恋なんてクソ食らえ

「今年がさ、最後のチャンスってわけよ」


 部活終わり。部室で着替えていると、お調子者でムードメーカーでもある中野が宣言するかのようにそう言った。意味深長な雰囲気を醸す中野に、誰かが聞き返す」


「何が最後?」

「決まってるだろ? 二月と言えばバレンタイン。青春の宴だ。な、勇人」

「はぁ? 俺に同意求めんなよ」


 俺は肩に回された中野の腕を振り解き、汗ばんだ身体に制汗剤を振りかける。シトラスレモンの爽やかな香りが部室へと広がった。中のは尚も自論を展開し続ける。


「考えてもみろって。来年は受験で忙しい。っていうか、そもそも自由登校だから二月ほぼ学校ないし。大学に入ったらクラスなんて概念は薄れるから、女子が大量のチョコを配ることもなくなる。つまり収穫のチャンスは今年しかねえってわけだよ」

「たしかに」

「収穫言うなよ」


 納得と突っ込みがまばらに飛び交う。中野はパンツ一丁のまま腰に手を当て、ベンチの上に立った。


「そこでサッカー部内、チョコ取れ高王決定戦を開催する!」

「馬鹿だろ」

「馬鹿だな」


 突っ込みと呆れがこぼれるが、皆の顔はまんざらでもない。男子たるもの女子からのチョコは欲しい。おまけにバレンタインチョコともなれば、その数は男としてのステータスだ。もちろん俺だってチョコはほしい。中学に入って幼馴染の美郷から貰えなくなって以降、俺にチョコをくれるのは母ちゃんだけだ。女子の手作りチョコなんて考えるだけでご飯三杯はいける。

 とは言え、結果の分かり切っている勝負を勝負と呼ばないことは確かだった。


「つってもよ、どうせウチの学年は清水の一人勝ちだろ。去年は二四個だっけか?」

「二六個な」

「どっちにしたってバケモンだ。鼻血出しまくって死ね、モテ男」


 俺の誤りを即座に修正した清水に恨み言が飛ぶ。清水は冗談交じりに「俺が死んだら女子が哀しむからなぁ」とか何とか言っている。鼻につく台詞だがまあ概ね事実だし、清水が言うとあまり嫌味っぽく聞こえないところが逆に憎い。


「もちろん母親その他、妹とか姉ちゃんはノーカン。祖母ちゃんも駄目だ」

「はーっ、まじかよっ! 俺三つはいける計算でいたのに!」

「近所のおばちゃんは?」

「近所のおばちゃんはなしじゃね?」

「いや、けどそれが近所のねーちゃんならどうするよ。恋の予感だぞ」

「たしかに……年齢制限するのもあれだしな」

「他校の女子はオッケーだよな?」

「貰える見込みあんのかよ」

「俺には見える。放課後の校門で美香ちゃんが俺を待っている光景が見える!」

「それ、こないだ試合したとこの女子マネじゃん。キーパーと付き合ってんぞ」

「はあっ? なんだとあのゴリラ!」


 などと、既にチームメイトたちはルールを定めつつ勝手な盛り上がりを見せている。なんだか楽しくなってきた。こうなったらやってやるぜ。俺は集まる奴らの輪に飛び込み、にたりと口角を吊り上げる。


「クラスの女子が配り歩くやつはありだよな?」

「まあ義理だが、それはあり!」

「っしゃあ! 打倒清水!」

「打倒清水!」


 俺たちはわざとらしく清水を除け者にして円陣を組む。色々な制汗剤と汗の匂いに満ちた部室に、試合前なんかよりも遥かに大きく気合いの入った掛け声が響いた。



 チョコは欲しい。お菓子はすごいし、砂糖は偉大だ。

 だけどバレンタインともなれば話は別。砂糖の偉大さは揺るがないけれど、重要なのはそこじゃない。あの場ではああやって乗るしかなかったが、量よりも質。一番重要なのは、それが誰がくれるどんな意味のチョコレートかだ。

 俺はそんなことを考えながら夜道を歩く。蹴飛ばした石ころが程よいスピンで地面を転がって飛んでいく。石ころの行き先を目で追って、ちょうどコンビニから出てきた少女とその上で揺れるバレンタインフェアのポップが見えた。


「お、美郷じゃん」


 美郷は立ち止まる。向けられた顔は露骨に嫌そうな、まるで雨上がりの晴れた日にミミズを踏み潰したような顔だった。だが俺はめげない。いつものことだ。


「なに? チョコの買い出し?」

「残念でした。ポテチですー」

「夕飯前にこんなの食ったら太るぞ」

「はい、余計なお世話」


 美郷は俺を睨み、はチャリの籠にポテチと紅茶を突っ込む。それから自転車を手で押しながら、俺の横へと並ぶ。自転車に乗って颯爽と帰ることもできるのにそうしないのは、分かりづらい美郷の優しさだ。


「部活?」

「そ。今日は軽めだったから早く終わった」

「毎日大変だねー。こんな寒いのに」

「まあなー。今年惜しいところで負けちゃったから、皆来年こそはって気持ちが強えんだよ。清水もいるし」


 言って、俺は自分の失言を後悔する。名前なんて出すんじゃなかった。唇を尖らせる美郷の横顔を盗み見ながら思った俺の、胸の奥のあたりがむず痒くなる。


「清水くん上手だもんね。勇人と違って」

「俺と清水はポジションが違えの! あいつはトップ下で俺はサイドバックなの! 失敬なやつだな」

「ふーん」


 思わずムキになってしまった俺の勢いを削ぐように、あるいは俺になんて興味ないと言わんばかりに、美郷が言う。俺は身体の陰で拳を握る。

 しばらくの間、俺たちは揃って黙り込む。自転車のペダルがからからと回る音だけが響いてた。


「なあ、美郷」


 俺は意を決して口を開く。震えないように抑えつけた声は消え入りそうなほどに弱々しかった。


「なに?」

「……お前もさ、清水にチョコあげたりすんの?」

「は? な、何で私がそんなことすんのよ」


 咄嗟の否定。それはそのまま、美郷の気持ちの表れだと俺には分かってしまう。

 デリカシーがないと、空気が読めないと、俺は小さいころから言われてきた。その通りなのだろう。でもだったら、もっととことん鈍感で、致命的に空気の読めない奴になりたかった。人の気持ちなんて微塵も分からない、狂ったサイコパスにでもなりたかった。

 だって美郷の視線の先だけ、一番分かりたくないその気持ちだけ、俺は気づいてしまうのだ。

 ずっと見てきた。小学生のときも、中学生のときも、高校生になってからも。だから、俺には分かってしまうのだ。

 胸の奥で疼く痛みを誤魔化すように俺は笑う。いつも通り、空気の読めない俺であり続ける。


「なーんだ。よかったぜ。いやさ、部のみんなでチョコの数勝負してんだよ。去年は清水の一人勝ちだったからな。幼馴染のお前まであいつにやるってなったらピンチだなーと思ってよ」

「何がピンチだなーよ。そもそもあんたになんかあげないし」

「え、何でだよ。小学校のときとかくれたじゃん!」

「いつの話してんの……。てか、私があげてもあげなくても、あんたが清水くんに勝てるわけないでしょうに」

「いや、諦めたらそこで試合終了なんだぜ?」

「それバスケだから」


 美郷が呆れたように溜息を吐く。だから俺は、何にも気づけない振りをして馬鹿みたいに声を上げて笑うのだ。


   ◇


 バレンタイン当日はなんだか浮ついた空気のなか、時間が流れていった。

 女子が持ち寄って配るお菓子に男子が群がる。かくいう俺も、美郷が持ってきていたブラウニーには命を懸けてがっついた。もらえた。嬉しかった。たとえそれが量産された義理で、女子同士で交換し合うために作ったもののおこぼれだとしても。

 気になる俺の取れ高は四つ。もちろん全部が義理で、女子たちの輪に果敢に飛び込んで勝ち取った戦利品だ。この数ならビリはないだろう。だが数以上に価値があると、俺は思っている。

 だけど当然、気掛かりもある。

 美郷はこの後、清水にチョコを渡すのだろうか。

 一限目が終わり、二時限目が過ぎ、三、四時限目をやり過ごし、昼休みがやってくる。俺は気づけば美郷の姿を目で追っていて、教室から出て行く美郷を見つける度に心臓を握り潰されたような感覚になる。

 美郷は清水に本命のチョコを渡すのだろうか。

 午後の授業もほとんど耳に入らなかった。いつもなら居眠りしている日本史の授業でさえ、今日は一睡もできなかった。放課後が近づくたび、時計が秒針を刻むたび、俺の緊張は右肩上がりにひどくなり、背中には嫌な汗が浮かんだ。

 清水はいい奴だ。友人としてもサッカープレイヤーとしても尊敬できる。だからもし美郷の気持ちが通じて上手くいくならば、それは歓迎すべきことのはずだ。

 だけどそんな建前など吹き飛ぶほどに、醜い感情が俺のなかにはある。

 上手くいかなければいい。こっぴどくフラれてしまえばいい。美郷はいつまでも、俺の隣りにいればいい。俺に一番近い場所で、誰のものにもならずにいればいい。

 分かっている。こんなものは、幼馴染という絶妙な立ち位置を失いたくないだけの臆病者の戯言だ。傷つくことに怯えたまま、美郷の気持ちを振り向かせることなんてできやしないのだ。

 HRが終わる。結局、美郷が清水にチョコを渡しそうな気配はない。そんなことをに安堵している自分がまた嫌だった。

 普段通りの様子で教室を出ていく美郷を見送る。俺はこんなときに限って掃除当番だった。


「んじゃ俺、ゴミ捨て行ってそのまま部活行くわ」


 面倒がられるゴミ捨てだが、手っ取り早く掃除から抜け出す裏ワザだ。俺はエナメルバッグを肩に下げ、ぱんぱんに膨らんだゴミ袋を片手に教室を後にする。

 裏庭から校舎の隣りにあるゴミ捨て場で仕事を終えた俺は部活に向かう。昇降口に差し掛かったところで、俺は思わず階段横にある防火扉の陰に隠れた。

 清水だった。一緒にいた女子は、よく見えなかったけど美郷ではない。たぶんよく清水目当てに練習を見に来る後輩の子だ。

 というか何で俺が隠れたりしなきゃなんねえんだ。人の出入りがある昇降口で話しているあたり、別に告白というわけでもないだろう。

 俺がそんなことを考えているうちに二人の会話は終わった。


「じゃあ、部活頑張ってくださいねーっ!」

「おう、ありがとー」


 後輩はぱたぱたと走って立ち去り、清水もローファーに履き替えて部室へと向かう。俺はなぜか殺していた息をふっと緩めて歩き出す。そして下駄箱のところで縮こまっていた美郷と目が合った。


「美郷じゃん。何やって……んの」


 反射的にそう言いかけて、俺は言葉を呑み込む。軽々しく話しかけられるような雰囲気ではなかった。美郷は俺から顔を背ける。僅かに潤む瞳と状況が、俺に全てを告げていた。


「別に」

「別にってことはねえだろ。……その、大丈夫か?」

「うるさい」


 突き放すような鋭い声が響く。

 俺に出来ることはない。分かってはいたが、こんな壊れそうなほど弱々しく見えた美郷を放っておくことはももっと出来なかった。


「なあ、美郷」

「うるさいなぁ、もう! ほっといて!」


 美郷は叫び、鞄のなかから取り出した何かを俺に向けて投げつける。俺は直撃したそれを何とか受け止める。ピンクの小洒落た包装紙に包まれたそれが何であるか、想像できないほどに俺は鈍くはなり切れない。


「美郷、これ」

「あげる! 欲しがってたし。よかったね!」


 美郷は自棄になった言葉で履き捨てる。上履きを履き替えもせずに踵を返し、勢いよく昇降口を飛び出していく。


「あ、おい、ちょっと、美郷!」


 俺は呼び止めるだけ。声は届かず、微妙に伸ばした手は何を掴むこともなく。美郷の姿はすぐに見えなくなっていく。


「……クソっ!」


 俺はどうしたらいいのか分からなくて、力任せに下駄箱を殴りつける。当然下駄箱はびくともせず、俺の拳だけがずきずきと痛む。

 だけどたぶん、美郷はもっと傷ついている。

 酷い自己嫌悪に陥った。何がフラれればいいだ。美郷の気持ちなんか俺はちっとも考えていなかった。俺は自分のことばかり、どうやったら傷つかないかだけを考えていただけだ。


「クソっ! 俺が欲しかったのは、こんなんじゃねえんだよ」


 俺は自分を罰するようにもう一度下駄箱を殴る。周囲の視線が集まった。睨み返した俺は人混みを掻き分け、上履きのまま走り出す。

 ふざけんな。俺も美郷もふざけんな。泣くほど好きならちゃんとしろ。気づくのが遅すぎんだろ。好きな奴の恋心くらい、何より大切に思ってやれよ!

 向かったのは部室。勢いよく扉を開け放つ。驚いた様子の一年生がそそくさと着替えを終え、俺と入れ違いに出ていく。俺はベンチに座ってスパイクの紐を結んでいるチームメイトの名前を呼ぶ。


「おい、清水」


 呼ばれた清水が顔を上げる。俺の剣幕から何かを感じ取ったのだろう。すぐに真剣な表情になって清水の整った顔が俺を見返した。


「どうした? 光井」


 俺は美郷が投げつけた小包を、清水の鼻先に突き出す。


「……お前に届けもんだ。俺の、大事な幼馴染から。心して食え」

「おう……ありがとう……」


 清水は小包を受け取り、女子たちからのチョコが詰まった紙袋に仕舞う。俺は喉を突いて飛び出しそうになる叫びを呑み込んで、部室を後にする。目まぐるしい状況に理解が追いつかない清水が俺を呼び止める。


「光井? お前部活は?」

「悪い。やんなきゃいけねえことある」


 俺はそれだけ言って走り出す。途中、昇降口に立ち寄って二人分のローファーを回収。できる限りの全速力で学校を飛び出す。

 今から走ればまだ間に合うはずだ。

 わざわざフラれにいくなんて馬鹿みたいだ。

 だけどそれでいい。

 俺はもう傷ついてもいい。

 もう誤魔化したりもしない。

 俺は美郷が好きだ。たとえ美郷が俺を好きじゃなくても、絶対に。

 だから伝えてやる。

 誰かを好きになったこの気持ちを、お前自身が大切にしてやらなくちゃダメなんだ。

 俺が応援してやるから。

 もし傷ついたら慰めてやるから。

 必要なら笑い飛ばしてやったっていい。泣いてやったっていい。

 だから待ってろ、好きな人。

 恋なんて、全くもってクソ食らえ。

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