青い風が吹くこの一瞬を

 窓から吹き込むほのかな温もりを帯びた風。

 賑やかなメッセージに飾られた黒板。

 落書きが虚しい空っぽの机。

 三年間慣れ親しんだチョークと木と紙の――教室の匂い。

 掲示物で埋め尽くされていたはずの壁はいつの間にか綺麗になっていて、およそ一年ぶりにその表面を晒していた。

 何かがすっぽりと抜け落ちてしまったような寂しさと、門出を祝い思い出を懐かしむ温かさが、誰もいない教室にまだ名残惜しそうにたゆたっている。

 僕らは今日、高校を卒業する。


   ◇


 三年前の春――。まだ少し大きくて真新しい制服に袖を通した僕らは緊張や不安や期待を抱えたまま、この学び舎に迎えられた。吹奏楽部の演奏は迫力満点で、たった一つか二つ上の先輩たちが妙に大人びて見えた。

 勉強はいきなり難しくなった。特に数学は厄介で、僕は見事に赤点の常習犯。定期テストのたびに先生に呼びつけられては、進級を脅かされたのも今ではいい思い出だ。

 午後の授業はよく居眠りをして怒られた。弁当のあと、日が差し込む窓際の席で見る夢は格別だ。もしあの誘惑に勝てる人間がいると言うなら教えてほしい。あれだけ口酸っぱく僕を起こし続けたあの先生も、学生時代は絶対居眠りしていたに違いない。

 一カ月もして授業に慣れてくると、必ず出てくるのが先生の物真似が妙に上手いやつ。そんなクラスメイトの秀逸な物真似のおかげで退屈な古文の授業がほんの少しだけ楽しくなったりした。

 初めて迎える行事は体育祭。運動部のやつらは見せ場だ。女子たちは何故か髪を盛る。あんな格好でまともに走れるわけがないのだけど、それを突っ込む人間はいない。もちろん体育祭は盛り上がる。声が枯れるほどに叫んだのはたぶん生まれて初めてだった。

 そう言えば、二年のときは応援団に入った。毎日の練習はしんどくて、声はガサガサになった。数日前に急遽着ることになった女子制服は本当に黒歴史。当日は悪ノリで化粧までされたせいで、終わるころにはパンダのゾンビみたいな怪物が誕生してみんなにひどく笑われた。

 放課後。午後の授業でしっかり寝て回復した体力を持て余すように、自転車に乗って海へ行き、山へ行った。別の日にはカラオケに行って騒ぎ、また別の日にはボーリングをして騒いだ。ファミレスやマックで騒いだら怒られた。当然だ。

 自転車のニケツも怒られた。たまに抜き打ちで通学路を張ってる先生がいるんだよな。あれはずるい。下ろされたあと、一台の自転車を手で押しながら並んで歩く男子高校生二人の絵面とか誰得だよ!

 友達同士、誕生日を祝った。休み時間に学校を抜け出して向かったコンビニで大量のお菓子を買い込み、お決まりの顔面パイとコーラかけ。一度教室中をべたべたにしたら運悪く見つかってしまい、先生にこっぴどく怒られた。次からはブルーシートを用意した。先生は呆れていた。

 なんか怒られてばっかだな……。

 夏には近くの川原で花火をした。女子を誘っても楽しいが、男だけでやる花火はさらに楽しい。ネズミ花火とトンボ花火を合体させる危険なあれは、一体誰が考えたのだろう。ロケット花火は人に向けてはいけない、絶対に。

 冬は自転車通学が地獄。吹き付ける風で耳が死ぬ。身体をあっためるために無駄に競争したりして全力で漕ぐ。そのせいでまた耳が死ぬ。最後には結局みんなバス通学に切り替えて、地域の老人たちには少し渋い顔をされる。

 合唱祭は準備期間がしんどい。女子は妙にやる気を出してきてやる気のない男子や運動部勢に文句を言う。クラスが真っ二つに割れて険悪なムードになるなんてのはよくあること。だけど少しずつみんながやる気になって、最初はバラバラだった不協和音は、いつしか綺麗なハーモニーへと変わる。例に漏れず最初はやる気のなかった僕も、当日は三八度の熱を引き摺りながら気合いで出席した。銀賞を獲ってクラスの半分以上が嬉しさと悔しさに泣いた。

 熱い行事と言えば球技大会だ。バレーもバスケもサッカーも各々朝練をしたりして、短い時間でチームワークを磨く。学校行事はいかに本気になれるかが楽しむコツだ。二年生のときは三年のチームにこてんぱんに負けて、悔しすぎて泣いた。応援してくれた女子も泣いてくれた。打ち上げのもんじゃ焼きはまるでお通夜だった。

 逆に文化祭は準備期間が楽しい。絵がうまいやつ。予算のやりくりがすごいやつ。黙々と作業をする偉いやつ。普段はあまり日の目を見ることのない才能がこれでもかと炸裂し、クラスに新しいヒーローが誕生する。当日だってもちろん楽しい。屋台を切り盛りしたり、お化けになって脅かしたり、男装や女装をしてみたり、とにかく騒ぐ。騒いで騒いではしゃぐ。ちなみに後夜祭のフォークダンスを一緒に躍ると結ばれるなんて都市伝説は真っ赤な嘘だ。僕もあいつもあの子も、結局両想いになんかなれちゃいない。

 そう、恋もした。

 同じクラスのあの子。派手ではないけど地味でもなくて。笑った顔がかわいいあの子。絵がうまくて、たまにとんでもない毒を吐く。そんなところもまたかわいい。

 教室で話しているうち、いつの間にか好きになっていた。

 来てもないのにLINEをチェックした。すぐに返信したくなる気持ちを堪えて、わざと間隔を一〇分とか開けて返事を送った。彼女の次の返信は一時間後だった。

 そんな調子で分かる通り、僕の恋は実らなかった。

 彼女は僕の友達のことが好きだった。その友達も彼女のことが好きだった。

 その友達に自分の気持ちを告げ、友情を固く誓い合った。それから玉砕決定の告白を敢行。

 今思い返してみれば、まるで少女漫画みたいのワンシーンみたいだなと胸の奥のほうがむず痒い。

 ちなみに振られたあと、少しの間気まずかった彼女とは今でも仲良くやっている。当然、恋敵の友達とも仲良くやっている。二人が付き合ってすぐに別れたのだけはほんの少し腹立たしいけれど、それはまあいい。


 目まぐるしく過ぎた日々。

 大きくて硬かった制服も、いつしか少しくたびれて身体にぴったり合うようになった。

 数えてみれば、緊張とともに迎えたあの春から一〇五九日。

 長いようでいて、振り返ってみればあっという間の濃すぎるくらいに密な日々。

 だけど同じ風が決して吹かないように、同じ日なんて一つもなくて。

 どの一日も、楽しかったあれも、哀しかったそれも、全部が全部かけがえのない特別な毎日だった。


   ◇


「あ、いたいた!」


 風だけが耳の横を通り抜けていく静寂に落ちる声に僕は振り返る。

 教室の扉のとこ、花飾りで髪を飾った彼女が立っている。ほんの少しだけ鼻声なのはたぶん、泣いたからだろう。化粧を直した目元はまだほんの少し赤い。


「校門と桜の木の前と昇降口とグラウンドで写真撮るって。みんな待ってるよ」

「うん」

「もー、なに一人でエモくなってんの。早く行こ」


 彼女は僕の腕を引いて駆け出していく。振り返った去り際の教室は僕が知るよりもずっと広く感じられた。

 いつかきっと、たくさんの時間が経って、僕らがもっと大人になったとき、この教室を小さく感じるときがくるのだろうか。今走る廊下を狭いと思うときがくるのだろうか。退屈でくだらなくて何より楽しかったあの日々を懐かしいと思ってしまうときがくるのだろうか。

 それはやっぱり少し寂しいと、僕は思う。

 だけどたぶん、この寂しさこそがかけがえのない財産なのだ。


「ねえ」

「なに?」

「思ったんだけどさ。写真多くない?」

「多くないよ。最後だもん」


 そう気丈に答えた彼女の声は、たぶんほんの少しだけ震えていて。僕は小さく「そうだね」と頷く。

 昇降口の外にはクラスのみんなが待っている。最後の青い風が吹くなか、数えきれないほどたくさんの、だけどまだまだ埋まらない思い出を抱えて待っている。

 あと何枚かの写真を撮れば、僕らは別々の道を歩き始めていくのだろう。だけど僕らはみんな同じ時間を胸に抱えて進んでいく。

 いや、同じ時間を抱えているから、これから続く未来に向かって笑顔で進んでいけるのだ。



 たくさんの馬鹿と勉強と退屈と、それから少しの恋をした。

 青い風に背中を押されて駆け抜けた三年間いっしゅんを、僕は一生忘れない。

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