしょうか?

 彼の姿を目にした時「助かった」と思ったのです。

 何故でしょう?

 今でもそれは分かりません。


 しかしその時の私の心は、確かにそう感じたのです。


◆◆◆


 シュバルツは眉をひそめていた。

 この後はクラークにトドメを刺し、レオハルトの首を持ち帰る。

 それだけのはずだった。


 しかし、いきなり現れてクラークを受け止めたフルプレートの戦士。

 気を失ったクラークをゆっくりと地に寝かせ、悠然と立ち上がったその姿は、どう見ても只者では無い。


「ちっ!」


 心の底から漏れ出た舌打ち。

 それはシュバルツの心情をありありと表していた。


 余計な事などしている場合では無い。

 薬の効果時間はまだ十分に残っている。

 しかし…。


「ごはぁ!!」


 シュバルツの背後から突然発せられた声。

 それはレオハルトと対峙していた墨色暗殺者のものであった。


 白の重戦士に向けられていた全ての視線が、声の主へと移された。


 そこにあったのは胸に風穴を開けられた墨色暗殺者。

 そしてその側で、奇妙な曲がり方をする槍をドヤ顔で構えているホビットであった。


「ジャジャーン!ヴィッツ特製六節槍、ここに推参!」


 響いたのは全く場の空気を読まない陽気な声。

 強制的に束の間の静寂が訪れた。


 周りの反応を見てヴィッツ自身は決まった!と思っていたが、六節槍と言うだけでは何か物足りないとも思う。


 もっと何かこう…特別な感じを出したい!

 そう考えていたが、その悩みが解決するのは後に厄介なダークエルフとの再会を果たしてからである。


「ヴィッツ、皇帝陛下の護衛と薄色の相手を頼む。こっちは俺がやる。」


 シュバルツの前へと重戦士が進む。


「了解です、ボス。」


 そしてレオハルトを守る様に向き直るヴィッツ。


 その様子を見て、何かに気づいたレオハルトが口を開いた。


「お前達は騎士団と共に、コカトリスの討伐に向かった冒険者だな!他の者達も来ているのか?」


 向きを変えずにヴィッツは首を横に振った。


「いえ。コカトリス討伐に向かった近衛騎士団は、暗殺者達の奇襲に遭い全滅しました。」


 ゆっくりと目を閉じて、しばらく何かに耐えるレオハルト。


「では…此奴らの増援が間も無く到着するという事か。」


 すると微動だにしなかったヴィッツが、視線だけ重戦士に向けた。

 それに気づいた重戦士は、僅かに首を横に振る。


「いえ。コカトリスと暗殺者達の挟撃を受けた近衛騎士は、最後の力を振り絞って…敵を全滅させました。なので敵の増援が来る事はありません。」


 閉じた目に更に力が入るレオハルト。


 コカトリスとの交戦中に背後から奇襲を受けるなど、どれだけの窮地であったことか。

 どれだけの恐怖が身を包んだことか。


 それでも各々が使命を果たすために、命を引き換えにして敵の全てを葬り去ったという…。


 レオハルトの頬をいくつかの滴が流れてゆく。

 そしてその様なレオハルトとは全く違う反応を見せる者がいた。


「馬鹿をいうな!コカトリスとの交戦中に、六百もの暗殺者達を背後から奇襲させたのだぞ。近衛騎士共は絶望し、泣き叫んだはずだ!その様な劣勢から相打ちに持ち込む事など、できるはずがない!」


 いつしか薄い笑みは無くなっており、鬼の形相でシュバルツはヴィッツを睨んだ。

 しかしヴィッツは顔を向けもしない。


「それでは何故、その六百人の暗殺者達とやらはまだ街に来ていないんだ?」


 重戦士がゆっくりと言葉を並べる。

 するとその瞬間、広場一帯に熱気の様なものが放たれた。


 それはその場にいる全ての暗殺者に向けられた闘志。

 そしてシュバルツに向けられた怒りであった。


「くっ…。」


 シュバルツは何も言い返さない。

 いや、言い返せない。


 現に来るはずだった六百人の増援部隊は、誰一人として街に姿を現していないのだから。


「ふん!だから何だ?たった二人のお前達がこの場に来たからといって、一体何ができると言うのだ?命を捨てる覚悟で黒秘薬を飲み干したワシの前に、ラーズ帝国最強の騎士クラークは崩れ落ちた。それを何処の馬の骨かもしれないお前達がどう対処するというのだ?」


 気を取り直したシュバルツは薄笑みに表情を戻し、転がっている黒秘薬の器をわざとらしくチラ見する。


 そう…。

 増援が来ないと言っても、何も状況は変わらない。クラークを倒した絶望の権化は目の前にいるのだ。


 人間で勝てる存在ではない。例えフルプレートに身を包んでいようとも…。

 その場に居る全ての者がそう考えた。

 新たに現れた重戦士とホビットを除いて。


「随分と手の込んだ芝居を打った様だな。」


 重戦士が意味不明な事を言うと、シュバルツの眉がピクリと動いた。


「芝居だと?お前は何を言っているのだ?」


 まだ表情は薄笑いのままである。

 しかし…。

 しかし、声の質が少しだけ変わっていた。


 するとその時、急に後方が騒がしくなり十人程の人影が広場に飛び込んで来た。


「バッシュ!皇帝陛下はご無事か!」


 それは救援に街まで駆けつけたボルグと冒険者達。

 全身は傷だらけで、見るからにフラフラの状態。


 しかしそれぞれの目には力があり、その場にいる暗殺者達を怯ませた。


「バッシュ?」


 そこでレオハルトが聞き覚えのある名前に反応する。

 そしてそれはシュバルツも同じくであった。


 名前に見た目。

 仲間の特徴。

 順を追って巡る思考。


 そして記憶の引き出しに先に手を掛けたのは、レオハルトだった。


「まさか!ミルト共和国の事件を解決した戦士のバッシュか?」


 それを聞いたシュバルツの顔からは薄笑いが消え、驚愕と怒りの混ざった様な表情へと変わった。


「はっ!そんなお伽話の様な情報を真に受けるとは、お前も老いたなレオハルト。確かに伝え聞いたのはそんな名前の奴だったがな。しかし覚醒トロール三匹を討伐するなど、今のワシが十人いてもできるものではないわ!ましてや一人で?バカバカしい。…ええい、紛らわしい!お前は先に死んでおけ!」


 そう言うとシュバルツはクラークの時と同じ様に、口の端から蒸気の様なものを出した。

 目は見開かれ、両手の武器が仰々しく構えられた。


 そして次の瞬間、全員の視界からシュバルツの姿が忽然として消え去った。


 クラークの時と同じだ!

 全員がその後に起きるであろう同じ結末を連想した。


 血しぶきを撒き散らしながら吹き飛ぶクラーク。

 あの姿が脳裏に焼き付いて離れないのである。


 しかし現実は…。

 バッシュとは逆の方向。

 シュバルツは自らの後方にあった壁へと吹き飛ばされていた。


 何が起こった?

 誰の表情にも回答が示されていない。


 そしてそれは、吹き飛ばされた本人であるシュバルツさえも理解できていなかった。


 壁に激突し倒れた後、ふらつきながら起き上がるシュバルツ。


「き、きさま…。一体…何をした…。」


 力が抜ける右膝に両手を添えながらシュバルツは立ち上がった。

 その顔に浮かべるのは理解不能な結果に対する困惑か。


「やはりな…。今ので確信した。お前は黒秘薬を飲んでいない。飲んだのはそれに近い薬だな。」


 前に構えられていたタワーシールドを、横にずらしながらバッシュが言うと、シュバルツが目を見開き「何故?」という顔になる。


「そうですね、ボス。差し詰め改良化された黒秘薬といったところだと思います。そして何かこう…無駄に動くのを随分と嫌っている様ですね。力を引き出す代償を命では無く、別の副作用に変えることに成功したってところでしょうか?」


 同じ表情をヴィッツへとシュバルツは向けた。

 自らは何も語っていない。

 それを目視した情報のみで、ここまで正確にたどり着くとは…。


 要注意人物はバッシュと呼ばれた者だけではない。

 シュバルツは瞬時に認識を改めた。


「冥土の土産です。教えてあげましょう。まず黒秘薬を飲み干した者の口から、蒸気の様なものは出ません。あれは単なる演出ですね。ただ、効果の程は多少あった様ですが。」


 ヴィッツが指を一つ立てて話し、続けて二つ目の指を立てる。


「そして命と引き換えの力を得たのであれば、黒秘薬の器をこれ見よがしに見せたり、飲んだ事を強調したりもしません。黒秘薬はあくまでも手段でしかないのですから。ここに居る全ての者の認識を巧みに誘導した事、それ自体はさすが暗殺者達の頭領と言えます。しかしそれは黒秘薬を飲み干した者を、見た事が無い者にだけ通用する誘導の形でした。見た経験がある者からすればバレバレです。おそらく、あなた自身も見た事が無いのでしょう。」


 シュバルツはピクリとも動かない。

 しかし全てが図星である事を、その表情が物語っていた。


「そして、黒秘薬を飲んだ者の何が最も恐ろしいのか。その認識をお前は間違えている。」


 ヴィッツが三つ目の指を立てると、口を開いたのはバッシュであった。


「ワ、ワシが間違えているだと?飲み干した者の命と引き換えに、潜在能力を含めた全ての力が十倍にまで膨れ上がる。それが黒秘薬だ!そして使用者の能力が高ければ高いほど、その上昇値は跳ね上がる。ワシほどの強者が飲み干せば、それはもう人を超えた存在の誕生だ!そこにあるのは圧倒的な力。圧倒的な絶望。それ以外に黒秘薬が恐れられる理由などありはしない!」


 それを聞いてバッシュはゆっくりと横に首を振った。


「違うな…。零点だ。」


 おおお!ボスが怒っている。とヴィッツは心の中で驚く。


 バッシュは決して人を見下したりしない。

 どの様な身分の者であったとしても、時には敵になった者にさえも敬意を持って接する。

 それがバッシュという人物だ。


 しかしそのバッシュが上からものを言ったり、相手を傷つける様な発言をする時。

 それはその発言が必要な時。

 もしくは相手に対して隠しきれない怒りを、その身に宿している時である。


「黒秘薬を飲み干した者が恐ろしいのは、そこにある心だ。普段どれだけ取り繕っていても、どれだけ強がっていても、命を失う可能性と出会った時、人の心は恐ろしく弱くなる。命こそが最も大切な宝であるということを、頭では無く心こそが一番理解しているからだ。

その心が、命を手放す。あり得ないんだ、普通ならそんな事は。しかし越えられそうで越えられない一線を跨いだ者が黒秘薬を飲み干す。敵を倒す為に。仲間や家族を守る為に。常軌を逸した覚悟だけがそれを可能にさせる。

恐ろしいのはそこから得られる力では無い。狂気とも言えるその心こそが恐ろしいのだ。そして最も恐ろしいそれが、お前には…無い!」


 ワナワナとシュバルツの両腕が震えている。

 そして口からはギリギリと歯ぎしりも聞こえる。


 それは上からものを言われた事に対する憤りか。

 それとも全てを見透かされ、台無しにされてしまった事に対する怒りか。


「命を掛けずに力だけ得ようとした弱き暗殺者よ。お前では俺には勝てない。」


「だぁーーーまぁーーれぇぇぇえええええ!」


 大声と共に、目をむき出しにしてバッシュへと迫るシュバルツ。

 あれだけ崩さなかった絶対強者としての余裕や雰囲気が微塵も残されていない。


 それはまるで丸裸にされてしまったピエロ。

 タネや仕掛けはもう何処にも隠せていなかった。

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